小説「旅人の歌ー 儒者篇」その2 - 儒者と武人 | 物語書いてる?

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 博堂では議論が白熱していた。
 折しも探賊の任についていた黄正使と金副使が倭から戻り、各々全く見解の異なる上奏をしたところだった。正使は倭に侵略の意ありとし、副使はそれを否と報告したのだ。朝議は、東人派の大儒として一目置かれている副使の言を取り上げ、地方警備隊から挙げられた軍備費や鳥銃の調達は、またも見送られた。
「おい、ところでお主はどう思っているのだ」
 儒者は、横から肩を叩かれた。熱狂的な金副使の師弟でもある友の顔がそこにあった。
「それはもちろん、"宥和を以て尊し"が第一義だ」儒者は躊躇いなく答えた。
 実際、朝廷には軍費を確保する余裕がなかった。今また増税となれば、農民の逃散は更に増し、経済に深刻な影響を及ぼす。
「そうかな」そう答えたのは友ではなかった。熊のような巨人で、顔は浅黒い。岩畳のようにゴツゴツしている。
「貴公は?」儒者はその威圧感を押し返すように声を張った。
「全羅水軍のイ・スンシンと申す」
 反骨を絵に書いたような男だな、と儒者は思った。
「貴公らは、弁舌だけで国防ができると思うておるようだな」
 横から友人が割って入った。
「ほう、まるで国防が全てと言わんばかりではないか」
 スンシンが目を剥いた。
「お主のような儒生共が、国を滅ぼすのだ」
「国を滅ぼす?ならば問おう。辺境の警備隊は日夜訓練に励み、士気の弛みはいささかもないと言い切れるのだな」
 スンシンの顔に血の気が差した。
「聞くところでは、武具の手入れもせず、ここ3ヵ月朝練の声すら久しいとのことではないか」
「全ての水軍が、東海のように腑抜けという訳ではない。現に儂は新たに軍船を建造している最中だ」
 友人の目が光った。
「なるほど、その軍費の為に来たのか」
 スンシンの眉がひくりと動いた。
「そのくらいで、もうやめておけ」儒者は双方を宥めに入った。
「スンシン殿。友人の非礼を代わりに詫びよう。だが国というものは、軍備だけでも成り立たない。このところの凶作で、今や国庫は火の車だ。入りを測って出を制するもまた肝要だ。軍備にしても、南だけではない。近頃北のオランケも蠢動している」
「お主は、倭の脅威はないと思うか」スンシンは中空を見上げながら言った。
「少なくとも我が師、副使はそう見ている」
「それをおぬしは、そのまま信じるというのか?いつから儒学者は予言ができる様になった?ああ、そうか。元々雨乞いの得意な集団だったな」
「貴様、夫子に何たる雑言」友人がまたも割って入った。スンシンはその手をひねり、投げ飛ばした。
「やあ、神聖な堂内で何たる狼藉」周りから声が飛んできた。
「衛兵、こ奴を取り押さえろ」
 スンシンの顔が青ざめたが、もう遅かった。スンシンはその場で縄を受け、獄へと引き連れられていった。
 退庁時になると、従僕が待ちかねたように小走りに近づいて来た。
「ナウリ、奥様が…」従僕の荒い息が儒者にかかった。
「うむ」儒者は静かに返事をした。
「その…逆子でして…難産で」
「…わかった」儒者はいつものように歩き出した。特に歩みを速めることもない。
「ナ、ナウリ。聞えましたので?」
「うむ」
「お、奥様と赤子が、危ないのです」
「わかった」儒者は少し歩みを速めた。
(このお人は、決して自分を変えようとしない。難産だというのに。)
 儒者が家に戻ってみると、義父が来ていた。義父は中庭をうろうろと歩き回っている。儒者の姿を見つけると大股で駆け寄って来た。
「おお、今戻ったか。聞いたか?逆子だそうだ」
 儒者は慌てる風もなく、落ち着いて義父に礼をした。
「はい、先ほど聞きました」
 その落ち着いた口調に、義父は意外そうな表情を見せた。
「逆子を知らんのか?」
「いえ、存じております」
「これはまた、婿殿は随分と落ち着いたものだな。命が掛かっているというのに」
 儒者は義父を居間にいざなった。義父は不審そうな顔で儒者を見た。
「心配ではないのか?」
「いえ、心配しております」
「とてもそのようには見えんな。日頃からそのような態度なのか?」
 儒者は返事に窮して目を伏せた。
「儂の娘が死んでも構わんのか?」
「いえ、決してそのような…」
「さすがは儒者の血筋。こんな時でも己を律しておるというのか。ご立派なことだ」義父は床を鳴らして立ち上がった。
その時、急に空が曇った。南から湿気を含んだ風が吹き始め、むくむくと雲が広がってゆく。やがて遠くで雷が鳴りだした。義父は、雲の流れを見て言った。
「いやな雲だ」

 雲は夜になってますます湿気を孕み、重く天から垂れ下がった。儒者は深く息を吸って、静かに気を吐き出した。手元にあった書を取り、目を閉じて頁を開く。再び開いた儒者の眼に入った文字は
「未達」
であった。

 儒者はその文字に目を注いだ。すると窓の外が真昼のように光で覆われた。雷音が突然儒者の頭頂から四肢を突き抜けて言った。
 儒者が庭に顔を向けると、樟の老木が真二つに裂け、あたりに煙が燻っていた。瞬く間に裂けた木の幹から火が出た。火は生き物のように妖しく揺らめいた。男たちが出てきて水をかけた。そこに豪雨が降って来た。男たちは、今度は慌てて屋根の下に戻った。
 儒者の視界に、小山のような影が映った。それは喉の奥で声を転がした。眼光が儒者の眼を射ぬいた。それはゆっくりと身を回して、雨の中に消えて言った。
(虎?)儒者は目を輝かせた。

 その時産室の方で慌ただしく声が上がった。産室自体が一体の生物のように、あたりの気を集めていくようだった。儒者は姿勢を正し、筆に墨を含ませて紙の上に筆を走らせた。
「愛生」
(たくましく生き、昏い世を愛で照らす。)儒者の頭には女児の名前だけが浮かんでした。
 雨音が弱くなった。それと呼応するかのように産室で泣き声が上がった。
(水に、縁のある子なのか…。)儒者は庭に出て、夜の気に触れた。
 外でどたどたと重い足音がした。
「ナウリ、生まれました。お嬢様です」
 儒者に安心感が広がった。去年長男を授かったばかりだ。波乱の種を少しでも取り除きたいと思った。
「そうか。五体無事か?」
「はい。右耳が少し潰れておりますが、他は特にありません」
「して、妻はどうだ?」
「はい、奥様も、ひどくお疲れのご様子ですが、医者の診立てでは、ご無事であると」
「わかった」
「ナウリ、お子様をご覧になりますか?」
 儒者の心の中に、暖かいものが広がった。
「ナウリ?」
「うむ。そうだな。産室が落ち着いたら、参ろう」

 儒者が産室を訪れると聞いて、妻は憔悴しきった体を無理矢理起こした。
「手鏡と紅を…」
 かすれた声でそういうと、髪を撫でつけ、侍女の差し出す鏡で、口に紅をつける。室外で、聞きなれた夫の落ち着いた声が聞えた。
「入ってもよいか」
 妻は、最後にもう一度鏡で確認すると、喉の奥で軽く咳払いしてから、意識して高い声を出した。
「どうぞ」
 儒者の眼に映った妻の顔は、普段より縮んで見えた。相当悪いようだ。それでも髪も鬢に撫でつけ、紅まで差して…。病み上がりのような顔と口に付けた紅が似合っていなかった。そこだけ別の生き物のようにぬらぬらと光っている。
「まだ起きずと、良い。横になっていなさい」
「いいえ、大丈夫です。ナウリ、子を見てください」
 儒者は妻に急かされるようにして、赤子を見た。一目見たときには、眉の濃さに驚いた。まぎれもなく儒者の子だった。
「二の腕に三つボクロがあるでしょう。あなたと同じところに」
 妻に言われて、儒者が赤子の二の腕を確認すると、自分のホクロの複製であるかのように、小さな点が三つあった。儒者の心の中は、暖かいもので満たされた。
「右の目尻にあるホクロは、私と同じ」
 ふと、儒者は妻が饒舌になりすぎていると思った。
「わかった。もう休むがよい。大儀だった」
 儒者は産室を後にした。
 夜半を過ぎて、雨は激しさを増した。視力を失ったかのような暗闇の中で、ときどき稲光があたりを白昼のように照射する。しのつく雨の中を、おかしな噂が飛び交った。

 …鬼の軍団が南からやってきた。
 …地獄の羅卒が鳥銃を放つと、多くの人が、一瞬でなぎ倒される。

 それを聞いた人たちの頭から、理性が吹き飛んだ。夜の闇の中から、今にも地獄の軍団が現れてきそうな錯覚にとらわれ、人々は家財道具を纏め、そそくさと家を出た。それでまた物音に目が覚めた人達は、異様な光景を目にした。雷雨の中、深夜よりも明け方に近い頃、物言わぬ人々の集団での移動。それは、本能が人々を行動に駆り立てたものだった。

「ナウリ。た、大変です」
 儒者の寝室の灯りがともった。
「家宰か?どうした?こんな夜中に」
「ナウリ。それが、外の道を大勢の人が歩いています」
「大勢のひと?」儒者は身支度を整えると、門の外に出た。雨脚はいよいよ激しく、辺り一面真っ白な水しぶきの中を、多くの黒い影が、無言で歩いている。いつ頃、どこから始まったのかわからないが、どの顔も恐怖に歪んでいる。儒者は中の一人を捕まえてみた。

「何が、あったのだ?」
その男は、うつろな目つきで答えた。
「ナウリ、まだお耳に入っていませんか?地獄の門が開き、この世の果てから、鬼たちが攻めてきたのです」
「鬼?」その男は儒者の手を振りほどくと、荷車を押して通りを歩いて行った。人々は、南から北へと向かっていた。

 南となると…儒者は昼間に口論した武官の言葉を思い出した。
「お主は、倭の脅威はないと思うか」

 顔が青ざめた。何か、自分のよりどころとしていた土台が、崩れるような予感がした。儒者は家に戻り、家宰に軽挙妄動を慎むようにと指示を出した。下僕を起こすと、その足で、しらじらと夜の明け始めた官庁へと向かった。

 官庁に、続々と情報が集まって来ていた。
 倭は十数万という大軍であった。倭軍は突如南岸に出現すると、周辺の村を襲った。村では鳥銃を使って一斉射撃し、その場で老若男女ことごとく殺されたという。倭軍はその後、二方面作戦を展開している。第一波は釜山鎭へ向かった。そこで釜山城守備隊に降伏状を送ってきた。守備隊長鄭なにがしはこれを黙殺。今は両軍睨み合いの状態が続いている。

 一方多大鎭へ向かった倭軍もまた、李なにがし率いる守備隊と対峙しているという。
「さて、そこで上奏文の件だが、いかにすべきか?」官庁の長が、おもむろに口を開いた。
「たかが倭賊が南岸を侵したくらいの事。何ほどの事がありましょうや。このような事は目新しくもない。かの世宗殿下の治世より続いてきたこと。あまり大仰な物言いは慎むべきかと思いまする」年長の官吏が弁を振るった。
「そちの言、もっともであるな。では、簡潔に事を済ますかの」長が衆議を終わらそうとした時、儒者が発言を求めた。
「報告によると、倭軍の規模は数十万とある。これが事実であれば、我が国中の軍隊をかき集めてもその数に及ばない。まずはこの点を、確認すべきではないだろうか」
「確かめるまでもない。いい加減な数字に決まっている」年配の官が儒者の言を遮るように言った。
「今まで、大げさに言わない報告を目にしたことがない。最初のうちはまともにとったが、あまりに何度も規模を水増しして云って来るので、今ではその報告から実勢が読み取れる。第一波はせいぜい数百から一千。総勢五千から一万くらいであろう。何が数十万だ。こう報告すれば、国費を簡単に回すとでも思っている様だが、その魂胆は見え透いているわ」

 儒者はふと疑問を口にした。
「最後に倭が攻めてきたと報告を受けたのは、いつのことですか?」
「うん?それは…」年かさの官の目が宙をさまよった。
「さて、いつの事であったか。十年前…いや、二十年前か…」
「愚臣が気になるのは、探賊使一行が戻ったばかりで、しかも倭軍の襲来はないと報告があったばかり。それを覆した倭軍の迅速な行動が、不審に思われます」
「お主、それは副使の…儒の大家の言を否定している事になるぞ」老官は、目に異様な色を見せた。
「もとより師の言を否とする気はござりませぬが、それよりもまず事実を確認することこそが急務かと思います」
官長が手を挙げて押しとどめる様な仕草をした。
「わかった。わかった。では奏上の件は棚上げとし、我が下僕にでも様子を探るようにさせよう。これでよいかな?」

 儒者は話の矛先が変わったことに気付いた。
「いや、お待ちを。一報はそのまま奏上すべきかと思います」
「そなた、ちとくどいの」長が目を細めた。
「大体、弟子のそなたが師の非を暴くというのは、どういう料簡なのだ?」
 儒者の眉が動いた。
「自由気ままも良いが、ここは儒教の国。お主はその儒学の徒。一体何を、今まで学んできたのだ」
「大体日頃から、その人づきあいの悪い性格、なんとかならんかと、周りがへきえきしておるわ」
「ご政道に意見する前に、まずは自分の身を修めるがよろしかろう」

 儒者は黙って一礼すると、周りの失笑を聞きながら退出した。