2024年にこの映画の製作を知ってずっと公開されるのを待っていた。劇場での一般公開は、諸般の事情あって遅れたようだが、2025年11月ようやく公開されたので、都合を調整しながらようやく映画館に足を運んだ。
映画の前宣伝によると、2016年の南スーダンに派遣されたPKO(国連平和維持活動)の自衛隊派遣隊が実際に遭遇した事件を題材にしたストーリーということだ。
そこで、実際の出来事を少し振り返ってみよう。2011年8月、当時の民主党政権で菅直人首相が自衛隊の南スーダン派遣を表明し、野田佳彦首相の時に派遣が実行された。日本では当然、多くの市民が自衛隊のスーダン派遣に反対するデモを全国各地で行なわれた。その後も派遣活動は続けられたが、2016年7月に自衛隊宿営地すぐ近くに位置するホテルを改装した国連難民宿泊施設を「政府軍」が襲撃し、多くの女性や子供と国連職員を殺傷(殺害・略奪・レイプ被害)する事件が起きた。このとき、国連南スーダン派遣団(UNMISS)に参加していた自衛隊派遣隊は、まさに襲撃された施設から聞こえる悲鳴や銃撃音の届く範囲にいながらも「活動は非戦闘地域に限定」される制約に基づき、宿営地に待機したままだった。襲撃現場から逃げて兵士たちに追われた避難民たちが宿営地の門前で助けを求めてもそれを助けられず惨劇を目の前にした隊員たちが帰国後のトラウマに悩むのも判る気がする。この事件がのちに、UNSMISSの任務の要である難民保護に「失敗した」と調査報告を公表する出来事となったのだ。
日本政府はその後、派遣された自衛隊に新たな任務として「かけつけ警護」や「宿営地の共同防衛」なる付け焼刃的な過酷な任務を付与するきっかけにもなる。しかしながら、現地の自衛隊員たちにとっては過剰なストレスを強いられることとなり、宿営地外の巡回警備などで起きる些細な住民とのトラブルの経験でさえ、精神的な緊張の連続で睡眠時間もまともに取れない原因となった。
以上が実際に起きた南スーダンでの出来事だ。
前置きが長くなってしまった。
映画の感想を書こうと思ったのだけど、すでに著名の方々が様々な論評を述べていると思う。
そこで私は、この映画の登場人物のキャラ設定や関係性について深堀説明をしていきたい。というのも、ストーリーの展開がトントントンとテンポよく進むので「よくわからない」ところもあると思うからだ。
まずは、主人公の島田東助(山本一賢)はPKO派遣されて帰国後に鉄工所をクビになって花火職人として働く元自衛官だ。彼は一人で生活する分には困らいないにもかかわらず、鉄工所の同僚のジョン・ウスマン(今村謙斗)というイスラム系の外人と組んで闇バイトで銃器の密造(なんとAK47から自衛隊の89式自動小銃までコピー製造してしまう「出来っこないから」)をして金を稼いでいる。その後、花火工場から火薬をくすねて弾丸も作るのだが、そこで稼いだ金は彼が南スーダン派遣時に殉職した後輩隊員、古川裕司(原雄二郎)の遺族にこっそり封筒ごと家のポストに入れて支援していた。そんな島田は、古川の三回忌にかつての隊員仲間の田中康平(田中一平)と墓前に参るのだが、寺の法要にはかつての部隊指令官でゲリラの襲撃から生還した島田らに箝口令をだし、一件を隠ぺい指示した神崎一尉~陸将補(山崎潤)が参列しているのを見てそのまま帰ってしまう。
あ、それと、帰還組の島田と田中も「口ひげを生やした元自衛官」なのだが、なぜ「口ひげ」の印象設定にこだわったのかと考えた。そういえば2004年にイラクで武装勢力に誘拐されて帰ってきた元自衛官とジャーナリストの風貌も「口ひげ」だったなと思いだした。もしそこが元ネタだったら印象の固定化とは恐ろしいものだ。
さて、物語で南スーダンでゲリラに拉致されて「行方不明」だった隊長の伊藤忠典(松角洋平)は、なぜか日本に帰国していてテロリストになっていたわけだが、台詞のなかで「捕まって豚箱のようなところに三週間ほど入れられた後、ゲリラ同士の戦闘のどさくさに紛れて脱出して、北部を目指して逃げている途中、ある日本人の爺さんに助けられた」という、その日本人は「赤軍の残党」だったそうだ。物語にしても当時、旧日本赤軍のメンバーがあの地域に出張っていたとすれば凄いことだが、そこからどうやって日本政府も知らないうちに帰国できたのか謎である。仮にそんなことが出来るのなら、きっと背景に組織的な非合法活動があるはずだ。例えば、自家用ジェットを使って移動し、デカい箱型の荷物の中に隠れてひそかに空港検閲を通過するとか…不可能だけどね(笑)。さらに、同じくテロを幇助した役柄として「左翼活動家」篠崎寛太郎(ゆかわたかし)は、合法的な反戦デモををやっても自衛隊海外派兵を止めることが出来なかったと悔やみ「せめてあと一回、国会前を人で埋め尽くしたかった」と言いながら犯行に加担する繋がりに、実は彼の祖父は伊藤隊長を助けて日本に連れ戻した「赤軍の残党」であるというオチがあるのだ。
あと、島田と闇バイトの相棒として登場したジョン・ウスマンだが名前の発音として「ウォスマーン」となると思う。とすればいかにも純トルコ系かな?となるのだが、やはり映画の最後のほうでテロ事件がテレビで報じられるニュースを日本人の身重の妻と一緒に観るシーンの後、イスラムのお祈りをする姿が映し出される。自分の密売した銃が犯罪で使われたことを知って罪の重さを後悔したのか?それとも何か深く思うところがあったのだろうか。
この映画の論評で様々なあったと最初にも述べたが、私が最もインパクトを受けたシーンはなんと言っても、神崎陸将補の婦人であり防衛大臣秘書官でもある(遠藤祐実)が小学生の息子と公用車で移動中、何気ない日常的な子どもの会話を遮るように道の前方をふさぐように停止したトラックから銃を構えた数名の男たちが飛び降りて来て、あわただしく車から降りすように急かすシーンだ。否が応にも、私の忘れていた過去を思い出させる。また、過去を思い出させるといえば、打ち上げ花火の轟音と閃光と衝撃だ。あれは戦場を経験した者なら世界中の元兵士には共通して現れるトラウマだろう。平和な社会の象徴として打ち上げられる色鮮やかな花火でさえ心に傷を負った人にとっては一瞬でパニックにさせてしまうこともある。そしてもうひとつは、カメラの前に座らせた人質に銃口をちらつかせながらテロリストが得意げに犯行声明を並べ立てる姿だ。その姿がニュース映像にライブ配信で放送される。実際にはそんなことをするテレビ局など無いだろうけど、そんな映像を見せつけられる一般の人たちはたまったものではないだろう。たとえ、そこで述べられる政府批判がどんなに的を得たものでも、それを「愛国」や「革命」の名のもとにテロリズムを正当化できるはずはない。
最後に思うことは、自衛隊の海外派遣の応否をどうこう言うのではなく、それがどこであろうと人間を戦場に送り出して当事者たちのメンタルを戦争に近づけさせる発想は「戦争のできる環境を作り出す」ことでしかない。そんな発想をする一部の権力者に支配を任せていたら国は亡ぶということを私たちは歴史から学び、教訓として活かさなければならない。先人の遺した憲法という歯止を壊してはならないと痛感しながら締め括りとしたい。
