小説「旅人の歌ー 儒者篇」その17 - 筆耕 | 物語書いてる?

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 儒者は、そのまま寺に留まった。時折武士たちの姿が見られたが、儒者の姿を確認して、そのまま何も言わずに帰って行った。儒者は風邪をこじらせ、しばらく寝込んだ。夫人が忙しい合間を縫うようにして、こまごまと儒者の世話をした。儒者はぼんやりと窓外の紅葉に視線を彷徨わせた。起き上がれるようになった頃、藤原惺窩が書を持ってきた。儒者はそれらの書を捲って、何も言わずに惺窩に返した。
 惺窩は紙と筆を使って聞いた。
「何故、書を返すのか?」
 儒者も静かに返答を書いた。
「これは、古い書である」
「どれくらい古いものか?」
「少なくとも、二百年は古い」
 惺窩は頭を上げ、嘆息した。
「ところで、貴殿の望みは何か?」
「国に、還ることだ」
 惺窩は暫く考えて、また筆を取った。
「お国に帰るには、船が必要であろう。そのためには、金が要る。その金を、写経して稼いではどうか」
 儒者は暫く沈黙していた。
「諾」その文字は浮き上がって見えた。

 

  その日から、儒者は筆耕の仕事を始めた。まず取り掛かりとして、諳んじていた「大学」から筆を起こした。儒者は朝鮮儒教界最先端の解釈を加え、人間の本質を求めた程朱の学を余すところなく書き記した。「大学」を終え、「論語」、「孟子」、そして「中庸」に差し掛かったところで儒者は周囲に人が集まっていることに気づいた。彼らは儒者の書を写していた。いずれも惺窩の呼びかけた学究の徒であった。中には商家、稚児僧、武士、猿回しに至るまで、思いつめたように筆を走らせていた。その中に、ひとりの若い侍が思いつめたような顔をして混じっていた。
「ふう。なかなか肩が凝りますなあ」商人風の中年男が背中を伸ばしながら言った。
「貴殿、もしかして茶屋四朗次郎どの…」侍のひとりが声をかける。
「はい、そうでおます。わてが茶屋の四朗次郎です」
「ははは。さすがに面白きお人だ」侍が快活に笑った。
「でも、なんで商家の主が、儒学を?」
「はあ、これが人付き合いのいい勉強になるんですわ。いやでも、これはなかなか難しゅうて難しゅうて…。あの、せんせ。ここ何と言うとりまんのかいな?」茶屋は自分の写していた書を、儒者の前に置いて説明を求めた。儒者は茶屋の顔を見て、その眼を書に落とした。新しい紙に注釈を書いて見せた。
「ははあ?それは、常に真ん中を行けっちゅうことでっか?」
 儒者は頷いた。
「はあ…深いわあ。せんせ。おおきに」
 儒者は思わずクスリと笑ってしまった。