YouTubeで見てすごいと思った動画

 

 YouTubeで見てすごいと思った動画というのを、メモのつもりででもアップしておこうかと思います。

 

 これ、笑いました。

 最後、黒猫の吠え方が良い(笑)

 

 

 

 

YouTubeで見てすごいと思った動画

 

 YouTubeで見てすごいと思った動画というのを、メモのつもりででもアップしておこうかと思います。

 

 これもすごいですねえ。

 

 製作者のことをいろいろ見ていくと、『シン・ゴジラ』のCGにも関った方だということがどこかに書いてあったような気がします。一応プロの方なんでしょうかね。

 プロの方が趣味で製作された・・・というような感じなのでしょうか。

 

 ガメラが、ゴジラの熱戦を避けながら回転ジェットに切り替わるところがいいですね。

 ゴジラはアメリカ版の感じ、ガメラは『イリス覚醒』の雰囲気かな。

 

 

 

 

YouTubeで見てすごいと思った動画

 

 YouTubeで見てすごいと思った動画というのを、メモのつもりででもアップしておこうかと思います。

 

 よくこんなことを考えるものだなあ。

 「あったかいふとんを目指すための羽根があることを」というところが、ちょっと強引っぽい感じで好きです。

 

 

 

 

 

 

YouTubeで見てすごいと思った動画

 

 YouTubeで見てすごいと思った動画というのを、メモのつもりででもアップしておこうかと思います。

 

 これは、すごいですよね。

 一時期は、この動画にハマって、こればかり聞いていた時期があります。

 

 この動画で演奏されている方はどのような方なのかはまったく知らないのですが、おそらくアマチュアの方なのだろうなとは思うのですが。

 

(以下は他人事として思ったことです)

 

 ロシア政府は今まで「これは戦争ではない」と、国民に信じさせてきたのだと思うのですが、

この「動員」によって国民にも「これが戦争なのだ」ということがわかったということなのだろうなと思います。

 

(以上は他人事として思ったことです)

 

(以下は日本人として思ったことです)

 

 日本では戦時中、職業軍人ではない一般の国民が召集令状(赤紙)で召集されて、戦地に送られました。

 要するに、ロシアはそういう状態になるということだと思います。

 

(以上は日本人として思ったことです)

 

(以下は日本人として思ったことです)

 

 一応ロシアのこととして書きますが、他のどんな国でもそうですが、どうして日本の過去の過ちから学んでくれなかったのでしょうか。

 

 もし良かったら、日本国憲法を読んでみてくれませんか。

 

 そこには、日本が犯した戦争という過ちから何を学ぼうとしたのかが書いてあると思っています。

 

 不完全であるかもしれないし、絶対的な真実ではもちろんないのかもしれないし、学ぼうとしただけで結局学べなかったのかもしれませんが。

 少なくとも、憲法は憲法なりに何を学べば良いのか、何を学ぼうとすればよいのか、それなりに考えた結果が書かれているのだと思っています。

 

 えーと、悪口としてはどんな風に言われるのでしたっけ?「理想主義」とか「9条信仰」とかでよかったっけ?恐らく私はそういう考えの人間です。

 

 どうして日本国憲法に書かれたような世界は、実現しないのでしょうね。

 というか、どうして世界中の国は、日本国憲法に書かれたような世界を実現しようとしないのでしょうね。

 

(以上は日本人として思ったことです)

 この『スクールデイズ』についても、もう何年も前から書いておきたいなあと思っていて、書いている暇が無いとかで全然書けていなかったので、なんとか書いておこうと思います。

 

 この『スクールデイズ』のアニメは私はすごく好きで、とりあえず現代の萌え系のアニメと言えばいいのかそういうアニメの中では5本の指には必ず入るくらいに好きです。

 まあ、1位は『ななついろドロップス』という作品だと決めているので、『スクールデイズ』は1位ではないのですが5本の指には絶対入りますね。

 

 ただし、私がこの『スクールデイズ』を好きなのは私だけの特殊事情のようなものがあって、少し評価が上がりすぎているという面はあると思います。

 ですから、普通の人に対しては、それほどすぐれた大傑作だとかいうつもりはないです。

 けれども、「ひねりの効いたスマッシュ・ヒッツ」っていう感じで、言いたいことの言い方が結構スマートなのかなあという気がします。

 

 

 まず最初に、先ほど私が書いた「私だけの特殊事情」のようなものについて書いておきたいと思います。

 

 このアニメは、「アダルトの恋愛アドベンチャー」のゲームを原作にしています。「アダルトの恋愛アドベンチャー」という言い方が正しいのかどうかわかりませんが、「ギャルゲー」とか「美少女ゲーム」とか色々な呼び方で言われると思います。

 私は、このようなアダルトのゲームの存在を知ったのがかなり歳をとってからだったのですが(母親が亡くなった前後だったと思うので、40台の頃だったと思う)、

その時に、こういうゲームに関してどうしてもわからないことがあって、それはどうして一つのゲーム(一つのシチュエーション)の中にヒロインが複数人いなければいけないのかということでした。

 

 こういうゲームの構造って私がここでわざわざ説明するようなこともないでしょうが、

例えば「Aさんルート」のようなものがあってそれをたどってAさんと「純愛」をして最後にエッチをすれば「攻略」で、

次にゲームをリセットすれば、また別の「Bさんルート」のようなものがあってそれをたどればBさんと「純愛」をして最後にエッチをすれば「攻略」で、終わればまたリセットして「Cさんルート」・・・ということなんですよね。

 それで、私はこのヒロインが複数人いるという理由がまったく分からなかったわけです。

 そのころ、そういうゲームに対する批評を読んだことがあるのですが、ヒロインの人数が少ないことが欠点として挙げられていました。そういうのを読んでも、そういうゲームの中ではヒロインが大勢いることが常識のようなことだと思われました。

 

 けど、最後にエッチをすることが目的だとはいっても、そこまでの恋愛の過程では「純愛」をしているわけなのですよね。

 『ロメオとジュリエット』でも、ロメオの相手がジュリエットだから純愛になるのではないかと思うわけで、それ以外の登場人物も脇役として全員存在意義があるのではないかと思うのです。

 そうしたら、ロメオが脇役の女性と純愛してもストーリーが成り立たないと思うので、

ゲームでも「このストーリーはこの人と純愛をするストーリーなのだ」でいいんじゃないかと思うわけなのですが。

 

 そういうことが私にとって、アダルトのゲームに対する絶対疑問だったわけです。

 それで、この『スクールデイズ』はその部分を突いているので、私は気に入ったのですね。「あ、アダルトゲームに関わっている、ゲームを作っている人でも、そういうことを意識している人が居るんだ」ということです。

 まあ、ゲームの中にヒロインが複数人いることに、何故なのかという回答を与えてくれているわけではないのですが、言いたいことを言うために一つのゲームの中にヒロインが複数人いることを利用して言っているというのですかね。いわば、アダルトゲームのセルフパロディのようにも受け取れます。

 

 以上が私の特殊事情です。

 

 

 それで、アニメの内容を説明するわけなのですが。

 

 この話は、要するにメタ・フィクションです。

 それで「伊藤誠」君というのは、ゲームの外側でゲームをプレイしているはずのプレイヤーがゲームの中に入ってしまったキャラです。

 ゲームの中に入ってしまった伊藤誠君にとってはゲームの中が現実ということになってしまいます。

 けれども伊藤誠君は、その現実になってしまったものに対してあくまでもゲームプレイヤーとして行動します。誰かと純愛をしてエッチをしてリセットして、また誰かと純愛をしてエッチをしてまたリセット・・・しようとします。

 けれども現実をリセットすることはできませんから、それが最後に破滅(殺されるほどの破滅)してしまうということになるわけです。

 

 それで、このゲーム(アニメ)の作者が何を批判しているのかというと、リアルな現実の世界にいる人(ゲームプレイヤーであるにせよないにせよ)が現実の世界の物事(恋愛であるにせよないにせよ)を「リセット」しようとすることです。

 失敗すればリセットして、また失敗すればリセットして、また失敗すれば・・・と繰り返していけば、いつかはゲーム(アニメ)内の伊藤誠君のように破滅するだろうということです。

 

 この解釈は、おそらく当たっていると思います。

 

 この『スクールデイズ』のパロディのようなDVDで、登場人物が戦隊ヒーローになって戦うというアニメがあるのですが、その冒頭で伊藤誠君が電車に乗りながら「現実をリセットすることはできない」みたいなことをつぶやいているのですね。

 それを聞いて、やっぱり本編はそういうテーマだったのだなと思いました。

 

 あと、まったくうろ覚えなのですが、DVDを見ればわかるのですが見るのも面倒なのでうろ覚えのまま書くのですが。

 DVDの最終巻で、脚本家の方が文章を書いていてその中で、なにかゲームを全てのヒロインを同時にプレイするような方法があるのですか?その方法を応用して書かれたというようなことを書かれていて、

それも一応の種明かしなのかなあと思いました。

 

 

 ただ、こういう風に言っておいてナンなのですが、

「現実をリセットしようとする人」というのが具体的にどういう人なのかというのが、私にはあまりよくわからないのです。

 かろうじて思いつくのは、昔流行った「青い鳥症候群」ぐらいなのですが。「今の会社で私が仕事ができないのは、私に能力が無いのではなく会社が私に合っていないからなのだ。だから、どこかに私に合って仕事ができるようになる会社があるはずだ」という感じで転職を繰り返す人。

 でも、それも殺人に例えるほど破滅するわけでもないしなあと思います。

 

 でも、作者は何かそういう現実をリセットしようとする人で、相当批判されるべきような人を見たのでしょうかねえ。

 昔から書いておこうと思いながら中々暇がないとかで書けないものがあるのですが、これもその一つです。

 

 金田一少年の事件簿のシリーズ『学園七不思議殺人事件』『オペラ座館殺人事件』2冊まとめての感想です。

 というより、この2冊を読んだだけで、「金田一少年の事件簿」シリーズの全体像を推測して、それに対する感想といった方がいいかもしれません。

 

 もう何年も前の話になるのですが、雑誌のような形に編集した「名探偵コナン」の本をコンビニで売っていて、なんとなく気が向いて買って、面白いのでずっと買い続けていたことがあります。普通の単行本ではなくて、雑誌のようなムックのような形の本に3~4編の作品が順番などもまちまちでアトランダムに収録されているようなそんな本だったのですが。

 気に入って毎月買っていたのですが、結局いつしか読んだ覚えのあるものがまた出てきて、ははぁんこれでこの形式の本に収録されているのは一周回って全部読んだことになるのかなと思って買うのをやめてしまいました。

 

 それで、この「金田一少年の事件簿」の2冊は、その「名探偵コナン」と同じような雑誌のような形式の本になって同時にコンビニで売っていて、それを買って読んでみたものです。

 ただ、このコンビニで売ってる雑誌のような「金田一少年の事件簿」は、それ以後、続きが出なかったので未だにこの2冊を読んだきりです。

 

 以上が、前置きかな・・・

 この『学園七不思議殺人事件』『オペラ座館殺人事件』に関してはネタバレで感想を書きますので、未読の方はご注意ください。

 

 

 ところで、その「金田一少年の事件簿」を買う時、ものすごく迷ったのです。

 なぜ迷ったかというと、私は「金田一少年の事件簿」は読まず嫌いで、ある偏見を持っていたからです。

 

 

 その私が抱いていた偏見の内容を説明します。

 

 私の親は「サンデー毎日」という雑誌を定期購読していたのですが、「金田一少年の事件」が流行っていた頃、その「サンデー毎日」の読書欄に「金田一少年の事件簿」の作られかたが書かれたことがありました。

 それによると、「金田一少年の事件簿」は「トリック」と「ストーリー」と「作画」が完全に分業体制で行われていて、しかも、そのトリックを担当するのは一人の人ではなく、数人のメンバーで構成される「会議」なのだということでした。

 そのストーリー担当の会議のメンバーは、古今東西のあらゆる推理小説を読み漁って、その中から金田一少年の中に使えそうなトリックをピックアップして、それを会議にかけて実際に使うトリックを決定する。

 実際に使うトリックが決まったら、それをストーリー担当の人(「原作」としてクレジットされている人だということでした)に渡して、それを使ってストーリーが作られる。

 あとは、そのストーリーが作画担当の人に渡され、漫画として描かれる。

 

 私はこの記事を読んで、

どうせトリックを考える労を惜しんで既存の作品から適当なトリックをパクってきて、尤もらしく仕立てた子供だましに違いない

という偏見を持ってしまったわけです。

 特に、私にとっては推理小説というのは一人の作家がコツコツとトリックも考えストーリーも考え文章も書くという「職人の手工業」のような世界だと思っているので、そのような「オートメーション」のようなやり方には偏見を持ってしまうという感じです。

 

 あるいは、私がパソコン通信のニフティの「推理小説フォーラム」に所属していた時、この作品が島田壮司さんの『占星術殺人事件』のトリックをパクったという話を漏れ聞いたのですが、

そのことも結局上に書いた偏見を、さらに強固にしてしまっただけでした。

 

 

 ところが、実際に作品を読んでみるとその偏見とはかなり違った印象がありました。

 

 分業体制にされている「トリック」「ストーリー」「漫画」に分けて見ていこうかと思います。

 

トリック

 

 先ず印象が違った一つのことは、このトリックに関してなのですが、

恐らくこの作品で使われるトリックとして、トリック作成の会議の人が意識しているのは、下に書いた2つのうちのどちらかの条件だと思います。

1,誰でも一度は聞いたことがあるようなありふれたトリック。

 例えていえば、ピンと糸を使って密室を作るようなトリックなんてもはやだれが最初に作ったかわからないくらいありふれたものになっています(実際に最初に使ったのはS・S・ヴァン・ダイン)そんな感じのもの。

2,子供でもちょっと考えてピンと思いつけば「ははぁん」とわかるもの。

 

 それで、トリックを作るのが1人の人ではなく複数人の会議であったのは、上記の二つの条件を確認するためもあったのだろうと思うわけです。

 ありふれたトリックかどうかを確認するためには、会議の多数のメンバーがあらかじめ知っていればありふれたトリックということになりますし、

会議のメンバーがちょっと考えてトリックがわかるようであれば子供でもピンと思いつけばわかりそうだということになりますし。

 もちろん、古今東西の推理小説を読み漁るために人数が必要だったという意味もあったのでしょうが・・・

 

 私も作品を読みながらに自分でトリックなどを見破るというようなことはまったくできないタチなのですが、『学園七不思議殺人事件』のメイントリックはさすがにわかりました。というか、どこかにこんなトリックは有った気がする。というか鏡を使ったトリックなんて当たり前すぎるものですから。

 

 オペラ座館のメイントリックはちょっと面白かったです。要するに、犯行時刻を錯覚させてアリバイを作るというものですが、普通それだと先に殺しておいて後から犯行が行われたように偽装するのがよく有るように思うのですが、先に犯行が行われたように見せかけてその時にはまだ被害者は生きていてその後に殺すというのは、逆を突いていて面白かったかなと思った。

 

ストーリー

 

 もう一つ印象が違ったことは、このストーリーに関してです。

 

 つまりこの作品は、ストーリーがメインでトリックはそれを引き立てるためという感じがあるんですね。だから、上に書いたような感じで、トリックをわざと「弱めて」あるといった感じです。

 後期のディクスン・カーのような感じですかね。

 

 実際、ストーリーはすごく面白いです。

 

 『学園七不思議殺人事件』では、動機になる過去の因縁話があるのですが、それがものすごく荒唐無稽で、私は最初読みながらその部分も七不思議の嘘の一部かと思っていたのですが、それは本当のことだったということで、強いて解釈すれば「伝奇的」と言えばいいのか戦前の推理小説のような雰囲気を出そうとしているのかという感じですかね。

 

 『オペラ座館殺人事件』は『オペラ座の怪人』をテーマにした話なのですが、その中に『黄色い部屋の謎』のトリックがほぼそのまま使われているんですね。もう、こんなことをされると推理小説ファンは大喜びします(笑)

 この作者は、なかなか推理小説ファンの嗜好性もわかったなかなか大したものですねえ。

 ただ、このトリックは会議の方から出したのですかねえ。それともオペラ座の怪人だから、ストーリーの人がこのトリックを入れたんでしょうかねえ・・・

 

漫画

 

 漫画の部分は、それほど言うべきこともないです。

 私には、あまり上手い漫画家さんだとも思えなかった。

 元々、この作品がそれほど人気が出るだろうとも想定していなくて、新人の漫画家さんを抜擢したとかそんな感じに想像したのだけど。

 

 以上です。

 

 要するに

ストーリー>トリック>漫画

という感じかな。

 基本的にストーリーを読むべき作品という印象です。

 

 単行本を買って一通り読んでみたいなあと思いました。

 でも、本屋さんにはもう売ってないんですよねえ。アマゾンかなあ・・・アマゾンも面倒くさい・・・