自分自身であれ〜エゴンシーレ展へ | 春はあけぼの 女は美学

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50過ぎた女が感じたこと、考えたことを書いてます

こんにちは。

文字つづりすとの伏見美帆子です。


アラフィフオンナが、
感じるままに綴るブログです。

 



昨日、上野に行って、

こちらを観てきた。




チラシの副題には

こう書かれている。



夭折の天才、

その才能を目撃せよ



夭折の天才…

エゴンシーレは、28歳の若さで

当時流行ったスペイン風邪にやられ、

亡くなっている。

芸術家としての活動期間はわずか10年。

その間、多くの作品を残す。


そのシーレの作品が30年ぶりに

日本にやってきた。

世紀末にウィーンで活躍した、

師匠と仰いだクリムトや、

ココシュカなどの作品も一緒に。


エゴンシーレの名前を知ったのは

いつのことだったか全く覚えていない。

ただ、世紀末の天才画家というだけ。

それなのに、

なぜか彼の作品を見たい!と強く思った。

すぐにチケットを予約。


今から思うと、

この時の行動力を褒めてあげたい。


シーレ作

「吹き荒れる風の中の秋の木」


シーレは、

もともと学業には問題があり、

それでも絵の才能だけは突出していた。

16歳の若さで、

ウィーン美術アカデミーに入学。


またそのアカデミーも、

途中で辞めてしまうのだけれども。


尊敬するクリムトが創立した

「ウイーン分離派」も、

そこでさまざまな影響を受けつつ

才能を開花させても、

後に、脱退。


シーレは、20歳の時に

友人に宛てた手紙で書き綴っている。


僕は永遠の子供。

熱狂する人々の歩みにしたがってきたが、

彼らの中にいたいと思わなかった。


自分自身であれ。

自分自身であれ。



そう綴りながらも、

自分自身が何者なのか

直向きに自我を探求し続けた。


後に、シーレは、

多くの自画像を書いていく。

その代表作が、

今回のチラシにもなっている

「ほおずきの実のある自画像」



顔を斜めに向け、

でも目はこちらを見据えている。

憂いを帯びたような

でも挑戦的でもある視線。

後ろの赤いほおずきの対照的な色が

黒髪と黒い服の自画像が浮き出させている。



他にも、

様々なたくさんの自画像を描き、

自分の写真を撮り


自分とは何かというアイデンティティ

を模索し続けた。




アーティストは、

自分を表現するために

そして自分を模索するために


絵画を描いたり

歌を作ったり歌ったり

詩や小説を綴ったり

踊ったりする。


シーレは詩人でもあった。


詩とは、


自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。 





つまり、

人生において、心を動かされたことを

表現すること…。



毎日の生活の中で、

たとえどんなに大きく心を動かされたとしても

ましてや、心の機微に触れることも、


ベルトコンベヤで流れていくように


それは、

時間と共に過ぎ去ってしまう。


時に傷が残ることがあっても

見て見ぬ振りをしてしまうことも。


しかし、

アーティストは、

それを形として残す。



だからこそ、その芸術に触れた時


自分が忘れていた、

はるか彼方の

ベルトコンベヤの先にまで思いを馳せ


そこに感情の渦が

巻き起こってくるのかもしれない。



昨日、

人生の中で、一見無駄に見えるものでも

自分の大切な宝になり、

幸せの道導となるものがあると

書いた。


芸術こそ、

興味がない人にとっては

「無駄」なものである。


でも、

それによって、

「豊か」さをもたらしてくれるものとも

なりうるのだ。


シーレ作「モルダウ湖畔のクルマウ」



なんだか、
シーレの絵を真剣に見ていたら
頭がいっぱいになり、
胸がいっぱいになり、
脳みそがフル回転し
感情にも呑まれそうになり

いつも展覧会に行くと必ず購入している
絵はがきも珍しく手に取ることもなく、

その代わり、
お腹が空いた笑。

そのあと入った、
ワイン角打ちのおそば屋さん、美味しかった。