霊的価値観(や新時代の知識や情報)を取り入れる時の注意点 | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察や赦しにより道中で得た『叡智』を分かちあっています。

こんばんは。
最近忙しかったことと、色々なことがあり、書きたいことはたくさんあったのですが、なかなか整理ができずに今になりました。
前回からの記事の後、めまいや頭痛が酷くなったり急に指にばい菌が入り困っていたりして仕事が辛くなってきたこと、結局仕事を辞めたことなどありました。

そうしたことも含め、いろいろ個別に書ける記事もあるのですが、纏められることがわかりました。
今回は過去の私自身の赦しから「霊的価値観(肉主体ではない価値観)を取り入れる時の注意点、を中心にお話ししたいと思います。
また、新時代の知識や価値観を取り入れる時(肉体に属する側、行動)にも共通しますので、何か気になる方はお立ち寄りください。


🌿霊的価値観を急いで取り入れようとして、迷惑をかけた過去の赦し


私は、最近話題のコロナのことで職場の上司ともめたのですが、赦しを学んでいたために後から気づくことがありました。
上司のコロナ禍におけるお客さんや従業員に対する対応に対して、前から気づいていた「おかしな点」を注意しました。
そのことから、少しもめたことがキッカケで辞めました。
「このことを学びに変えたい」とか、「あるがままに受け取りたい」とか「闇を光に変えられますように」
と祈りました。
辞めて数日たってから、それは自分の過去の姿を投影していたことだったのだと気づきました。
それは、「霊的価値観(スピリチュアルの知識)を急いで取り入れようとして、自分の中に激しい葛藤が起こったことと、それにより周囲との摩擦が激しくなったこと」でした。
これを赦していなかったんだ、と気づきました。

10年以上前に統合失調症と診断された時、霊的価値観を取り入れれば「投薬」はなしでもいいと「投薬」を拒絶してしまい、薬なしで治そうと試みました。
両親の猛反対があり、周囲に迷惑をかけ続けてもやめずにいたのですが、3回目の入院後、ようやく投薬を受け容れた、ということを思い出しました。
その背景には、一度目に酷い入院をしたこと際の、病に対する反発や病にかかったことによる自己嫌悪、社会の底辺に行ってしまったと感じることから来る焦りや、怒り、悲しみ、絶望などを感じていました。

当時先輩からは、「それだけ悲惨な現実を創造できたのだから、その逆もできる」と言われて、希望を持ちました。
それは良かったのですが、私は、霊的価値観の受け入れ方がまだ未熟でしたので、その知識の受け入れ方がよくわからず(とにかく現状が嫌で、焦っていたこともある)、反動で極端なやり方に走ったわけです。
また、「精神薬の危険性」を伝えている本に出会い、それを読んで、さらに「断薬」の気持ちを強めました。
「断薬をやることにより治すことは、神の道」なんだ、として強硬的、盲信的にそれを絶対の主義主張にしてやり切ろうとしてしまいました。
途中で先輩には「盲信的になっている」とか「宗教的になっている」と言われていたこともありました。
しかし当時の私は、焦りや憎悪、被害者意識などに深く囚われていて、その気持ちが強い原動力になっていました。
「とにかく何が何でもやり切りたい、そうでなければ、自分がダメになる」という思い込みを掴んでいたのです。
「スピリュアルで私が治すのを証明すれば・・・」という、ダメな自分という思いを反転させた「優位に立てるようになりたい」という思いもありました。憎しみや悲しみ、怒り、そういうものに混じっていたのを覚えています。

その後の道はかなり険しいものになっていきました。
周囲との摩擦があったり、何かと思い込みや憎しみを深めてしまう癖により物事を大げさにしてしまい、それにさらに拍車がかかることもありました。
私は「断薬」、両親は「投薬」と、お互いの主張を譲りませんでした。また、今のパートナーともかなりもめていました。
そうやって、周囲との分離、そして、自分自身の神との分離、を深めているとは気づきもしませんでした。
傷を、赦しやその他のスピリチュアルの学び、あるいは他の手段を使って癒しても、一方ではできかけたかさぶたをまた剥してしまう、というような感じでした。

 ❑濃いエゴを禊ぐときには、病や激しい摩擦を経験して「霊的価値観」を学ぶこともある
    ― 理解は一筋縄ではいかない


話は戻ります。
上司は、本来なら柔軟に考えて対応すべきところを、周囲のことを考えずに、自分の主義主張を曲げずにいるところや、また、ポジティブシンキングで乗り切ろうとしていましたが、そのようなところが、デフォルメした形で自分の過去の赦しと重なりました。

自分自身の経験から、「自分の思い込み(観念)に、深くはまっている」場合、その現象を創造している、その人の中でも「濃い自我(自分の中の凸凹が強く出ている部分)」を禊ぐときは、私のように「かなり混乱した現象」を体験することによって、深く理解に落ちることがあるように思います。

私は、「プレアデス人からのメッセージ集」で、以下のようなメッセージを読んではいたのですが、それを真に知るのに、結局経験する(べき?)ことは経験してしまったわけでした。

「プレアデス人からのメッセージ集」―「集中と熱中について」(一部抜粋)

 まず熱中について。
 これはエゴ体が対象事にすっかり囚われ、身動きすらできない状態を示します(これは対象事の周りを衛星のようにグルグル回るというイメージでもって解釈して下さい)。そしてこの状態が、ある場合に非常に危険な状態を呼んでしまうことがあることを、あなたに言っておきます。捉えられている自己を管理することが非常に難しいこと、また中心の星はあなたの知らない間に危険地帯に侵入していくかも知れない、ということです。
 簡単に言ってしまえば、自己と対象事、また第三者に対し、あなたはほとんど責任が持てなくなるということになるのです。この危険性は、特に集団レベルにおいては、極端な場合は大量殺戮、集団自決等といった結果になって表れ、個人レベルであるのなら、発狂、ノイローゼ、自殺、肉体上の様々な病気等となって現れるでしょう。


というように、私は「熱中状態」でなっていた「統合失調症」を、さらに熱中状態の「妄信」という意識で、「断薬をやりきろう」としたのでした。
余談ですが、今回の上司との話題に出てきた「コロナ」に対する対策も、上司が何らかの情報を信じていたようなのですが、それをやり切る意識というのは、私の「断薬」と変わらないわけなのです。そもそも、周囲が上司の在り方に疑問を持っていたのですから、すでに「熱中状態」であることは、いくら冷静であるように思えても、同じことだったと思われました。

しかし、私のように、例え、悲惨な現実を創造した場合も、「理解を求めたい」という気持ちがあれば、必ず「光の道」に戻されてゆきますし、そのサポートが得られます。

問題は、後悔や罪悪感、トラウマなどを感じて蓋をし、いつまでも「問題として所有し続ける意識状態」にあることです。
これでは、霊的価値観というか、起こった現象から「本質」に帰るはずのチャンスが失われてしまいます。
ところが、霊的価値観を知ろうと思わない人たちにとっては、単なる「不幸な出来事」として終わります。

起こった現象、起こした現象に「善悪」は、本質から言えばありませんが、そうなるには、霊的価値観を知ろうとしなければなりません。
その起こった事象の根本の「思い込み(分離意識)」に気づき、理解に落としていく必要があります。
そのために、霊的価値観があるわけなのですが、それを理解し受け入れていくには、それなりの時間とプロセスがかかります。


1つ何か理解すればすべてがわかるというわけではなく、多方面にわたって概念がつながっています。
私たちには、「自分は肉体(が主体)である」という誤った概念に根差した思い込みがいろいろ根底にあります。
「魂」の姿が本質だということを知っていくには、肉体が主であるという概念を超えるには、
色々な分野で意識を変え、あるいは、変えられない場合には、行動から強制的に変えてしまうことで意識が変わるのを待つこともあるようでした。
そのプロセスとなる想念や現象を観察しながら、一つずつ赦していく毎に、悩みが癒されてきます。
その後にしつこい病(精神的なものも、肉体的なもの・・・歯なども・・・これは私が悩んでいることですが)が癒されてくる感じです。
色々なプロセスを経た後に、やっと一つの理解に達する、という感じがあります。
病は、いろいろな理解を経て治癒する、という感じがします。

よく「玉ねぎの皮を剥くように」と、理解のありようを例えることを聞いたこともあると思いますが、
私は、自分の観察経験から、この方が適切に思います。
「脳のシナプスのつながり方が変わっていく」という感じがしました。
それまでつながっていたことによって起こってた知覚反応が変化するからです。


 ❑「理解が血肉になっていく」というプロセスを踏む
     ―「信じる」とは? 真理と自分の思っていた「信じる」との照合・検証


色々なプロセスを経てやっと理解に達する、というのはつまり、それだけ
「霊的価値観(肉体が主ではない)を取り入れる、理解して進む、血肉化していく」ということに対して不安や疑心暗鬼になっているわけです。
私自身、「内なる神」に対するそれだけの信仰心(信じる心)があったわけではないですし、
また、霊的価値観と現状の自分との差額を見ること(観察すること)の習慣化はなかなかできなかったのです。


『心身の神癒』に、こういう行があります。
p.222 第7話 49
『信ずる』という言葉は、聖書で誤って解釈されてきている。『信ずる』という言葉は深く知るという意味なのであって理解(Understanding)はこの深く知ることである。理解が深くなるにつれて、自分を通して働き給う父なる神を益々意識するようになる。
〔故に〕父が下し給うた賜物を自然に展開していくがよい。このみ賜物が、あなたたちによって認識されるのを今待っているのである。
天啓(インスピレーション)があなたたちの聖なる賜物の展開を可能にする。


「霊的価値観」を取り入れる時、私は、この「信ずる」というのを取り違えていました。

p.249 第8章 28
 真理の解釈を誤ると意識は惑乱する。
しかし神我(キリスト)こそが至高のすべてであるという真理を知り始めると、身内に或る静けさが生れ〔それにつれて〕外なるものもまた静まる。私の平安をわたしはあなたたちにもたらす。


このことがまだ理解できていなかったのです。


それから、私の持っている『プレアデス人からのメッセージ集』にもこうあります。

「信じることについて」(一部抜粋)

確かめることのできないことを積み上げているものに注意しなさい。あなたは正確に思考すべきです。
信じること、信頼することについて、反対しているのではなく、実際のありようを厳密に捉えていなさい、ということです。
大切なことは真理以外にはなく、それ以外の確かめられないことは、あくまでもフィクションとして、あなたの中に保留しなさい。


『心身の神癒』にも『プレアデス人からのメッセージ集』にも、同様に「真理が大切」ということが書いてありました。
 
そして「真理に対する理解を深める」ということが、「信じる」ということと同じであり、内なる神へを信じることにつながっていく・・・つまり、平たく言えば「(本当の)自分を信じる」ということになるのです。
しかし、気づいたのですが、世の中の多くのスピリチュアルの情報は、正しいことを伝えていません。
多くは、何かができて、とか、何かを成し遂げて、とか、祈りが叶って、現象を変化させて、ということに焦点が当たっています。
それは、願望成就の範疇(エゴの目的の範疇)であり、これは、「理解」とは区別すべきものだと思いました。

私のケースでは、例えば、「断薬ができて自分を信じられる、内なる神を信じられる」と思ってしまっていた部分もありました。
実際はそうではないようでした。
「理解が深まること」により、段々身体に投影している病の肉体現象のやわらぎや変化、そして、外から返ってくる現象の変化、認識のスピードに変化が現れました。
そういうプロセスを経るうちに、「断薬」が段々可能になってくるようでした。

人々は、物事を「行動から変える」と思い、「行動だけを変えること」により、結果を変えていく、ということを考えがちです。
でも実際は、表面的な出方(見えてくる現象)が変わっているように見えるだけで、実は中身が本質的に変わっていない、ということがよくあります。
それは、根底の意識を変えていないからです。
このことは、医者の言う治療法や、食事療法などの、一見して有効そうな方法論にも言えることです。
例えば、ある医者が「○○の方法が効く」と告げられて、それを信じて実行すれば有効、ということがありますが、それは、ひたすら続けない限り有効であると言えないのであれば、「有限の価値観」ということになります。

これは、「断薬」も同じで、徹底的に修行的にやれば叶うこともあったのだろうと思いますが、それでは、周囲との摩擦を生んだこともありましたし、またはうまくいっても後ほど違うところで意識のゆがみが生じ、それが不具合とした現実としてあらわれてきたように思います。

実際は、「意識を変える」ということですが、
意識を変える、とは、「理解を深めていくプロセスを踏む」ということだったのです。
それがあって初めて、行動としての「断薬が有効になる」ということのようでした。
言い換えると、「意識を『無限』におく(分離が癒されるプロセスを踏む)」ことで、
「理解が深まってくること」により、「断薬」やその他の方法が有効に作用する、ということになってきます。

それは、ACIMにも書いてありました。(抜粋箇所を覚えていませんので、記載しません。)

結論として、「理解」と「行動=実践」の両輪によって、ようやく「理解が血肉になっていく」というプロセスを踏むことになる、と整理できました。


 ❑投薬など一般的な療法(方法)は霊的価値観を受け入れる時のショックを和らげるのに役立つ

こうして、三次元の価値観どっぷりから、霊的価値観を肉体化していくとき・・・には、混乱が生じます。
なぜかと言えば、肉体はまだ古い振動を発している・・・つまり肉的価値観重視だった過去の自分から抜けきっていないため、新しい霊的価値観を血肉にしていくには、時間がかかる作業だからです。
そのため、一般的な「投薬」などのような、一時の対処法であっても、自分のショック(肉体的なショックと、精神的なショック)を和らげるためと周囲のショック(急激な変化をされると、向こうはびっくりするため)をやわらげるため、必要に応じて活用することもあり、だと思いました。
また、私は「精神薬の危険性」についての本を読んで、薬を敵視したところもありましたが、医者の内なる神を信頼して最低限で処方してもらうことにするのが、過渡期には良いと判断しました。
熱中状態どっぷりの状態から、「集中=内なる神、無限、神の子に意識を置くことを学ぶ時」というのが、過渡期(理解のプロセスを踏んでいる時)にあたります。

ここで、熱中と集中の違いについてを、「プレアデス人からのメッセージ集」にある内容から、もう少し整理してみます。

「集中と熱中について」(一部抜粋、先ほどの「熱中について」の続きです)

 さて今度は集中について。
 あなたは是非ともこちらを選ぶべきです。熱中が受動であるのに対し、こちらは能動であるからです。あなたはこの中において、決して自己を見失うことなく、自身が中心の星となり、対象事は衛星となります。これはあなたと対象事の両方を把握、コントロールできる状態にあり、その結果両方に、また第三者に対し、責任の持てる状態となるのです。

 ただここであなたに言っておかなければならないのは、地球上のほとんどの人たちが集中と熱中の境を意識の中に持っていない、ということ、また、集中を行うについてはある種の訓練(瞑想)が必要である、ということです。


私も上述しましたが、殆どの人たちは、「熱中状態」にあるので、それでコロナが集団的に起こっている、ということだけは、明白だな、と思いました。そのため、スピリチュアルを学んでいる人たちがその渦中にまみれずに、「集中状態」を保つことは大切だと感じました。

それから、「集中について」ですが、私は以下のように整理しました。

「一般的なやり方、一般的な周囲の在り方」=3次元的、

「自分のやり方、自分の現状の在り方」=3次元と4次元、5次元の過渡期、

「霊的価値観(真理)」
という、3つの状態(自分の中で感じる理解の度合いや差額)を観察しながら、現実への取り入れ方を工夫し、自分の在るべき状態を保つ努力をしていく方向性で学ぶことが大切です。
それが、「神の平安」であると思います。
一番大切なのは、「想念観察、自己観察」で、冷静な視点を持つよう心掛けること
です。

霊的価値観を受け入れる時は、混乱が生じるため、病や激しい周囲や自分自身の中での摩擦を経験することもあるので、投薬などの一般的な療法をとりいれることも穏やかな変化に寄与することがある、と先ほど述べました。
薬を飲むことは、肉体の反応を穏やかにする、ということがあります。
投薬や食事療法、その他の方法論は、自分の意識が進化したり、その間の肉体の浄化に役立つように感じ、自分と宇宙の流れと合っている方向に感じたら、取り入れていくことが、よりスムーズ流れになる、と感じました。

それから、人は「知覚」から入るほうが、つまり「意識の変化より有無を言わさず行動を先にしてしまう」方が早いこともあります。
私がやっている畑仕事のせいで、勉強時間がとれずになかなか理解が先に進まないように見えていらだっていましたが、結果的には行動を先にしていたことで早く理解ができることもありました。
つまり、禅寺的に「ただやる」ということ、と、私の先輩に言われていました。
(「願望を成就する」のも、ごちゃごちゃ言わずに、疑いを抱かず、ただやりなさいと言われていたのを、今思い出しました(~_~;)
イエスが、ペテロに水の上を渡るよう言って、ペテロが渡ってた途中に疑いを抱くと、溺れたという話を思い出します。笑 マタイ伝第14章29-31節)

しかし「霊的価値観を理解に落としていく」ということが大前提です。「理解と実践の両輪」と先ほど述べました。
そうでなければ、方法論にはまって一時的にうまくいくことで、かえって理解が遠ざかることもあるからです。
何らかの方法を掴んでやったとしても、それを絶対視しないことです。

また、たとえ霊的価値観を取り入れても、それを「枠ぐみ」や「主義主張」として絶対視することは違います。
霊的価値観は、実践と検証の後にくる「理解」があって、初めて、血肉になってゆき、波動が上がり、そして、真の穏やかさや平安を生むことになっていくのです。
なにかのスピリチュアル的方法論(これも、Aすれば→Bになる、という「方程式」)をやる、というのでは、真の理解の波動を出すものではないため、一時的に過渡的にやるならいいのですが、いずれは卒業していく過程です。

また、途中激しい現象を経験しても、必ず「理解に結び付ける」よう心がけていれば、病の根本原因が消えて病自体が消失する、ということが現実化します。存在する必要がなくなってくるからです。

こうして私は激しい混乱期を通りましたが、次第に「一般社会(三次元的社会)」と「霊的価値観」の差額を、穏やかに「受け入れるやり方」を学ばせてもらえた気がします。
こうして「霊的価値観と現状との差額」を見るゆとりを持つこと・・・差額を赦すことが出来るようになってきて、はじめて、辛い現実から立ち去る(自由になる)ことが出来るようになって来たということです。「現状を肯定的に受け入れる」ということができてきたということでした。

🌿最後に

私の背後の指導によれば、「終わり良ければ総て良し」というように、どんな現象を起こしたかも、赦しが行われたのであれば、実はそれほど重要ではなくなるようでした。
しかし、先輩には、もう大事を起こして学ぶというのは、終わりにしていくこと・・・大難を小難で済ますようにしていくようにと言われていますし私自身もそうしたいので、理解と実践の両輪を頑張りたいと思いました。

話は戻りまして、過去の私を上司に投影していたわけですが、上司も、背景には強いこだわりがあったのかもしれません。
その詳細はわかりませんし、私にとっての学びではないので、自分の投影を見せてもらえたことだけに感謝しました。
過去を赦すことが、こうしてできたので良かったです。
私の気づきが上司に延長されたかもしれませんが、向こうがいつ受け取るかはわかりません。

「心身の神癒」という本の抜粋を参考に載せて、終わります。

「心身の神癒」
P230 第7章
86 先ず裡なる神の国とその正しい用い方を求めよ、そうすれば爾余(じよ)のすべてはあなたたちに加えられる。


「霊的価値観」の正しい用い方を求めてゆけば、その後、色々なものは与えられると思ってよいようです。
「得よう」として、真理を「利用」してしまうことはありますが、それに気づいてやめて、内なる神の国についての理解を求める方が先にあれば、必要なものは与えられるから・・・ということでした。

この一文から思ったのですが、多くの人たちに同じことが言えると思います。
コロナ禍からの経済回復(生活回復)は、多くの人たちの心の中で考えていることです。
結局「経済優先」・・・「だってお金がなきゃ困るじゃない」と思ってやっていることもあるから、混乱が生じていて感染者も増える一方のように感じています。
たぶん、少しでも真理を正しく理解して生活していく人たちが増えることにより、混乱が収まるような気がしました。
でも、まだまだそういうわけにはいかないようですね。
スピリチュアル界でも、お金を得ること(正確に言えば、不足感を満たすこと)のために真理を利用しているケースも多々あるようです。
私自身も含めてですが、意識を変えるのになかなか難しいところに差し掛かっていると思いました。
このことについては、また別途書きたいと思います。

今日の話題はこれまでです。
お立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
何か参考になったことがあれば、幸いに存じます。

 

🌿ほのぼの写真館―我が家の「ハニーサックル」

 

夏の庭にひときわ目立つ、ピンクと黄色のコントラストが鮮やかな可愛いつる性のハーブです。

香りはスイカズラのようにいかにも甘い香りがしそうなのですが、特にしないので驚きました。