自分や他人を一言で決めつけるような言い癖に気付いてやめることー戦いが減ることになる | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察や赦しにより道中で得た『叡智』を分かちあっています。

                               2022年あけましておめでとうございます。
               このブログを、今年もよろしくお願いいたします。


 ご来光を拝み、新年が始まりました。
そのあと、近所の神社でおみくじを引きました。

「このみくじにあう人は 
道に迷ってやがて本道へ出るように
いろいろ思い違いや 間違いがあるが 
自分のあやまちを知り これを改め 
神仏を信じ 心を正せば やがて幸せは来る」

という内容でした。
細かい表現にこだわらずに読めば、「神の道には、自分のあやまち(これまでの視点がエゴに偏っていたことなど)に気付く機会があり、(あるいは、他者にそのように指摘される機会があり気づく)、そのたびに自分の視点を真理に基づいて訂正すれば、やがて幸せになる」
という内容だと思います。
つまり、「そのまま続けなさい」ということのように思いました。
とてもありがたいメッセージです。
「背後で見守っているから(大丈夫)」、というような含みが感じられ、温かい気持ちになりました。

皆さまにも、ぜひこのメッセージをシェアしたいと思います。
隠されていた自分が見えて、嫌になるときもありますが、それは、いずれ消えてゆく幻想だと思って、今年も歩んでいってください。


実は、私はこのおみくじの直前にスピリチュアルの先輩から、早速の訂正が入っていました(;^_^A
それが、タイトルの通り「自分や他人を一言で(吐き捨てるように)決めつける言い癖」です。
前々から指摘を受けていたのですが、なかなか認識しようという気になりませんでした。
怒りやむかつきなどにおぼれてしまい、そして戦いのドラマにはまりこんでいくことからなかなか抜けられませんでした。
しかし、そこにも変化が見られ始めました。

事例を交えて、参考になるよう気付きや実践例を分かち合いたいと思います。
まだ無自覚であり認識に至らない方々は、想念観察や自己観察の訓練の参考に、また、なかなか抜けられない方々は、抜けられる参考になりますように。

🌿自分や他人を決めつける言い癖に気付いてやめること―攻撃が減るということになる

私は自分にネガティブな決めつけを吐き捨てるように言う癖がありました。
「どうせ自分なんてワガママだから」とか「どうせ自分なんて傲慢だから」とか、です。
そして、私はパートナーについても、吐き捨てるように「どうせあなたは○○だから」「あなたは良いよね、どうせ」というように、過去の二人の間で起こった出来事の悪いと感じていたことを持ち出してきては、相手や自分を判断し、「決めつけてみてしまう」癖がありました

自分がみじめに感じる時や、相手から攻撃を受けたと被害者意識になるとき、反撃の意を込めてやっていました。
そうやって、戦いに持ち込んでいたわけですが、これでは問題解決になるどころか、ぶつかり合いのエネルギーを発散させるだけです。
そして、そのエネルギーによって自分や相手を傷つけていたわけです。
攻撃のエネルギーは、最初は精神レベルで作用しますが、下に降りてくると、肉体レベルに影響が及びますが、そのようになっていたこともあるかと思います。

自分を、違う形で決めつける例もあります。
「可愛いとみられたい、愛されたい」と思っていたので、例えば、「猫」や「子供ちゃん」のイメージ付けを自分にしていたこともありました。笑
それは、相手から「愛(の代替物)」を得たい、というたくらみをしてた時の癖の名残もあるようです。
愛の代替物を得る、とは例えば、お金やなんらかの自分にとってプラスになると思われるものを「奪い取ろう」「得られるように画策しよう」とすることなどです。

いずれのケースにせよ、決めつけは、何らかの仮面だったり、自分が恐れているものからの防衛のためのものです。
自分にはない・・・という思い込みがあるため、防衛心から、「奪おう」「得よう」とやっていたものでした。
攻撃的になってまでそういうことをする必要がある、そこまでしなければ「自分は(望むものを)手にできない」ということを信じていたと思うと、びっくりです。

そして、「私は攻撃的だ」と決めつけた後、罪悪感や自己嫌悪から、その性質を封じ込めようとをする人は多いと思うのですが、封じ込められたものは浄化されていませんので結局、病になりやすくなります。
それより、必ず、根本から手放す、ということをした方がいいこと、そしてそれは、自分が本質ではない偽物の思いを温存していた、ということを理解し、本来の自分へ帰る道筋の一つとして認識できることが大切です。

その人格になっていた「エゴ(自我、パーソナリティー)」は、観察していて、認識を深めていれば、やがて剥がれ落ちていきます。
それまでは、「自分自身に対して誰か外の人が攻撃してくる」ように聞こえる場合もあるようですし、実際に痛みを伴って感じる場合もあるようです。
その攻撃が認識できずに、より激しくなれば、病や何らかの痛みとなって発見されるというのが、一般的な在り方です。

スピリチュアルの先輩の観察アドバイスや自分の観察結果によれば、
どうも、その人格(自我、パーソナリティー)が、攻撃的に言ってくる、コントロールしてくる、という感じに感じられるのは、
自分がその想念に対して自覚がなかった時代に、無意識的につけていた自分に対するコントロール、枠組み、ということのようです。

🌿決めつけは、自分や相手を狭く見てしまうこと-決めつけをやめると自由やほかの可能性に気付く

自覚無しに、自分のことを「私はこういう人だ」と決めつけてみていたり、決めつけの範疇から行動をしていることが意外とあります。
他者のこともそうです。
それは、自分が見ている一面であり、すべてではありません。

スピリチュアルの先輩は、度々「決めつけると、ものの見方がそれ以上広がらない」と言います。
決めつけると、その枠組みでしか自分/他者のことを見られなくなります。
枠に当てはめるからです。
でも、やめると、そのほかの可能性や、自分の姿が見えてきます。

決めつけは、過去の何らかの出来事からできた価値観や、思い込みによって、しているものです。
だから、「決めつけ」によって、自分が何に囚われているのか、気づかせてもらえます。


例えば、私が「子供ちゃん」をやろうとしていたのは、「子供のままでいたい」と無意識に思い込んでいたことがあったように思います。
「子供のままでいれば、責任を取らないで済む」と思っていました。
また、「子供のままでいれば、愛されやすい」と、自動反応で思って行動していました。
いいかえれば、「インナーチャイルドの、育っていない面」だったように思います。
スピリチュアルを学ぶことにより、恐れからくる思い込みがいろいろと少しずつ外れてきて、育っていなかったインナーチャイルドが成長しはじめ、それが、子供の衣を脱ごうとしているようです。
防衛のためにつけていたものではありますが、心地よいこともあったので、なかなか脱げなかったようです。
この仮面は、相手から「愛して!」と、愛を吸い取ろうとしていたこともあります。
実際には吸い取れませんが、物質的な何かや慰めなどを得ようとすることで、真の自立の阻止を企むこともあったようでした。
真理に対して無知である、というのは、なんとももったいなかったのだな、と今では思います。

「どうせ、自分なんて○○だし」という決めつけも同じで、それ以上の可能性を断ってしまうことになります。

「この自分の部分が嫌いだから、あるいは、何かが怖いから、○○の人格を形成する」というやり方をしていましたが、このようなコントロールが精神的な病の根本原因にもなります。
何か(理想的な自分)に「なろうとする」のも、自分の一部を否定していことが原動力になっていることが多々あります。
否定した自分を見ずに「(プラスと思える人格に)なろう」とするのは、ただ単に自分への「枠付け」を増やすだけになりますし、それも防衛の一つと言えます。

防衛からくるものというのは、本来の自我ではありません。
それを脱いだ先に出てくるものが、本来の自我=神我(真我)、に近づいてきます。
それが、本来の自由自在に近づいてきたということです。
つまり、「攻撃や防衛してまで欲しかったもの、そのように犠牲を払ってまで確保したかったものは、実は攻撃を止め、鎧を脱いだ先にあって、手に入れられるもの」ということなのです。
なぜなら「もともと自分にもある」ということだからです。

自分の本質(誰でもそうですが)は、すでに豊かです。
だから、本来の姿は、満ち足りて安らいでいる姿=神と共にある姿、なのです。

それから、エゴに対して、私はこれまで否定しがちでしたが、最近は、必要がなくなると自然に脱げてくるものなんだな、ということがだんだんわかり始めました。
観察を続け、理解を重ねていくことでそこに到るようです。

この時代は、「風の時代」と言われます。
「だから風のように自由に軽やかに動く時代」と捉えている人もいますが、そういう言葉上の捉え方ではないように思います。
地球全体の波動がどんどん上がり、私たちが内的に軽やかになるために起こされていることが少なくないため、少しでも内的な部分で決めつけや枠組み、思い込みを少なくして、自由自在になっていることが、風の時代に合った生き方になってくると言えると思います。
過去に囚われていたら、過去の延長線上で生きるため、波動が上がりません。
決めつけも、過去の(視点の)延長線上にあるものです。観察してみればわかります。

自分で書いていて、お正月早々、いろいろ学ばせてもらいました。
本日も長くなりましたが、最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。
お役に立てたことがあれば、幸いに思います。

 

今日は、音楽のおまけのところに、スピリチュアルをやる意義についてなんとなく、欠かされた感じになったので、よろしければ引き続きお立ち寄りください。


🌿音楽のおまけ―Bach BWV82 「Ich habe genung 私は、満ち足りた」 のご紹介
                              & スピリチュアルをやる意義について


今日の曲は、あの世に対する憧れを歌った歌です。
歌詞にあるように、「いろいろと大変なこともあったけど、長く待ち望んだ幼子イエスの生誕に接することが出来たから、安らぎや平和がもたらされ私は満ち足りた、この世の苦しみと決別し、死を待ち望む」という内容の歌です。
幼子イエスを抱くまでは決して死なないと聖霊から予言されていたシメオンという人の語りから始まります。

今回ご紹介する理由は、前々から美しい歌だ、と気に入って聞いていたからです。
メロディーはバッハの曲の中でもかなり美しいものとして、(当時から)人気だったようです。(特に第3曲の、まどろみのアリア)
でもある時、歌詞をよく読んでみたらあの世に対する憧れの歌だと知って、びっくりしました。

ここで紹介するYoutubeの動画の演奏を探していると、悲しい曲調に合わせて悲しい映像が付いているものもありました。
辛い現実に身をさらしている人たちにとっては、現世を去って天国に早く行きたいという、この歌のような気持ちになることがあるのだろうな、と思いました。

この曲の歌詞を、苦しいこの世を離れて死を待ち望み、「死んで」神と共にあり安らぎが訪れる、と捉えるなら、それは「肉体を主体」とした古い考え方です。
この世を苦しみの世界、と強調しすぎるところはありますが、[イエスの生誕=神の教えの到来]により、エゴに由来する苦しみから解放される、ということを象徴的に歌ったもの、と理解することが出来ます。
天国は、実は自分の中に元々あった、という理解は、当時はまだ足りなかったのかもしれません。
記事の中で触れましたように、攻撃や防衛の必要がないことを根本から理解し、ただやめていくだけで、「自分にもあること」がわかってきます。
私たちが生きているという意味は、ここの世界(地球上)で、神と共にあるのが本来の姿だった、ということを知るためでもあるのです。


上述に

つまり、「攻撃や防衛してまで欲しかったもの、そのように犠牲を払ってまで確保したかったものは、実は攻撃を止め、鎧を脱いだ先にあって、手に入れられるもの」ということなのです。
なぜなら「もともと自分にもある」ということだからです。

と書きました。

私は「得るためには戦いの気持ちを使う」ことをすることもありました。

すこしずつですが、真理を基に気づきを深めてくると、その必要がなくなってくることがわかってきます。

こうして、自分に変化が訪れれば、自分の過去に光もさしますし、今その悩みを抱えている関係者や、無関係でも同じ意識にまみれている人たちに、光という変化が訪れます。
犠牲を払ってまで、盲目的に戦いをしている人たちも、いまだにいます。
武器を持たなくても、戦いをしていることもあります。
自分の中の戦いの意識や、防衛の意識、決めつけが物事をこじらせます。
それを、スピリチュアルを学んだ人たちが、実際に意識の上で脱ぐことは、光の貢献をすることになります。
目に見えないし、なんだか小さいように感じますが、実は、最高の奉仕になると言えるようです。(ACIMのテキストより)
例えば、困った人たちに実際に手を差し伸べられる人たちの数は知れてしまいますが、意識の上の気づきというのは、光の速さであり、広がりなので、もっとも早くて効率の良く効果的な貢献だからなのです。
世界の平和を祈るなら、また、大難を小難で済ませたいと思うなら、このことを理解し、今年も、ぜひ一人でも多くの人たちに、意識の上での気づきの貢献をしていただければ、と思います。

お正月からする話題でもなかったのかもしれませんが、新年を安心して迎えているのは、たぶん一握りなのだろうと思いました。
自分はおいしいお節を食べていましたが、そういうことが現実的に叶わない人たちもいることを考えると、この記事により、読んだ方々に気づきが訪れ、そこから平安が徐々に広がってゆくことを祈っています。

では、美しい曲と歌詞をお楽しみください。

演奏と歌:Damien Guillon 歌 BWV82 「Ich habe genung 私は、満ち足りた」 3.アリア 
10分までが、ご紹介している歌詞の、アリアです。

バッハが実際演奏していた当時からこの曲は人気があったため、4回改作していて、4つのバージョンがあります。
バス、メゾソプラノ、ソプラノなどで歌われたり、楽器の編成が違うなど、いろいろあったようです。
今回はその中で、有名な「ダミアン・ギヨン」さんという、カウンターテナー歌手(メゾソプラノで歌っていますが)の歌をアップさせていただきます。
とても美しい旋律に、歌も美しいです。

歌詞

3.アリア 
―死への憧れ:この世は苦渋、かの世は平安に満ちている―

眠るがよい、疲れた眼よ
穏やかな平安のうちに、目を閉ざすがよい!
 この世よ、私はもはやここには留まらない。
 おまえのうちには、何もない、
 魂の益となるものは。
 ここでは、私はただ悲惨を紡ぐのみ、
 しかしかの地では、私は見るだろう、
 麗しい平和、静かなる安らぎを。

 

3. Aria B 

Schlummert ein, ihr matten Augen,

Fallet sanft und selig zu!

Welt, ich bleibe nicht mehr hier,

Hab ich doch kein Teil an dir,

Das der Seele könnte taugen.

Hier muß ich das Elend bauen,

Aber dort, dort werd ich schauen

Süßen Friede, stille Ruh.



参考:・BACH COLLEGIUM JAPAN 2006/2007 74th Subscription concert パンフレット P17 から 3.アリア の歌詞を拝借させていただきました。

    ・東京バッハ合唱団のHPの歌詞集より、ドイツ語歌詞を拝借させていただきました。