こんにちは。
最近は気づきが目白押しなので、色々アップしています。懸案の和食展は、仕込み中です。
さて、今日の話題はタイトルの通りです。
2月13日から、朝には春らしい鳥の声で起床するようになりました。夕暮れから夜は、春の夜に訪れる、音としては聞こえてこないけれど、生命の活動が始まっているような動きのある静けさが、感じられるようになりました。
私は、「静けさ」にも、いろいろな感じがあると、田舎暮らしをする中で初めて気づきました。例えば、同じ「静けさ」でも、冬のそれとは違います。冬はもっと深く、静謐な感じや、包み込むような感じが聞こえます。
このような自然の音は、昔の人々には当たり前のように感じられていたようです。古典の和歌や随筆には、現代の文よりも細やかに、そして情緒豊かに、その感覚が語られているのを伺い知ることができますね。
このような経験は、都会暮らしを続けていたら、決して得られない体験でした。都会は四六時中、街中の人の話し声、テレビ、車の音(時には救急車の)など、様々なノイズに溢れています。自然の音はやはり、自然の中で生活しなければ聞こえないものがあるのだ、とわかりました。
このような自然の音や季節のありようが、文字で書かれたり、テレビで放送されている言葉でもなく、カレンダーからでもなく、本来はどのようなものか、その中身をリアルに体験できることは、たぶん、人として生きている歓びのひとつなのかな、と思いました。そして、それもまた、神の喜びなのだとも思いました。
未来に残したい、子供達に与えたいものは、親のエゴによっては、金とか利便性とか、学歴などが優先さるのかもしれませんが、私は、本当に残すべき何かが、次第にわかってきたように思います。
子供達を未来に向けたSDGsに参加させて学ばせることも大切ですが、自然を楽しめる「心とゆとり」こそがその基本になりますので、一番に優先して与え、育んであげるものなのではないかと思いました。
しかし、大体において親の世代は、やはり違うものに重きを置いていることが多いので、残念です。
その背景には、「今を生きていないから」という悲しい事実があることに気づきました。かく言う私も、かつては、自分の中の不安や恐怖のせいで、自然に親しむような心のゆとりがありませんでした。未来の不安や恐怖に駆り立てられて先を急ぎ、今を大切に生きられないのです。
そして、真我は常に「今、ここ」にしかいない、のですから、不安恐怖に埋没しているということは、神と共にいない、ということになります。
だから、今を生きられるようになる、とは、真我と一致して生きてゆくことになっていくのだなぁと思いました。
だんだん、今に生き、今に集中することで、不安・恐怖にとらわれる瞬間に気づけるようになってきて、不安・恐怖への囚われには真の答えがないことが見えるようになってきたら、私の問題はだいぶ整理されて解決してきました。
つまり、もしみんなが今を生きられれば、同様に、世の中の様々な(社会の)問題が解決されるのではないか、と気づきました。それは、先輩がずっと前に言ってたことなのですが、今になって腑に落ちるようになりました。
私は、魂のコンシェルジュ、としてライトワーカーの活動をすることを予定していますが、今日の話題のようなことからも、この活動は未来に向けて大切なことだと思いました。
今日の話題はここまでです。
今回もお立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
何か参考になったことがあれば、幸いに存じます。
🌿ほのぼの写真館:我が家の収穫物で、おやつ三昧
上:栗とリンゴのスパイスチョコブラウニー(自家製甘酒入り)
下:桑の実入りのはちみつ豆乳ヨーグルト