二、三日前から、陶弟子は咳が止まらなかった。息を吸うときに肺の中で何かが擦れるような音がする。悪い病ではないかと、陶弟子は心配になった。布団に横になっていると、板戸を開いて訳官の顔が覗いた。
「ナウリ、お加減いかがですカ?」
「うん。あまりよくない」
「それは心配ですね。最近はたちのよくない病が流行ってますからね。気を付けないと」
「それで、こんなぼろ家に何の用だ?」陶弟子は吐くようにして口から言葉を押し出した。
「ああ、そうそう。あの陶工が、この度『士』になるそうですよ。家も貰って・・・その家がね、何とついこの間までナウリの住んでいた家でした。あの家にもし心があったら何と思っていることか・・・」
陶弟子はぼんやりと陶工の顔を思い浮かべた。肺の奥の方から、何かが次第に上がってくる。それが通過してゆくところどころで、擦れるような痛みが起きた。
「それでね、お館様が陶工に命じて、徳川に献上する焼き物を、今造っているそうです」
陶弟子の胸の中で、擦れる音が大きくなった。その音に苛まれて、陶弟子は寝床にじっとしていられなくなった。陶弟子は起き上がって、着替えを始めた。
「ナウリ、オディカケですカ?やめた方が良いですヨ。その体では・・・」
陶弟子は着替えの途中で、寝床に座り込んだ。肩を大きく上下させて息をした。
どこかの踏板が軋む音がしたような気がして、海女の弟は目を開いた。布団をめくってむっくりと起き上がり、辺りに耳を澄ます。しばらくそのままじっとしていたが、眠気に襲われてまた横になった。
(気のせいか・・・?)
渡り廊下の下から、黒い影がゆっくりと這い上がった。影は裏手の蔵へと迷うことなく進んだ。懐から蔵の鍵を取り出し、手慣れた手つきで錠を外す。蔵の中へ滑り込んだ。
男は息を吸い込み、痛みに顔をしかめた。中央に置いてあった木箱を手に取ったところで、男の表情が変わった。男は木箱の蓋を開けた。
(これは・・・?)男はそのまま蓋を閉めた。男は蔵の中を手探りで探した。隅の方に、灰色の焼き物が無造作に置いてあった。
(だまそうとしたって、そうはいかない。)男は焼き物を用意してきた袋に入れると、蔵の外に出た。
鍵をかけなおす最中に、男の胸に疑いが湧き起こった。
(どこかで、この光景を見た気がするが?)
男は闇の中を走り去っていった。
破れた障子越しに入る陽の光が、目の前にある焼き物に当たっていた。陶弟子の眼はガラス玉のようにその焼き物を映し出している。だが記憶は別のところを探していた。
(あの、石・・・。)
頭の底から、ぼんやりとした記憶が気泡の様に浮かび上がって来た。次第にゆらゆらと明るい方へ上がってゆく。表面に達して、それは弾けた。
(そうだ。あの時もあいつは、石を県監の家に持って行った。するとあの石は・・・。)
陶弟子は石の持つ意味に思い当たった。
(そうか、ハナからこの焼き物の代わりに、石を持っていくつもりだったんだ。)
「死ぬ気だ。兄貴!」急に大声を上げようとして、胸がひどく傷んだ。陶弟子は、胸を抑えた。
「こちらへ」と寺男に案内された茶室の中には、既に家康と本田正信、僧侶が座って待っていた。
陶工は腕に木箱を抱え、国主に続いてその狭い茶室の中に入っていった。
家康は眼を瞑ったままでいる。正信が軽く咳ばらいをした。
「ずいぶん時間がかかりましたなあ」
国主はつるりと月代を撫でた。
「これは失礼捕まった。首を入念に洗っておりましたゆえ」そう言って自分の首を扇子で叩いた。
僧侶は茶を勧めた。陶工は前に出された茶碗をじっと見つめた。
「これは、朝鮮白磁ですな?」国主が僧侶に尋ねた。
「はい、随分と値の張るものにござります。拙僧にはとんとそのよさがわかりませぬが・・・」僧侶はむすっとした表情で言った。陶工は、じろりと僧侶を睨んだ。本田正信が、また咳ばらいをした。
「コホン。では、早速焼き物を見せてもらいましょう」
国主は陶工に目を配った。陶工は静かに木箱の蓋を開けた。
陶工が木箱の中から取り出したものは、壺のような形をした御影石だった。
国主の喉に何かが引っかかって吸引音を生じた。その場に居る者の動きが止まった。
「この期に及んで、大した度胸よ。薩摩は一戦交えるも辞さぬという意思表示か。よかろう。ならば薩摩を、鬼哭の地と化して進ぜよう」家康の隣にいた本田正信が声を荒げて言った。
『鬼哭』という言葉に、陶工は胸を殴られたように感じて相手の顔を睨んだ。
「いや、その儀はどうか・・・」国主が言いかけたところで、庭から声がかかった。
「お待ちくだされ。作品はもうひとつござりまする」庭先に、陶弟子が控えていた。
「ノ?」振り返った陶工が、声を上げた。
「兄貴、ご無沙汰しております」陶弟子は頭を下げると、木箱を両手で持って、傍らにいた僧侶に渡した。僧侶は家康の前で、木箱から焼き物を取り出した。
その焼き物は、くすんだ灰色をしていた。取り立てて心を引くような白磁とは違っていた。
「これは何の趣向だ?我らを愚弄するつもりか?」正信はじろりと陶工を見た。
家康の隣に控えていた僧侶が、くっくっと笑った。
「惺窩、控えよ」その本田の言葉に、いよいよ僧侶の笑いが大きくなった。
「ははは。いや面白うてな。つい、笑ってしまった。石を石としてみれば、それはそれとして価値のある物。それを石として見ず、焼き物として見ようとしたが為に、怒りが生じた」
「な、何?」正信の頭の中で、怒りと戸惑いの言葉のどちらが先に出ようかと競い合った。
「いや、そうではない」陶工は目に異様な光を湛えていた。
「こんな物の為に、我が故郷を踏みにじったのだ」
その時、家康の目が開いた。
「我らは、韓土を踏んでいない。全て秀吉一党がやった事だ」
陶工は口をつぐんで、家康を見た。家康は細い目を少し開けた。
「今この地に、韓土より刷還使の一行が来ている」
「刷還使?」
「そうだ。先の戦で、拉致された者たちを迎えに来たのだ。貴殿をこの場で解き放ち、刷還使に引き合わせよう」
「・・・」
「どうした?嬉しくないのか?故国へ帰れるのだ」横から本田正信が言った。先ほどの口調とは打って変わり、温かみが入っていた。
「い、今少し・・・」陶工は喘ぐように言った。「今少し、考えさせていただきたく・・・」
「何故だ?ここにいる薩摩どのに遠慮しての事か?」正信はそう言って、国主を睨んだ。
「いや、それがしは何も・・・」国主は手を振った。
「そうであろう。万が一この韓人達に何かあらば、事は薩摩一国取り潰せば済むという問題ではないからな。だがそう長くは待てない。信使を待たせてある故な」
「はい・・・」陶工は低い声で言った。
宿の外に、陶弟子が佇んでいた。陶工はその肩を叩いた。陶弟子の肩が跳ね上がった。
「どうした?俺を訪ねてきたのだろう?入れよ」
「・・・」陶弟子は下を向いた。
陶工はその陶弟子の肩を抱きかかえて宿に入った。
「酒でも、一杯やるか」
「俺は・・・」
「此の地へ来てから、陶磁器を作ってみたか?」
「エ?」
「俺は、上手くできなかった。師匠の『 白 』を、此の地では再現できなかった。お前はどうだ?」
陶弟子は首を横に振った。
「その代わりにな、こんなものを造ってみた」
陶工は、無造作に置いてあった杯を陶弟子の手の平に押し込んだ。陶弟子がその杯を見ていると、陶工はその杯に酒を注いだ。
「まあ、飲め」
酒が杯の縁から溢れそうになって、陶弟子は思わず口をつけた。酒の匂いが鼻を突き、このところまともに酒を飲んでいなかった事に気が付いた。陶弟子は喉を鳴らしてその酒を飲んだ。その様子を見た陶工は、自分の杯に酒を注ぎ、天井を向いて一息に呷った。
「さあ、もう一杯飲め」
酒が体を巡り始め、二人の間に張りつめていた空気が和らいできた。
「大体、此の地は湿気が多すぎるんだ。これでは伝統の白など出せるものではない。そうではないか?」
「うん、うん・・・」陶弟子は、がっくりと項垂れた。
「ヒョン、俺に言いたいことはないのか?」
陶工はじっとその頭を見つめた。
「よし、ならば言ってやろう。この悪い奴め。お前のようなおとうと弟子を持ったのが運のつきだ」陶工はいきなり陶弟子の背中を平手でぴしゃぴしゃ叩いた。
「アー」陶弟子の痛がる様子を見て、陶工の胸に張っていたつかえが、次第に取れて言った。
「もう、忘れよう。これまでの悪縁は。なあ、また一緒に陶磁器を造らないか?」
陶弟子の眼から、涙があふれ出て来た。
「悪かった。俺が悪かった。ヒョン」
陶弟子は、急に真顔になって、陶工の顔を見た。
「ところで、刷還使の件は、どうする?」
陶工の口が止まった。
「お前は、どうなんだ?」
「俺は・・・。戻っても、もう何も無い。南原には、もう何も残ってない」
「そうだな・・・」陶工はポツリと言った。
「俺も、戻れないのだ」
陶弟子を見送って、陶工は宿の外に出た。その眼を射る様に、空には満月がかかっていた。示し合わせたかのように、虫が鳴き始める。陶工は月を見ながら、ふらふらと歩いた。気が付くと、いつしか河原に来ている。夜風が少し肌寒く感じられる。すすきの穂が月に照らされ、揺れている。
(故郷と、似ている。)陶工はすすきの穂を折って、手に取って見た。
急に月が陰った。見上げると、雲が月をよぎって流れてゆく。
(あの五虎宮主とは、一体何者だったのだろう?あの約束は、果たして夢の中の出来事だったのか?)
陶工は首を横に振った。どう考えても、目の前で現実に起きた事とは思えない。それでも、陶工は約束を破る気になれないでいた。
(もし万一、アガシに何か起きたら・・・?)
陶工は夜空を見つめた。雲を払って、月を見たかった。月はなかなか出てこない。
(宮主、本当にいるなら、今ここに出てきてくれ。)
陶工は雲が月を隠したあたりを見ながら両手を合わせて祈った。虫の音は、陶工の念に合わせるかのように大きくなった。その時、人の足音が聞こえて来た。雲が流れ、月が姿を現した。すすきの穂の間に、二人の男女がいるのが見えた。陶工は少し微笑み、その二人から遠ざかっていった。
(現れないつもりか?)
陶工は首を横に振った。
(俺は、何を期待していたのか?)
気が付くと、虫の音がやんでいた。陶工の体から、何かが抜けて言った。それは宙に漂いながら、月に向かって昇って行ったように感じられた。
(俺は、此の地からアガシの無事を祈ろう。)
「断ると、言うのだな?」本田正信は庭に控えている陶工に言葉を投げた。
「はい」陶工は頭を低くしたまま言った。
「理由を、聞いておこうか」
陶工は、暫くの間沈黙した。
雀が二羽、陶工の目の前に降り立った。そのあたりの石に嘴を擦りつけて囀った。
「戻っても、もう村は無いからで・・・」
その時、中庭で門衛の声がした。
「もし・・・」
「今取り込み中だ、後にせい」正信がいらいらと声を放った。
「あの、それが・・・」
「あとにせい」
正信は家康の顔色を窺った。家康は薄目を開けて、また閉じた。
「わかった。その旨信使に伝えよう。下がるがよい」
川を渡ったところで、海女の弟とブン蜂が手を振っているのが見えた。馬上の国主が陶工に声を掛けた。
「本当に、良かったのか?」
「はい」陶工は短く答えた。
「ならば、この地で子孫を増やすがよい。既にお主は我が家臣だ。名字帯刀を許す。名字は、韓国の氏をそのまま名乗るがよい。子孫代々、その氏を伝えてゆくのだ。また韓語も、絶やさず伝えよ」
陶工は馬上の国主を見上げ、黙って平伏した。
海女の弟が走って来て、陶工に抱き付いた。
「ヒョン」
陶工はその体の案外重いのにたじろいだ。
「どうした?」
「姉ちゃんに、子供が出来た」
陶工の体に、不思議な震えが走った。一陣の風が巻き起こった。
「本当か?」
「うん。よかったね」
陶工は立ち止って、歩いてきた道を振り返った。
「・・・」
「どうしたの?ヒョンの行く道は、こっちだよ」
陶工は弟の方へ振り返った。
--- 了 (小説「旅人の歌」第一部 陶工篇)---