最終行動 バダウィ・キャンプにて・続編 (10月5~6日) | Wattan Net Life

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最終行動 バダウィ・キャンプにて・続編 (10月5~6日)


 6日、早朝には雨が降っていたのに、私がチェックアウトする頃にはもう晴れ間が雲から覗いていた。昨日の青年とは、朝10時に同じ学校で待ち合わせしていた。私は余裕を持って1時間半も前に宿を出てセルビスを拾った。ところが、このドライバー、昨日のようにすんなりとは行かなかった。レバノン人のドライバーは、私が行き先を「バダウィ」と告げると、「はぁ?」と聞き返して要領をつかめないように見えた。そのときは、「つかめないように見えた」のだ。再度、学校の名前を告げてようやく合点がいったようだが、方向がまるで逆である。はじめは近道なのかと思って黙って成すがままにしていたら、間違いなく勘違いしているようだった。私はそこで車を止めて「ムハイァム・バダウィ」と改めて行き先を告げると、今度は「そんなところには行かない」と言う。私は金を払わずに車を降りた。次に拾ったセルビスは、気さくの良い老人が運転していた。車のフロントにはオリーブの枝を飾りに置いていて、私に対しても「ようこそいらっしゃい。さあ、どうぞ」と、とても丁寧に応じてくれた。「この人ならだいじょうかな」と思い行き先を告げる。すると、「ああ」とばかりに軽く頷いてそのまま方向も間違えずに走ってくれた。後から乗り合った女性にも「ようこそいらっしゃい」と親切に乗せていたので信用したが、やはりこのドライバーもとんでもない奴だった。私が同乗者の客が料金を払うのと同時に定額の料金を払ってしばらくしたら途中の橋の上で車を止めた。「ここで降りろ」と彼は言う。私は、「ここはバダウィじゃない。バダウィまで行け」と言うと、いきなりわめきだした。「お前、パレスチナ人嫌いか」と私が聞くと、今度は車から降りて大声で外の通行人に聞こえよがしに騒いで外のドアから私を引きずり出そうとした。同乗の客に「こんなことあり?」と聞く。すると、彼女まで「早く行ってよ。行って」とドライバーの肩を持つ。とんでもない奴らだ。私は仕方なく車を降りると、こういうときのレバノン流、決め台詞で「クソでも喰らえ、二枚舌!」と大きな声で車を見送ってやった。さらに次の車もそんな感じで私を途中で降ろした。「お前は、バダウィに行きたいと言ったろ。ここはもうバダウィだ。誰がキャンプの中まで行くと言った?」などと言って私を道路上で降ろした。もう、このときほど、スンニ派レバノン人に対して怒りを覚えたことはない。連中はグルになって、外国人をたらい回しにした挙句、また次の車を拾わせて金を取るという常套戦術なのではないかとさえ訝ってしまう。余裕を持って早めに出てきたから良かったが、普通に出掛けていたら完全に時間オーバーだ。最後にようやくパレスチナ人ドライバーの車を拾って目的地に辿り着くことが出来た。ベイルートのような都市部では、料金を吹っ掛けられることはあっても客をまったく関係の無い場所で降ろすなど野蛮なことはしない。ある程度、警察の管理が行き届いているからだろう。しかし、このトリポリでは違った。もう、タクシー・セルビス業者がグルになって外国人客の「キャッチボール」をして金をふんだくる荒稼ぎが横行しているようだった。皆さんも、トリポリに行くときはくれぐれも御注意願いたい。
ひまひま3  さて、だいぶ前置きが長くなってしまった。昨日の青年と約束した学校の校庭で、私はヒマなおじさんたちに日頃の愚痴を聞かされながらひたすら待っていた。ところが、申し合わせた時間を1時間も経っているのに姿を現さない。いくら時間にルーズな人でもこれほど長くなるわけはない。私は、何か急な都合で来れなくなったのだと解釈した。「これはどうしたものか」と思案していると、別の友人から紹介されていたパレスチナ人の電話番号をメモしていることに気が付いた。実は、彼とは別の日程でバダウィを訪れる約束をしていたのだが相手の都合で留保していたのだった。「そういえば、彼の家もバダウィにある」と思い出して電話を掛けてみた。相手は、こちらの声を聞いただけでキーワードのように私の名前を言い当てた。10分ほどすると校庭に彼がやって来た。彼も年齢は20代後半といったところ。教養があり、懐の深そうな人物だ。この難民居住区ではちょっとした若手の顔役と言える存在のようだ。彼は、私の友人のレバノン人から「こいつは俺の兄弟みたいな奴だからよろしく頼む」と言われていたらしい。さっそく、私の呼び出しに応じてくれて恐縮したのだが、すでに学校とかの撮影は昨日で終えているし、また同じところに行って写真を取るのも対象者たち対して気が引ける。そこで、昨日の青年から聞いた問題点を彼に問い直して客観的な意見を求めることにした。彼なら、ある程度の情勢分析や政治知識もあるので最適だと思った。すると、昨日の青年から聞いたことは、かなりの主観や憶測が含まれていたことがわかった。

 まずは、ナハルエルバレドを語るときに最初に疑問に思ったことは、「old city(旧市街)」と「new city(新市街)」の分け方であろう。私も新聞を読んでいて何のことかよく判らなかった。こちらに来て、地理的な説明と破壊状況を知らされてようやく理解できた。つまり、「old city(旧市街)」とはキャンプが出来た当初の古い建物が多い地区で街の中心部に位置する。ここは、ファタハ・アルイスラムが最後まで篭城したところでもあり、レバノン軍から集中的に砲撃を受けて建物の形が何も残らないほど瓦礫の山と化した。そして、「new city(新市街)」はしゃんぷの周辺部を意味する比較的新しい建物が多く立ち並ぶ。主だったビルディングは砲撃で破壊されたが、まだいくらか建物が残っていて人々が戻れる余地を残している地区だ。判りやすいように図を貼り出しておく。概ねこんな感じである。
地図

 さらに私は、国連からナハルエルバレド避難民に向けられた救援物資や医薬品が「粗悪品ばかりという問題」を尋ねてみた。すると、「国連から送られてくる救援物資や医薬品が粗悪品ということは一概には言えません。現在、バダウィに避難してきた人々を支援しようと世界中から多数のNGO団体が物資を送ってきているし、レバノン国内からも様々なボランティアチームが現地救援団を派遣してきています。たぶん、そのうちの一部の医薬品が期限切れだったのかも知れません」と彼は答えた。ドバイ
また、レバノン軍から送られた野菜や果物などの食料物資は、ほとんど傷んでいて食べられたものではなかったという問題の真相を私が尋ねると、彼は笑って「レバノン軍が難民に食料を支援することなんてあり得ないでしょう。彼らは建物を破壊して道路に検問を置くことだけです。もし、それが本当ならレバノン国内のボランティアが送ったものだと思います。民間は品質管理にルーズなところがありますから」と言った。私は、もしかしたらそれもあり得るだろうと思った。先だって、私が南部に行ったときに知り合った地雷撤去のNGOグループの学生たちが着ていた作業服は、グレーのタンクパンツにフィールドジャケット姿で一見すると兵隊の戦闘服のようにも見えた。そんな作業服を着たNGOグループが他にもあるのだろう。私は、さらに、昨日聞いたキャンプ周辺のレバノン人住民らとナハルエルバレド避難民たちとの生活環境を巡るトラブルの件を聞いてみた。それを聞いた彼は、大きく頷いて「それは大きな問題ですね。たしかに、住居が混在化してくるとそういう問題はあります。しかし、レバノン人たちは行政から正しい情報を知らされずにいるのです。彼らは、いまだにパレスチナ人は皆、テロリストだと思っています。ファタハ・アルイスラムと難民キャンプを同一視してしまっています」と答える。借家さらに、彼は付け加えて、「君も昨日見てきたと思いますが、今、キャンプの外ではレバノン人のオーナーから家を借りている人が大勢います。また、その他もビルディングの1階ガレージ(店舗区画)を改装して家賃の安い仮の宿として住んでいます。大雨が降れば水がコンクリート打ちっぱなしの床に入ってくるし、冬場はとても冷えるでしょう。このようなガレージには避難民家族でいっぱいになってしまいました。もう許容が限界なのです」そう彼は語った。
 
 私はそれまで疑問だった「ファタハ・アルイスラムとレバノン・スンニ派の関係」について彼に見解を求めてみた。すると、「ファタハ・アルイスラムは宗教的な国家を作ろうとした組織でした。レバノンのスンニ派(ハリリ派)から資金援助があったと言われますが、それは9・11以前の一時期だけでした。当時はシーア派のハズッボラーが南部を解放して、国内の支持を一気に集めていたので、それに対抗するための政治圧力を作りバランスをとろうとしたのです。ハリリグループは、宗教がどうこうと言うよりも政治的な駆け引きの道具としてあの組織を利用したのでしょう。結果、アルイスラムは、ハズボッラーのように民衆の支持が得られなかったのでそれまでですけどね」また、さらに彼は「以前、自分が仕事でナハルエルバレドに行ったときに彼らを街中でよく見かけました。本当に様々な人種でしたよ。パレスチナ人よりもむしろパキスタン人やシンガポール人、シリア、イラク、サウジなど様々な国から義勇兵が参加していました。彼らは、腕時計や両手の指に高価な指輪を嵌めて、リッチな身なりでした。キャンプの子どもたちにキャンディーや小銭をばら撒いてそれで喜捨をしたつもりでいたようです。基本的に彼らは金で雇われた傭兵と呼ぶ方が相応しいと思います」と語った。彼が、アルイスラムのメンバーたちを直接見てきたと聞いた私は、「彼らのことで、どうしても解らないことがあります。なぜ、彼らはレバノン政府に対して闘いを挑んだのか。それがどうしても解かりません」と尋ねえた。その問いに対して彼は、「ファタハ・アルイスラムの組織は、レバノンにスンニ派のイマーラ(イマームが統治する国家)を建設しようとしたのです。彼らはトリポリを拠点に、国内各地のパレスティナ難民キャンプを支配下に治めるという目標を掲げていました。最終的にはベイルートにエルサレムを築き、レバノンをパレスチナ化する理想を掲げて、逆に政府軍に潰されました」とここまで述べた。

 私は、その話しを聞いてすぐさま「理解できない」と、呟くしかなかった。しかし、今、落ち着いて考えを反芻すると「彼らはそうせざるを得なかったのでは?」と思う。かつて、サウジから外資導入を優先した故ラフィーク・ハリリ前首相も、それだけではイスラエルに勝利を収め民衆の支持を集めた政治勢力のヒズボッラーよりも優位に立てないと感じたのだろう。シーア派ヒズッボッラーを牽制するためにパレスチナ難民たちを抱え込もうとしたのではないだろうか。私がベイルートのシャティーラ難民キャンプで見た「子どものための養護学校」は、およそ難民キャンプの学校とは思えないほど設備の整った校舎だった。そこは、故ラフィーク・ハリリ前首相の肝煎りで建てられたと聞いた。バダウィ4これは私の推測でしかないが、故ラフィーク氏はパレスティナ難民キャンプ内限定で、“イマーラが統治する自治区”を建設するところまで黙認していたのではないだろうか。しかし、彼が暗殺された後、統制が取れなくなったファナスティックな組織が暴走した。それこそ、坂道を転げ落ちる雪玉のように止まることの出来ない勢いで次第に政府も抑えられなくなった・・・。まさに、アフガンのタリバーン化しようとしたとき、逆に政府が彼らを潰しにかかったとすればどうだろうか。まあ、この先をどうこう考えても所詮はすべてアンダーグラウンドの世界である。
PLO

 私に説明をしてくれた彼は、こうも言っていた。「レバノンでは表立った市民戦争はすでに終わったと言われています。しかし、水面下では今でも市民戦争は継続中なのです」とのことだ。さて、それについては私には解からない。だが、ひとつはっきりしたのは私たちがこうしている日も、パレスチナ解放機構バダウィ支部の保安部隊が新隊員募集を公然と行なっていた。道路脇を埋めるほどの長蛇の列だった。これというのも、ナハルエルバレドを占領していたファタハ・アルイスラムの指揮官ナセル・イスマエルとその部下たちの身柄拘束したのがバダウィの保安部隊である。その勢いに乗っての「テロリスト保安対策」の一環だろう。隊員を増員して、キャンプの防衛と合わせて若年層の失業者対策なのかも知れない。だが、すでにテロリスト組織は壊滅されたというのに、なぜ増員する必要があるのか疑問だ。彼らが、またしても現政権の「親衛隊」にならなければ良いと願うばかりである。

 私は、質問の締めくくりに「あなたはどこの組織のメンバーですか?」と彼に聞いてみた。すると、彼はきょとんとした顔で、「それはどういう意味かよく分かりません。ただ、私は人民の解放を願う側にいます」とだけ、答えていた。
バダウィ1バダウィ2












 その後、私と彼はバダウィの街中を散策しながら街の人々に挨拶して回っていた。というより、「この日本人は俺の友達だ」と、私が紹介されていたのだと思う。なんとなくそんな雰囲気で皆、気さくに応じてくれた。やっぱり、近所付き合いでは顔の広い人と仲良くなっておくことに越したことはない。つくづくそう思った。

 さあ、いつの間にか時間が来てしまった。急いでベイルートに戻って荷物を引き取り、その足で空港に行かなくてはならない。時間との勝負になった。では皆さん、日本で会いましょう。

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