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今月のテーマ《ひながたの道(2)》

#6月《ひながたの道(2)》

No.71<後々世界ひながた>
No.72<道聞き分けば>
No.73<僅か三年・たった三日の間>
No.74<ひながたそばにある>
No.75<大工一人になった>

 

No.71<後々世界ひながた>
【本 文】

我が子も先に立て、楽しみも先に立ち、後々世界ひながたという。この理をよう聞き分けてくれ。どんな不自由艱難も出来んやあろうまい。さあ/\いかなる道も、これより一つの理という。(30・10・12)
【解 説】

 おことばは、万田万吉(島ケ原の初代・当時42才)の妻まつが難産で出直した時に伺われたおさしづの一節です。おことばに先立って、次のように諭されています。
 このたびの事情は「余儀なくの」、やむを得ない事情なのです。この道を弘めていますが、その初めは紋型ないところからだんだんと、年を追って道が形作られました。そのことは皆の心にも治まっていることでしょう。何かのことも鮮やかなご守護をいただいています。尋ねている今の事情もたすけ一条の上からあらわしていることですから、神の思惑を悟ってもらいたいものです。難儀不自由をさせてもらうことが神様に働いていただく種となるのです。この道を始めかけたのは、何年何月からどういう事情からであったでありましょう。信仰の元一日に立ち返って思案してもらいたいものです。この道は、一代で終わるのではありません。将来末代までつづくものです。この度の事情は「忘れるに忘れられん」ものであることは重ねて言うまでもないでしょう。
 そして「なれど、よう聞き分けてくれ」と仰せになって、このおことばが続くのです。教祖を見てほしい。我が子も先に亡くして、楽しみも先送りにされたました。それは、後々この道を通る万人のひながたです。教祖のそのひながたを思えば、どんな不自由、艱難も乗り越えることができましょう。どのような苦しい状況に置かれても、いかなる道も通れるでありましょう。そうして通った道がまた後続の雛型ともなるのです、と。

 

No.72<道聞き分けば>

【本 文】

日々古き道一寸話して置く。たんのうをしてくれ。これ第一。この道というは、三十年以来四十年以来の道聞き分けば、どんなたんのうも出来る。いつ/\までの理に成る程に。(36・5・11)
【解 説】

 このおことばは、清水由松(兵神の三代会長)の妻みつ(当時26才)の身上願に対するおさとしの一部分です。先に「日々過ごす中にいろいろ案じることが生じて来ます。それら一つひとつにとらわれて案じていたのでは切りがありません。この道は、いついつまでも続くものです。神様の思召を心に治めて、その上で思案をすれば、越せないことはないでしょう。どのような中にも楽しみが含まれているものです。身上に不自由なことが現れてきても、こんなことでは将来どうなるのかと、と不安な気持ちにならないように」と諭されています。
 そして、このおことばが続きます。「古き道」を話しておきます。それを聞いてたんのうすることが第一です。「三十年以来四十年以来の道」とあります。教祖が貧のどん底の道を歩んでおられたころのことと思われます。火をともすに油がない、夏に吊る蚊帳もなく、冬に暖をとる薪もなく枯れ葉や小枝を集めて暖をとるというような貧窮状態、赤貧洗うが如くの暮らしをされていましたが、そんな中にあっても教祖は「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」との親心は常に堅持されました。「食をさき着物を脱いで、困って居る者に与えられるのが常であった。漸くの思いで手に入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく与えられたのも、寒さにふるえて居る者を見て、身につけて居る絆纏を脱いで与えられたのも、この頃である。」と『稿本天理教教祖伝』は記しています。そうした教祖の通られた道を聞き分け、そこに思いを致せば、「どんなたんのうも出来る」と言われているのです。
 たんのうすればそれが種となって何れ開花結実します。さらにまたそれが種にもなって「いついつまでの理に成る」と諭されているのです。

 

No.73<僅か三年・たった三日の間>
【本 文】

僅か三年の間の事を、長う取るからどんな理も出る。たった三日の間や。三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。(22・11・7)

【解 説】

 このおことばの直前に「三年やそこらの事は、三日の日の事思えば直きや。三年辛抱すれば、落ちようと思うても落ちられん。たったそれだけの事が分からん。そこで皆んな一つ/\の理を寄せてくれるよう」と言われています。「三年」より「三日」の方が短い筈であるのに、「三年やそこら」は「三日の日の事思えば直きや」と言われています。
 人間の感じる時間の長さは、相対的なものです。同じ一時間でも、あっという間に過ぎる時間もあります。なかなか進まない時を経験することもあるでしょう。「直きや」は、そうした体感的な時間の長短を言われたものでしょう。三日の方が三年より長いと言われるのは、その「三日」に特別な意義が込められているからであると思います。たとえば、わたしたちの通る「三年」は、教祖が通られた艱難苦労の道すがらの中の「三日」だと考えれば、この「三年やそこらの事は、三日の日の事思えば直きや」も納得できるでしょう。
 おことばは、それにつづいています。わずか三年のことです。三年を長い年月のように受け取るから、いろいろと問題が出て来ます。不足や人間思案も生じて来ます。「三年」は、教祖五十年のひながたの道にあっては、わずか「三日」間です。その三年、極言すれば三日を、しっかりと通れば、不自由をしようと思っても、難儀しようと思っても、難儀不自由できない結構な道となるのです。わずか「三日」の通り方如何によるのだと諭されています。
 ちなみに、おさしづでは、「三年とも言えば三日とも言う。三日とも言えば三十日とも言う。三十日とも言えば三年とも言う」(40・4・8)とあり、三日、三十日、三年と同じような扱いがなされています。

 

No.74<ひながたそばにある>

【本 文】

ひながたの道が出してある。ひながたそばにある。めん/\もたった三日の辛抱すればひながたの道が。…どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ。

【解 説】

 教祖の歩まれた50年の道すがらは、「万人のひながた」(『天理教教典』第五章)です。そして「ひながたの道が出してある」、すでにお前たちの前に示している、と言われます。教祖の通られた道を見て、その話を聞いて、その型にそってひながたの道を歩むよう諭されているのです。
 さらに「ひながたそばにある」と指摘されます。元治元年に妻の身上から入信されて、教祖のご家族同様、貧のどん底の道を、ともに歩まれた飯降伊蔵の歩んだその道を「ひながたそばにある」と仰せになっています。
 飯降伊蔵は、妻おさとの身上をたすけていただいた御礼にと、お社の献上を思いつかれましたが、教祖は「社はいらぬ」と言われて、相談の上「つとめ場所」の建築となりました。棟上げのあと事件(大和神社の一件)があって、つきかけていた道でありましたが、落伍者も出て、道は止まってしまいます。このとき、教祖は、「後々の話の台である程に」と仰せになっています。
 伊蔵はそういうなか、こつこつと普請をすすめ、その後もおやしきに真実の種を蒔いて、伏せ込んだのです。そうした真実を親神様が受け取られて後に、本席という重大な役割を担わされました。その歩みは、まさに教祖のひながた通りの道でありました。「ひながたそばにある」と仰せになられた所以です。そして、だれでも、どんな者でも、教祖のひながた通りの道を歩んだならば、本席と同じように「同様の理に」受け取ってやろうと諭されているのです。

 

No.75<大工ひとりになった>

【本 文】

なか/\これ三十八年以前、九月より取り掛かり、十分一つ道よう/\仮家々々、仮家は大層であった。一寸ふしあった。皆退いて了た。大工一人になった事思てみよ/\。八方の神が手打った事ある/\。八方の神が手を打ったと言うてある。(34・5・25)

【解 説】

 このおことばは、元治元年のつとめ場所のふしんとその直後に惹起した大和神社の事件、そしてその後の人々の様子を述べられたおさしづの一節です。
 つとめ場所の棟上げの後のこの事件は、信仰の浅い者に、大きな不安と動揺を与えました。そして道から離脱する、落伍するものが多くあったと言われています。おことばは「一寸ふしあった」との表現ですが、「皆退いて了た」とあるように、かなりの衝撃であったものと思われます。
 元治元年までの多くの人々の信仰は、いわばご利益(りやく)信心レベルの信仰にとどまっていたように思えます。そのレベルの信仰者が多かったのでしょう。この一件は、そうした信仰のレベルアップをはかられたものと言えるのではないでしょうか。いわば「ここまでついてこい」と、高みへ引き上げられたのです。
 教祖が望まれたのは、もちろんそうしたご利益信心ではありません。いかなる難儀なことが身にふりかかってきても、断固とした心を定め、それを貫く高いレベルの信仰でした。そして、その期待にみごとに応えられたのが、飯降伊蔵であったのです。最後には「大工一人になった事思てみよ」と言われ、「八方の神が手を打った」と、その信仰に拍手を送られています。その道こそ真実の信仰者のひながたと言えるでしょう。