小説「旅人の歌ー 儒者篇」その30 - 宴 | 物語書いてる?

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 その朝は、晴れ渡っていた。夫人は裏手の井戸に回って、長い髪を一つに結い、顔を洗った。今日は山芋を掘りに行こう。このところ患者の数が減って来ている。講義もない日だから儒者も誘おう。少しは体を使わないと、健康に良くないわ。そう言えば、着物の端が綻びていた。後で繕っておかないと…。士大夫にみすぼらしい恰好はさせられない。もっともあの人は、恰好に全く関心が無いけれど…。夫人の顔は自然と和んだ。後ろで咳ばらいがした。振り返ると、儒者と眼が合った。
「随分、楽しそうな独り言だな」儒者の瞳にくすぐったそうな光が見えた。夫人の顔は真っ赤になった。夫人はくるりと儒者に背を向けると、挨拶もしないで駆け出して行った。
(確か、山芋掘りと言っていたな。)儒者は鍬の置いてあった場所を頭の中で探した。

 朝食の場はいつものように静かだった。儒者の根菜を咀嚼する音。惺窩の汁を啜る音。夫人が茶を入れる音。夫人は羅山の椀を見て、おかわりを促した。
「いえ、もう結構です」羅山はにっこりと腹をさすって見せた。
 その時、池の中の鯉がもんどりうった。水飛沫がつがいの雀にかかり、雀は慌てて飛び上がった。が、つがいの片方はうまく飛べなかった。雀は体の羽毛を震わせて水を飛ばした。
 朝食の片づけが終わると、夫人は籠を背負って寺の門を出た。表には儒者が立っていた。
「忘れ物をしたな」
 夫人は瞳を何度か瞬かせた。
「忘れ物?」
「山芋掘りなら、これを持っていかないと」儒者は鍬を肩に担いで見せた。
「それに、私を誘うのを忘れている」
 夫人の顔が真っ赤になった。
「知らない」夫人は山へと駆け出して行った。儒者は笑いながら後をついて行った。
 
 山芋掘りはこつを要した。不用意に抜いたり、グイグイ引っ張ると、根は途中で切れてしまう。夫人は額の汗を拭い、傍らで苦闘している儒者を見て微笑んだ。儒者は何本も途中で切れてしまい、意地になっていた。
「そうじゃないわ」夫人は見かねて儒者の手の近くに手を当てた。小指が触れて少し胸が鳴った。
「一緒に力を入れるのよ。ハナ・ドゥル、せっ」儒者と夫人は一度に力を入れて、山芋を土の中からするりと引きだした。力を入れすぎた反動で、夫人は儒者の上に折り重なって倒れた。
 木の枝に留まっていたシジュウカラが驚いて飛び立った。チチチ…と鳴いて空へ羽ばたいてゆく。夫人の胸が大きく動いた。口から心臓が出そうだった。夫人は凝固した。儒者と夫人は、寝転んだまま青空を見上げた。綿のような雲が二つ三つ。ポッカリと浮かんでいる。鼻いっぱいに空気を吸い込むと、儒者は半身を起して、夫人の手を引っ張り上げた。儒者はそのまま、夫人の肩を抱いた。
「ありがとう。ここまで生きてこられたのは、あなたが傍にいてくれたおかげだ」
 夫人の眼に薄っすらと涙がにじんだ。夫人は無言だった。そこに、坂の道を登ってくる羅山の姿が見えた。夫人は慌てて儒者の胸から離れ、髪の毛を触った。
「先生、せんせーい」羅山は興奮した面持ちで、大声を上げて儒者に手を振った。
 儒者は、頭の中で何かがグルグル回っているような感覚に襲われた。
「先生、聞いているんですか?」
 羅山の声が耳元で聞こえ、儒者は二十二見えていた羅山の顔が、元に戻っていくのがわかった。
「も、もう一度言ってくれ」
「はい。気を落ち着けて聞いてください。徳川内府が先生を帰国させよと命じたそうです。先生は、お国に還れるんですよ」
 下半身から鳥肌が立つ感覚が伝わってくる。襟の産毛が騒ぎ、儒者は思わず身震いした。その後胸の中に、温かい気が生まれた。
(願いが、叶ったのだ。ついに…。)
 胸の中の気は、父の笑顔となって、妻の艶めいた顔となった。赤子の手のひら、義父の厳めしい顔、甥の利発そうな顔、兄の手の温もり…そうしたものが、儒者の胸を満たした。その気は胸を昇って、目の縁から零れ出た。儒者の温かい気は、夫人と羅山の胸にも入り込んだ。夫人は顔を見せまいと、横を向いて涙を拭った。羅山は泣き笑いの顔になり、泣いている自分が恥ずかしく、口を尖らせた。儒者は羅山の頭を撫でた。

 儒者が寺へ戻ると、知らせを聞いた多くの人が集まって来た。知らせをもたらした茶屋と猿回しをはじめ、本阿弥光悦、角倉了以、双子の医師の理安・意安、近くに住む大工や農民など、いずれも俄か弟子となった面々で、夫人の治療を受けたのがきっかけで知るようになった者たちも併せ、寺の中は人で溢れ返った。鍋島家からは、勝茂の代理として氏家が来ていた。急遽宴の仕度が始まった。夫人は近くに住むおかみさんたちに手伝ってもらい、仕度を取り仕切った。
「先生、いざ還るとなったら船が必要でしょう。わてが用立てだせてもらいます」角倉が言った。
「道中の路銀は鍋島より餞別を預かって参りました」氏家が頭を下げて言った。
「先生、この印籠をお持ちくだされ。道中の虫下しには抜群の効果があります」理安・意安が口をそろえて言った。
「先生、わしは米と采をお持ちしました。これで道中もしっかり食べて気を付けて行ってください」農民が言った。
「あんさん、出発は今日やないんちゃう?こりゃまたえろう気が早うおまっせ」大工が言葉をまぜっかえした。
「あ、せやな」農民は頭を叩いた。
 集まった人々は一様に昂ぶった気分を抑えられず、華やいだ慶びの中に無理やり自分を押し込めた。出立までのあれこれに気を使い、胸の中の風を忘れようといつになく饒舌になった。やがて宴が始まり、酒の勢いも手伝って歌や踊りまで出た。そのうちに、飲みすぎた大工が急に黙り込んだ。目の前の徳利を酔眼でじっと見つめる。大工は立ち上がって、儒者の前に胡坐をかいた。
「先生…本当に、ほんとうにおめでとうございます。わて嬉しいんですわ。嬉しい…うれしいんですわ」そう言って大工は声をあげて泣き出した。周りの者が大工を連れ出そうとした。
「おい熊。もうよせ。酒がまずくなるぞ」
「先生の門出に、泣くもんやない」
 熊は、はたと泣き止んだ。急に笑顔になる。
「そうだ。先生のめでたい門出だ。これはいかん。よし、先生。見ていてください。今からめでたい踊りを披露いたしますぞ」熊は立ち上がって、ふらふらと踊った。
「あ、めでたいなあ。あ、めでたいねえ」周りの者も手拍子を打った。
 裏庭に佇む影を見つけて、儒者は夫人に声をかけた。夫人は夜空を見上げていた。
「宴の準備を、ありがとう」
「いいえ、もっと作ってあげたかったけれど…」
「これまで…」儒者は言葉を探しながら、口を開いた。
「あなたのことを、あまり、聞いて来なかったんだが…」
 夫人は振り返って儒者を見た。その瞳は濡れていた。儒者の心臓が別の生き物のように強く打った。
「この寺に…その…囚われているのか?」
 夫人は微笑した。
「いいえ。そのように見える?」
「豈(アニ)、その…そう見えなかったので、不思議に思っていた…」
「私には、誰も構おうとしないわ」夫人は呟いた。儒者は訝しげな顔をした。
「私は、秀吉のお手つきだから…」
 儒者は黙って星を見た。
「いいことを教えてあげましょうか?私が秀吉の寿命を縮めたと噂になっているの。私は、これでも将軍並みの手柄があるの」
 儒者は、夫人の両肩を引き寄せた。夫人は、その手を払った。
「私は、殺された夫の復讐をしに、此の地に来たの」
 儒者は夫人の顔を見た。夫人の額に青い筋が浮き上がった。
「そして、その願いは叶った。だから、もう故郷には戻れない。故郷に戻れば、いつまでも夫の影を引きずって生きなければならなくなる。私は何もかも忘れて、此の地で、私を必要としている人たちと、生きて行きたい…」
 儒者は夫人の顔を見続けた。夫人は顔を背けて、言った。
「私はこの地で…生きてゆきます」
 儒者は、出かかっていた言葉を胸に引っ込めた。肩を夫人の手に当てて、言った。
「元気で…」
 夫人は儒者の遠ざかる足音を聞いていた。