こんにちは。
元日早々,大地震のニュースが飛び込んできました。
震源地周辺の方々は、
被災地域にいらっしゃる方々、心よりお見舞い申し上げます。
また、お悔やみ心より申し上げます。
ニュースを見て、非常に驚いたり、悲しい思いをされている方々、
それが、世間的にはまっとうな、
第三者の立場にいる私たちにとって何ができるのか、
祈りや光を送ること、愛を送ること、なども大切ですが、
また、今年の心の持ち方においても、参考になりますので、
自宅で地震が起こったときに気付いたこと~「神の中に安らう」とは?
地震の時間の時、
しかし、いつものように、左後頭部が痛み、
その時「神の中に安らう」と閃きました。
それから、「エゴに安らぎを求めているから、
震源地からは離れていますので直接的な被害はありませんでしたが
「神のうちに安らう」ことを、
これは、「神々からの、宇宙からのメッセージだな」
熱中状態に気付いて、離れること(客観視の状態になること)、
大みそか、私はある会合に参加しました。
波動的には比較的良い場であったのですが、居合わせた人たちが、
想念観察(自己観察)の立場からすると、「熱中状態」とは、
また、「分析」や「想念を捏ねているとこ」
この状態をずっと続けていると、当然その意識(
個人レベルでは病、社会レベルでは様々な災害や戦争、
〇プレアデス人からのメッセージ
「集中と熱中について」
・・・(省略)
まず熱中について。
これはエゴ体が対象時にすっかり囚われ、身動きすらできない状態を示します(これは対象事の周りを衛星のようにグルグル回るというイメージをもって解釈して下さい)。そしてこの状態が、ある場合に非常に危険な状態を呼んでしまうことがあることを、あなたに言っておきます。捉えられている自己を管理することが非常に難しいこと、また中心の星はあなたの知らない間に危険地帯に侵入していくかも知れない、ということです。
簡単に言ってしまえば、自己と対象事、また第三者に対し、あなたはほとんど責任が持てなくなるということになるのです。この危険性は、特に集団においては、極端な場合には大量殺戮、集団自決等といった結果になって表れ、個人レベルであるのなら、発狂、ノイローゼ、自殺、肉体上の様々な病となって現れるでしょう。
・・・(以下省略)
客観視をしていない場合には、
『メッセージ集』に書いてあったことが、実践において、
「熱中状態」を感じるとき、私の場合には、やけにのぼせたり、
この会合では、何度かそうなりました
そして、気づいて早くみんなの想念の熱気から離れました。
その後、気分が悪くなりそうになる度に、ひたすら、光の瞑想(*
すると、一気に場の念が静かになりました。
これを繰り返しながら、
そうすることにより、何とか、波動を下げずに、
何が、今回の話題と関連するかと言えば、
この背景にあった気づき「
もし、それを集団レベルで増幅したら、どうでしょうか?
プレアデス人の『メッセージ集』によれば、「熱中状態」
実際、私が大みそかの集まりで感じたことが、
例えば、最近の温暖化は、一つのいい例のようです。
波動上昇とともに、
それが、場合によっては、二次的に「何か現象を引き起こす」
何とかしようと「熱中状態になる」というのは、
ネガティブな場合になれば、エゴの闇に埋没し、引き籠もったり、
ポジティブな場合になれば、
このように、「エゴの都合」に合わせた行動に気付かなければ、
しかし、エゴレベルの自分は、
「熱中状態で、エゴに囚われている」とは、
では、この状態が問題なら、どうすればいいか・・・
「エゴに安らぎを求める」ということは、
今、エゴという衣をまとっていることを自覚しながら、「
そこに気付いているのと、気付いていないのとでは、「進化」
また、地球の平和に貢献し、平穏な世界を望む場合には、
もちろん、病からの回復や人間関係の改善など、
他者がもし、「エゴに熱中状態」であることに気付いたら、
しかし、他者のエゴの熱中状態に、「迎合」したり「同意」
逆に、他者のエゴに「反発」しまくるのも違います。
それは、自分自身においても言えます。
エゴ(の想念)に、同意し、迎合したり、反発したりしても、
そして、「神のありよう」を、
私は、何度も不安や恐怖になるたびに、「本物の真理の本」
「神の世界のありよう」と、自分がエゴに嵌まっているありよう、
それにより、「どういう時にエゴ的安らぎを求めているのか」
判ってきた、ということは、その熱中状態から離脱した、
~☆~☆~
こう書いている私自身も、
しかし、努力するのとしないのとでは、大違いになります。
できること、理解できたことから、一歩ずつ、進んで頂ければ、
色々理屈を書きましたが、意識の方向性や、進化(神との一体化)
「そういうものなのか」と、掴んで頂ければ大丈夫です。
「エゴに安らぎを求めている」というのは、意識して「エゴ」
そして、次に大切なことです。
意識を中立に保つよう努力をすること
想念観察をしたり、常に自己観察をしていること、また、
そして、そういう時は、「神のうちに安らう」
災害の沈静化や大難が小難になること、などがあります。
不安を誤魔化すことを目的としたエゴの安らぎは、有限です。
そのため、いずれ、限界を迎えます。(限界とは、破壊とか、
気づきによる安らぎを得るようにし、無限からくる真の安らぎに、
それは、「聖人のようになる」とか「善人になる」ため、
私たちが、本来のありよう=私たちの本質=宇宙意識、神意識、
神聖な、というよりは、
そして、実は、もっと深く言えば、上述の「エゴの観察(
「あるがまま」「ただある」
という状態に、還るためのことになります。
実は、「進化」とは、そういうことのようです。
そのために、「成功哲学」的な要素のあるスピリチュアルや、
「何かになろう/何かを得よう」という「願望成就」は、「
一番いいのは、きちんとしたエッセンスを伝えている「真理の本」
その道からブレずにいると、自己(想念)観察が、次第に「
エゴはその存在が知られてしまうと消滅してしまうので、
しかし、それを通り抜けようと努力していけば、
すると、「波動が中立」に保たれる時間が長くなってくるので、「
「中立」が保てれば、純粋な光が出てきます。
それが「ただある状態」ということになります。
真我、とは、エゴが思うような「本当の自分」ではありません。この場合の「本当の自分」とは、「あるがまま」
「真我」とは、エゴをきちんと観察して、落としていった先に、
そして、それこそが「真の個性」に繋がっていきます。
本物のスピリチュアル、とは
前項でわかったと思いますが、そのため、
実は、ただ「あるがまま」を知る、
もちろん、楽しくやることも、エゴを生かすことも大切ですが、
エゴは、純化して使う、というのは、実は、
愛を体現する、ということではなく、「愛そのもの」
実は、元日のお昼にしみじみと感じたことがあります。
いつも通り、お昼の支度をしました。
元日なのでおせちをつつくのですが、それと一緒に食べる「
その時、我が家育ちの元気な「大根」を使うことができました。
自然農の師匠の奇麗な色の「京人参」や「里芋」も入りました。
なんと、お餅まで作ってくれているのですが、
ゆずも、無農薬・無肥料栽培のものを別の方から頂きました。
我が家の三つ葉は、寒い中でも藁の中で小さく育て続けていて、「
そしたら、小さな三つ葉を収穫することができました。
白味噌も、有名な自然系の味噌蔵の味噌を使いました。
我が家は、元日は京風(西の)お雑煮になりますが、
お醤油も、自然食品店のもの。
昆布も、実は永平寺御用達のものです。
お料理に使ったお水は、地元の神社にある湧水より、
信じられないぐらい、
しかし・・・私はもっと大切なことに気付きました。
実は、どんな食材でも、背景には、作ってくれた人たちの努力、
そして、野菜などの食材達も、
種を播いて世話をしますが、育つ意識が種にはあります。
そのことにも感謝だと感じました。
今年、一生懸命育てた人たちがいたから・・・その人たちが、
本来、おせちとは、そういう「昨年のみんなの成果」
お水も、きちんと管理してくれているから、湧き水が飲めるし、
そう考えると、自然環境に対する意識も、当然変えるべきなのが、
つまり、「ただある」ために、やるのです。
本来は、SDGsのため、とか、問題だから、ではなくて、「
ごくごく「当たり前のことに気づけなかったんだ」ということに、
話が環境の方にずれてしまいましたが、実は、
そういう、日常が、実は、
実は、それこそが、「真実」に気付くこと、であり、「
私自身、20年以上から今まで、外側をキラキラさせる方(
簡単に「本物か偽物か」とは言えないのですが、
一応、後から来る皆様に、「光」となるよう、書き記しました。
最後に。今年一年の過ごすポイントと、
奇跡、というのは、何かが不思議なやり方で起こる、
毎日が、普通に暮らせていることのありがたさ、こそが、実は「
今年は、辰年なので、「龍が暴れる」と聞きました。
たぶん、「波動がより精妙になってくる、ので、
エゴに走ると、たぶん、ものすごいあおりをくらい、
観察をしていなければ、なおさらのようです。
そのため、「中立を保つ努力を重ねる」
さざ波、小難、で、済まそうということです。
そういう人が増えれば、派手な現象(災害など)
焦って特別な自分になろうとか、何かを掴もうとするよりも、
神の視点が定着し始めるようになれば、
だから、安心して、エゴを脱ぐ方に行けばいいだけのようです。
つまり、「気づき」を深める方に、エネルギーを向ければ、
皆様が、今年一年、毎日が「奇跡の連続」であること、
来年が、きっと違ってくると感じます。
それでは、今回の記事はこれで終わりです。
何か参考になったことがあれば、幸いに存じます。
本日もお立ち寄り下さり、誠にありがとうございました。
光の瞑想
私は私の周りの光の存在、意識体に宣言します
私は私の光のすべてをささげます
この光は宇宙の根源より供給され、尽きることがありません
私は光 私は光 私は光
私の光はこの地球を覆いつくし、地球と一体となり
私の存在のすべてが、地球そのものであることを祈ります
私は地球の感じる感情のすべてを理解し
共に分かち合うことを祈ります
私は光を地球に注ぎます
私は光 私は光 私は光
音楽のお楽しみ~ヴィヴァルディRV630 この世にまことの安らぎはなく
これは、元日にFM-NHKの古楽の楽しみで、流された曲です。
朝の5時から始まる番組ですが、録音を私は3日に聞きました。
私が、震災の時に聞いた神の言葉と思われる言葉(今回の記事)と、この曲の紹介が、シンクロしていました。
ちょっと驚きましたが、きっと天界から強く伝えられているメッセージのように思いました。
曲の中では、宗教性があるため、「イエス」の中にこそある、となっておりますが、
それは、「宇宙意識、キリスト意識」または、上述のように、真我に向かうことの中に「安らぎがある」と、思って聞いてくださればよろしいかと思います。
Nulla in mundo pax sincera この世にまことの安らぎはなく
sine felle, pura et vera, 苦渋のない、純粋にして真実の安らぎは
dulcis Jesu, est in te. 慈愛にあふれるイエス、御身の中にこそ。
Inter poenas et tormenta 痛みと苦悩のはざまにあっても
vivit anima contenta 魂は満ち足りて生きている
casti amoris sola spe. 穢れなき愛のみを望んで