前に進んでないように見える時、全体から見て神の道に進んでいれば良い、とわかる | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察や赦しにより道中で得た『叡智』を分かちあっています。

こんにちは。

ここ数年、いや、もっとですが、悩んでいることがあります。

何度か触れていると思いますが、「スピリチュアルの勉強のための時間が取れない」とか「気づきをブログで発信をタイムリーにできず、時が過ぎてしまう」「スピリチュアルを仕事にしたいのに、もっと深く勉強する時間が取れない」などのように、時間が無い、という事に悩まされています。

 

そのため、その時間が取れないとイライラし、怒っていました。

不満で、自己否定して、不愉快の募る日が多かったのです。

 

直接的な理由は、部分的とはいえ自給な生活もしているため、特に、農作業が体力を消耗することや、タイミングの重要な作業なので、どうしても特定の時期に、時間を取られてしまうことがあげられます。

 
そのため、ACIMのワークを日々やることが精いっぱい、あるいは、何らかの真理の本を読むこと、ほんの少しの時間考察したり検証することで一日が終わってしまうことが多くなります。今年やろうと決めて、だるまに目を書き入れた目標が二つあったのですが、それがなかなか進まないことに、本当にイライラしていました。

 

このような私が、どういう事に目覚めたか、「自分を肯定できたか」を書こうと思います。

 

🌿思ったように進まない・・・そういう時、エゴの視点で見ているから、とわかる

 

私は、「自分が立てた学習計画に沿って、物事が思い通りにできない」のがずっと嫌でした。

 

また、いろいろとスピリチュアルの教材はそろっているのに、完読していない、勉強しきれていない、深く読み込む時間が取れない・・・ということにも悩んでいました。

 

私は、田舎に引っ越して、明らかに忙しくなりました。

とはいえ、まったく気づきがなかったり、実践したことを検証できない、というわけではなく、想念観察や赦しは、それなりに実行しています。

 

しかし、自分が年の初めに思い描いていた「勉強計画」や、予定していた「勉強スタイル」などなかなか実行できないこと、深くまとまった勉強ができていないことや、読みたい本が山積みのため達成感がなく、それを見るたびに、「まだやれていない」のような感じがして、脱力してしまうこともありました。

 

それで私は、「畑仕事なんてしても時間ばかり取られる。それに押されて、スピリチュアルの学習成果が出ない感じがしている」「(何らかの成果のようなものが)得られない感じがする」などと思いがちでした。

 

不満から、イライラでやけ食いしてしまうとか、自分やパートナー激しい叱責や怒りをぶつけてしまうことがしょっちゅうありました。

 

つい最近までそういうことを繰り返す私でしたが、だんだん「怒らないようにしてみる」「不満に同調しない」という癖をつけ始めました。

 

ネガティブな方向性で自己破壊に結び付けないように、想念上で「おい、おまえ、ここで怒りたいだろ?え?おい!ここで、ブチ切れたいだろ?」「おい!おい!ここでやけ食いしたいよな、本当は?」のような誘惑があったのですが、同意はすることはあっても、騙されていたことに気付き、流せるように、少しずつなりはじめていました。

 

たぶん、聖霊の導きを乞う私の願いを叶えてくれたのでしょう、次第に「ここで、不満や怒りに同意すると、解決策や、次の一手が見えなくなる」という想念が入ってくるようになり、それに従えるようになってきました。

 

また、それと同時に、自分の成果や評価に対して、少し「保留」にする癖がつけられ始めました。

未来に対しても、すぐに「これこれこうしたら、こうなる」というような思考に同意し、焦ってしまう癖もあったのですが、それも、同意しないようになり始めて、不安に陥らなくなることが増えていました。

 

そんなある日にいろいろな小さな出来事がありました。

 

先日、知り合いと偶然会いました。

その方は、ハーブ苗を栽培し、出荷している人で、田舎暮らしを始めた当初、ハーブガーデンの手入れをお手伝いさせてくれた人です。

世間話の中で、この春から初夏にかけての時期、自分の農作業が忙しいことから想像して、「今の時期はお忙しいでしょう?そういえば、出荷作業の他にやっていた○○のお仕事はどうしましたか?」などとたずねていました。

すると、知り合いが「いやいや、最近は体が参ることが多くて、あの仕事はやっていないよ。代わりに違うことをしている」との答えが返ってきて、少し楽なるように仕事の内容を一部切り替えているようでした。

 

その話を帰宅してからパートナーとすると、「ああ、そうやって、だんだん、自分が価値を置くもの、必要なことにエネルギーを注ぐようになっていくのではないか」という事を言っていました。

 

畑作業が大変な時期ということもありますが、想念観察をしていると、「世の中の想念状態が濃い」のがわかります。

それもあって、私も、仕事で疲れてしまうことも多く、大した仕事量でもないのに帰ると、ばたっと寝てしまうことが多いのです。

このようなありようを「悪いこと」だとしかとらえられませんでしたが、ひょっとすると、「今の自分にとって価値がないこと、情の部分でやっていること、コントロールしてまで無理にやっていたこと」などから、次第に心を整理していくこと、手を引くように導かれているのかもしれない、と思いました。

 

しかし、どうも観察をしていると古い枠組みや常識に従って、この思いを否定する声に従ってしまいます。

私はそのエゴの声に騙されていたことも最近はわかってきました。
 

そうやってエゴは、「自分の慣れ親しんだ思考パターン」に引き戻そうとするんだな、ということがわかってきました。

慣れ親しんだ世界を、抜け出すのが、「エゴは」嫌なようです。

 

🌿神の道とは?

 -成果主義、実績に価値を置く世の中から、非効率だけど本質に価値を置く時代に、緩やかに変わっている

 

また、最近の別の話題です。

 

パートナーは教育関係の仕事に就いていますが、最近、職場で「成果主義」の傾向が出てきているため、お給料などの待遇に変化が出てくるかもしれない、ということを言っていました。

 

色々と話を聞いていると、教育の本質にかかわることや、教育の質を上げるということの方に、学校側の「運営」方針としてエネルギーを注ぐことが、この時代の少子化の流れに沿っているだろうと思うのですが、どうも現場の様子は違うようでした。

 

教師に対しても、数値や具体的な「成果」を求める傾向が強まってきていること、また、学校側は「(経済的な)経営」に主軸を置いているようで、その方針に合わなければ、待遇も悪くなってくることのようでした。

 

それを聞いて、「なんて酷い事だろう」と思っていました。

 

理性的に考えれば、そんなことは教育の現場でできる事はない、と思っていました・・・。

 

ところが、今日、私自身が、気づいたことを思えば、「ああ、みんな、成果優先で考えるのはよくない、と頭で理解していても、実際は自覚無しに成果を志向していくところがあるんだなぁ」ということに気付いてきました。

 

つまり、上述の私自身のように、「自分の理想」に沿っていなければ、「成果として認められない」「結果が出ていると思えない」と、思っているのです。

 

それは、高度成長期以後、アメリカ型の経営方法などが入ってきて、数値的な成果や結果を重視する傾向が強まってきています。

子供の教育現場でも、「偏差値重視」のように、とにかく、「数値」に頼る意識がありました。

そのために、いろいろな社会問題も起こってきましたね。
例えば、長時間労働や、精神的な病を発症する人たちが増加している傾向などです。
 
そういうことが、だんだん、問題視されるようになってきたことと、コロナのこともあり、経済を右肩上がりで成長させること自体がもう限界を迎えているように感じられます。
スピリチュアルの世界では、20年ぐらい前から少しずつ言われてきたことですが、最近になって経済学者たちからもそのような声が上がってきています。
 
限界は迎えているのに、世の中なかなか古いやり方を変えようとしない理由が見えました。実は日常生活の中で、意外と、成果主義、思い通りの結果、理想にこだわっている自分に気づき、同様の人は世の中に少なくはないだろうと思いました
「スピリチュアル」で教えられた新時代の世界観があります。

実際は、それに向かう「意識の変化」(パラダイムシフト)が起こるには、実践する人の意識的な変化の道筋をたどる必要があります。

しかし、それにはエゴの抵抗もあって思っているより時間がかかることを、理解していないことに気付かされました。それは、自分を注意して観察をしていなければ、気づかないものでした。「行動」を表面的に変えることが出来ても、「意識の変化」と、それによる現実の変化を自分で認識ができなければ、旧時代的意識のまま(外側を変えることや行動を変えることだけに意識が向いている)ことがあるんだ、ということがわかってきました。

 
🌿神のことは、人智を超えたもの、とは・・・
 
ところで、昨日は仕事は休みでしたが、畑仕事があり、インゲン豆の「支柱」を立てることをしていました。
支柱を立てるには、色々な準備がありました。
 
支柱は、我が家では、殆ど買っていません。
竹藪があったので、そこから竹を切って取っておき、使います。
竹林というのは、都会にいた時は知らなかったのですが、本当に、便利です。
 
最近、畑の手入れの中で、「植物のお世話をして、その恵みを享けとる」という、循環があることに気付きました。
竹林も同じで、手入れをすれば、畑で使う支柱が作れる竹材が手に入る、そのほかいろいろ作れる(竹柵とか)、ことがわかるようになってきました。竹は、本当に有用植物だと、実感するようになりました。
本で読んでいた時とは違い、畑作業を通して、実感を伴って思うようになりました。
 
支柱はお金を出せば簡単に手に入ります。
あえて買わないことを選択することは、非効率です。
よく、「お金で時間を買う」と言いますが、効率的にやるために、お金を出して、さっさと「リサイクルできないモノ」を買うことが、全体の傾向としてあります。
 
私もそういう意識を選択したくなることがあります。
そこで、意識の摩擦が起こります。
「ああ、もっと早く終わらせたい、もっと早く、沢山終わらせたい。思うがままにやらせてくれ」と、エゴは言うのです。
だから、(自然のタイミングなんて無視して)「効率重視」の思考もします。
でも、「自然というのは、そういうわけにはいかない」ことに、昨日、本当に気づかされました。
 
前回書いた記事の中に登場した、キジが、なんと我が家の畑で卵を産んでいたことに、草苅をした後に気付いたのです。
私は、梅雨入り前に、大方の畑の作業を終わらせたい、という意向を持っていました。
パートナーは、「いやいや、昨年はこの作業はもっと遅かったから、6月下旬でも間に合うよ」と言っていました。
私はそれでも、「いや、前年度の成果(収穫の成果、結果)を見る限り、前倒しにした方がいい気がするよ」と、作業を昨年より前倒しにするために、パートナーに草刈り作業をお願いしました。
すると、倒した草の中から、キジの卵が見つかったとのこと。
我が家に最近来ていたキジのツガイは、どうも、産卵をするために来ていたようだったことがわかりました。

 

 
後からパートナーが、キジの卵を見つけたときの対処法をネットで検索していたら、卵は23日ぐらいで孵化することがわかりました。卵が産み落とされたと思われる日から逆算すると、私が前倒しにしなければよかった作業がちょうど始まる頃に、キジの雛たちが孵化して草むらからいなくなる予定だったようでした。
私はそれを後から知り、とても落ち込みました。
 
パートナーは後から、『旧約聖書』の「ヨブ記」の話をしてくれました。
内容は割愛しますが、趣旨だけ言うと、「神のことは人間の頭ではわからない」ということでした。
キジのことも、自然のものですから、「神のこと」です。
作業を前倒しにしなければ、キジは無事孵化していたことを思うと、「神のタイミング」というものは「人間の、エゴの描く計画では、どこかで無理が生じ、全体としてうまくいかないんだ、宇宙の流れとは違うんだ」ということを、深く感じいりました。
親キジはその後、卵をどうしたかわかりません。(涙)
・・・
 
さて、このことから派生して考えた私は、自分を振り返り、「思い描いた計画通りに進まないからと言って、怒る、暴れる、不満を持つ」のは、自分がエゴにはまっていることに、エゴでごり押ししようとしているという事に、気づかないということだと、わかりました。
そして、疲れて、ばたっと寝てしまった後、起きてぼんやりしているうちに、「ああ、全体として神の道に沿っていれば、それがいい、自己肯定につながるのだ」と、悟ったような感じになりました。
 
最近まで、勉強が思った通りに進まない、ブログに記事を頻繁にアップすることもできない、という風に、あれもできていないこれもできていない、と、あげつらって不満を持っていました。(パートナーにもさんざん言われてたが、よくわかっていなかった)
それは、「エゴの思う不満」であり、実は、(内なる)神の方から見たら、そうでもないのではないようです。
思い描いた計画が進んでいないように見えても、「意識の変化」は、着実に起こっている・・・それは、日頃の生活の中で、ささやかな出来事から、小さな気づきの蓄積が深い理解にいたり、実は、そういう流れが、「神の道」を歩んでいることである、ということのようです。
 

時間のかかる非効率なことをしているからと言って、目に見える数値や実績にならないからと言って、それが、「神の道の歩みが遅れている」わけではない、ということがはっきりとわかってきました。

 

冷静に考えれば、お金(経済観念)に囚われたり、世の中で表面的にうまくいっている人たち(成功者)が、「神の道を早く進んでいるのか」と言えば、そうでもないことが多いようです。

 

一方で、病にかかった人は、「こんなことになってしまえば、お金も稼げないし」とか、「こんなことになってしまえば、仕事に穴をあけてしまって」などのように思うかも知れませんが、それを、自分の意識の気づきに転換できれば、それは「魂の進化」になり、決してお金では買えないものです。

 

「魂の進化」というものが、いずれ「本物の豊かさ」に繋がっていく、とのことのようです。

(パートナーが、「ヨブ記」を例に、そのような話をしてくれました)

 

お金を稼ぐ、時間を節約するための効率、そして、数値という目先の結果には、これからの時代、魂の進化以上に価値をおくことは減ってくるように感じています。それらは、エゴの増幅につながるという意味では「永続的な価値がない」という理屈もありますが、たぶん、なんらかの形で立ち行かなくなるんだろうと、思いました。
神の道からそれているので、いずれ消えて行きます。または、無理が掛かっている、ということに気付かされるようになってくるのでしょう。
魂の進化、こそが、神の道であり、それにどれだけ気付いて「価値を置く」方向に、意識を変化させることが出来るかが、新しい時代へのシフトなんだ、ということが、身をもってわかりました。
 
自給的生活、スピリチュアルを知識で学び、それを実践していても、学びを血肉にしていく段階というものは人それぞれ違い、時間もかかるし、その時間も、人によって学びのテーマが違うから、どのくらいになるかはわからないと、思いました。
神のことは、人間(エゴ)の頭ではわからない、つまり「人智を超えたもの」なんだ、ということ。
エゴは、頭で考えたこと、すでに知っていることを元に色々言いますが・・・そういうのも保留したり、無理が生じることは止めようとしはじめました。
代わりに、「委ねる」ということを、少しずつ知り始めたようです。
 
今日の話題も長くなり、申し訳ございませんでした。
気づきの分かち合いは、これで終わりです。
何か参考になったことがあれば、幸いに思います。
今回もお立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
 
🌿今日のオマケの音楽-「パドヴァの聖アントニウスのためのミサ曲」の中の第1曲「イントロイトゥス:教会の中にて」
 
14世紀ごろのGuillaume Du Fay(ギヨーム・デュファイ)の作曲です。
ポメリウムという団体がアカペラで歌っています。
とてもきれいな曲なので、心が癒されます。
痛みを持って気づきがあったときなど、浄化される感じがします。
ぜひ聞いてみてください。

 

🌿おまけの写真-ある日曜日の収穫物

 

にんじんの葉、ルッコラ、芽キャベツの葉、カモミール、大豊作の苺!