8月14日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(17)
■「きょうのおふでさき」 第十七号のまとめ (8月14日) 2026/08/14
■おふでさきの区切り《省略》
▼第十七号・(99)~(103)
《1~20、21~33、34~48、49~63、64~75 (5)》
■(99)きょうのおふでさき 《十七号1~20》
このみちハどふゆう事にをもうかな
かんろふたいのいちじよの事 十七号2
前回、この箇所を次のように解説しました。
いよいよおふでさきの最後の号に至ります。第十六号は明治十四年四月の執筆で、引き続いて、言い伝えでは明治十四年六月から第十七号が誌されているようです。しかしこの号には明治十五年五月十二日にかんろだいの石取り払い、没収について「とりはらハれたこのさねんわな」(38)と書かれているので、途中で筆を擱かれて休まれていたとも考えられます。
しかしいずれにせよ、この号の内容は、かんろだい一条についてであり、この号執筆中、かんろだいの石普請が進められていたこと、その秋に石工がいなくなって普請が頓挫したり、その後取り払い、没収と重なり、かんろだい普請の進捗具合とおやさまのかんろだいにかける思いが迫る臨場感のようなものが感じられます。
まずはかんろだいについて「にほんの一の宝」であってその元なる真実を世界へ教えたい(5)と言われ、この世人間創造の元の場所・ぢばを証す証拠としてかんろだいが据えられ(9)ており、いわばその場所は「にほんの故郷」である(8)。そのかんろだいを取り囲んでおつとめを教え通りにつとめることによって神の話がその通りに人間にも見えてくるので、それがどういう道であるかがわかるであろう。そして十三段のかんろだい(第九号47、59・60で触れられた形状の台)がみな揃うたならば、どのようなことも叶うのである(10)。そしてそれまでに世界中の胸の掃除を急かれる(11)。その掃除はどこにも誰にも分け隔てなく、月日が見分けして、どんな心のものも「一夜の間にも」心を入れ替えよ(14)、その心を月日がみな受け取る(15)。
「これまでハかへひとよにてへたてたら なにをゆうても一寸もしろまい」(19)の意義は、布教の場面でどのような所(高いところ・高山、遠いところ・遠国)に居る者でも親神はその者(よふぼく)に入り込んで胸の内を言うて聞かせる(18)という点にある。普通は聞き取れないような内容も当人の口からその心を話をさせる、親神が入り込んで指図をしてよふぼくの口から言わせる。神秘的な方法ではあるが、「神秘ではなく不思議である」(『おふでさき通訳』654ページ)と言われます。「きょうからは横目ふる間もない」(20)くらい素早く、「夢見たように」不思議をあらわすと言われているようである。
第十六号の最後の所で、
さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで 十六号79
と言われてお道の現状、人間世界の在りように、ある種の危機感を訴えられていたとも受け取れます。そうした状態を突破することをこの号では語られるのではないかとの予感がします。早速はじめましょう。
今までは何のための道なのか知らなかったが、きょうから先の道がわかるようになる(1)。この道はかんろだい一条ということが大きく横たわっているのだ(2)。
このかんろだいをどういう風に思っているか。これは「にほんの一の宝」である(3)。これ(かんろだいの意義)を、みなはどのように思っているか、この元なるを誰も知らないであろう(4)このたびはこの元の真実を世界中へみな教えたいのである(5)。
この元、かんろだいが建てられている場所・ぢばは人間創造のとき、いざなぎ(父の雛型・うを)といざなみ(母の雛型・み)の身の内の本真ん中であった所で、世界中の人間は創造され創められたのである(6・7)。そういう意味でこのぢばは、一れつどこまでも「にほんの故郷」である(8)。
人間を創めかけた証拠として、かんろだいを据えたのである(9)。このだいがすべて揃ったならば、どんなことでも願いが叶わないことはない(10)。それまでに世界中の胸の掃除をせねばならない(11)。
この掃除はどこにも隔てなく、一人ひとりの心の内を月日親神が見分けていると思いなさい(12)。月日親神はどんなところに暮らしいる者も、その心次第にすべて受け取る(13)。今までどんな心でいたとしても、一夜の間にも心を入れ替えよ(14)。真実に心をすきやかに入れ替えて真実の心になったら、月日親神はそれをすぐに受け取るのである(15)。月日親神にとっては世界中の人間はすべてわが子であって、可愛い一杯の心一条である(16)。
今まではどんな者でも人間の胸の内(心)を知っている者はいないだろう(17)。このたびはどのような所(遠い所、高い所)にいる者も、胸の内を言って聞かせるようにする(18)。これまでは壁一重隔てたなら、何を言っても知れないだろうと思っていた(19)が、その心を親神が指図してよふぼくから言わせるのである。きょうからは横目を使う暇もない瞬間に、夢見たように月日親神が何をするやらわからないぞ(20)。
■ (100)きょうのおふでさき 《十七号21~33》
このはなしどふゆう事にをもうかな
ふでのさきがなみへてきたなら 十七号24
前回この箇所を次のように解説しました。
これからどのような道になっていくのかを語られます。これまではこの道への歩みを「早く見たくて急き込んできた(23)が、それが「さあ見えてきたえらい本道」(22)に成って来る。これから「陽気づくめ」(23)になると言われています。
これまでおふでさきの中で展開されていた親神の救済計画(「ふでのさきな」24)が細道から「ゑらい」(22)本道へと次第に明らかになり、見えてくる。おつとめによる救済・たすけが実現してくるのである。
そこで「残念をはらす」(25)という話題に戻して、「何時」「どこで」で神が働く(「しりぞく」26)かわからないが、「ちょっとことではない」(27)と言われ、月日がそれぞれの胸の内を「しっかり見ている」「月日知らんということはない」(29)、月日が先へとことわっておく(31)から、その時が今「つんできた」迫っており、神の残念をはらす時である。だから成って来る姿をよく見て思案するよう(33)にと言われました。
おさしづで「ふでさき通り皆出る」(20・6・24) とあります。明治15年までに進めてこられた細道、本道、往還道への歩みは着々と進展しているが、人間の側のそれへの対応が遅れている点を指摘されて急き込まれることになります。以下でその様子が述べられます。
今までの月日親神の残念は、一寸のことではない。重大なことであるからよく聞き分けよ(21)。きょうまでは何も知らずにいたけれど、その残念を晴らす日が迫ってきている。本道が見えてきた(22)。この道を早く見たくて急き込んできたが、いよいよその道につくので、これからは陽気づくめとなるのである(23)。この話(「筆の先がな」おさしづに誌されたことが「皆出る」ということ、親神の救済計画)の実現(24)を早く見たい。
いままではどのようなことも聞いていたが、このたびこそはその残念な思いを晴らすのである(25)。この晴らしはどういうものか。残念晴らしの一例として親神の働きが「退く」、いつ何時どこで退くかわからないぞ、という話をされます(26)。これまでの長い道中で積もり重なった残念は一寸のことではないと思え(27)。これからはそのかやしをするから、みな一れつは承知していよ(28)。世界中はどこにいる者も、月親神がしっかりとすべてを見ている(29)。どのようなことを言っても、何を思っても、月日親神の知らぬことは何もない(30)。この先はどのようなことをするにも、月日親神が先に知らせてことわっておく(32)。きょうの日はどのようなことも時が迫って詰んできているので、親神の残念を晴らすので、それが現れてくるのを見守ってくれ(33)、とかんろだい一条の道を予告されています。
■(101)きょうのおふでさき 《十七号31~48》
それをばななにもしらさるこ共にな
とりはらハれたこのさねんわな 十七号38
前回この箇所を次のように解説しました。
ない人間、ない世界を創められた元の場所・ぢばについて誰も知らないだろう(34)。それを世界中へ教えたいからその場所にかんろだいを建てて世界中をたすけようとされたのである(37)。ところがそんなことをつゆ知らない子供にかんろだいを取り払われてしまった。その残念な思いは相当なものであって、どれほどの「かやし」があるや知れない(39)。月日がどんなかやしをするか知れたものではない(41)。神の残念は「えらいことやで」(42)と言われています。これまではどのような道も通り抜けてきたが、その刻限が詰んできた。これまでおつとめ勤修の完成を目指してきた正月二十六日、すなわち明治二十年正月二十六日のその日が迫ってきている。明治十五年に執筆されているので、その日までまだ五年もあるように思われるが、神の目にはその刻限が差し迫っているのである(46)。そういう状況であるので真実の心を現して「すぐにかやす」(47)のである。それは子を思う親の「かわいあまりて」言っていることなのである(48)。
かんろだい一条の道がいよいよはじまります。今まではこの世創めた人間の元なるぢばはだれも知らなかった(34)。このたびはこの真実を世界中へしっかりと教えてたい(35)。それ故、かんろだいをはじめたのは、その場所が人間創造の元の場所であるから(37)。ところがそんなことを何も知らない子どもに、かんろだいを取り払われてしまった。その残念な思いは(38)、しっかりと聞け、この先はどのようはかやしがあるか、知れない(39)。月日親神の残念な思いはちょっとことではない(40)。また残念な思いも一寸のことではなく、月日親神はどんなことをするかわからないぞ(41)。この話何と思うか、みなの者、親神の残念はたいへんなことである(42)
今まではどのような道もだんだんと通り抜けて来たのだが(43)、もう少しの刻限が来ていないので、じっとしていたのだ(44)。しかしきょうの日はもう充分に日が詰んでいるから、刻限到来となればすぐにかやす(45)。この日はいつのことと思っているか、正月二十六日が来たことなら(46)、それからは何でもかでも真実を心をすべて現せて掃除をする(47)。こんなかやしのことをなぜ言うのか、それは月日親神が人間が可愛いあまりに言うのである(48)。
これは、おさしづで「長い間の処にてどんな事もだん/\仕込もうと思えど、そこまで行かなんだ。そこで一つ道を変えた」(24・1・23)とか、「百十五才まで寿命定めた。なれどどうもならん/\から、年限を縮めて治まった(26・12・16)などと言われた所以です。おやさまはかねてより「百十五歳になったら盃をしてかくれる」と仰ってたのに、二十五年の寿命を縮めて姿を隠され、存命のまま守護されることとなったのである。しかしおふでさきに誌されている親神の思惑(世界たすけ・救済計画)にはなんの変更もありません。
■(102)きょうのおふでさき 《十七号49~63》
月日よりせかいぢうをばはたらけば
このをさめかたたれもしろまい 十六号63
前回、この箇所を次のように解説しました。
世界中の胸の掃除をして、子供可愛い上から「めずらしいたすけ」をしたいと思っている(52)。そのたすけは「悪きを直す」(52)にとどまらず、「病まず死なず弱ることのない」不老長寿のめずらしいたすけである。こんなたすけはこれまでどこにもないもので、おつとめによってたすかるその証拠にもなるのである(54)。
おやさまは立教以来ながの年月をかけて、世界だすけの計画を実行されてきました。おつとめを教えて来られた。それによって世界中の心をすませていこうとされました。元治元年つとめ場所の普請にはじまって、おつとめの地歌であるみかぐらうたの歌と手振り、節回しも手取り足取り教えられました。明治6年には飯降伊蔵に命じて雛型かんろうだいを作成され、かねてからおやさまの実兄である前川杏助におつとめで使用する面を発注されていたが、明治7年にそれを迎え取りに直接出向かれ、翌8年人間世界をはじめかけられた元の場所・ぢばを証して着々とおつとめ勤修への準備を整えられました。そして明治10年には鳴物の人衆を直接手引きされて集められ、明治13年に三曲を含む鳴物をそろえてよふきづとめがつとめられています。
そしてそのぢばにかんろだいを据えるべく、石普請がはじまって計画通りに準備が進められていた。ところが、予期せぬ事件が発生して石工の逃亡で頓挫する。さらに明治15年に二段目まで出来ていたかんろだいの石が取り払われ、没収されてしまいます。それを「このみちハどふゆう事にをもうかな 月日ざんねんいちじよの事」(57)と誌され、さらに「かんろふ大が一のざんねん」(58)であって、「どんなかやしをするやら」(59)と言われています。これによっておやさまが急き込まれていたたすけの計画が変更を余儀なくされたのです。そしてこれを指して「模様替え」と称されます。(詳細は『稿本天理教教祖伝』100ページ)
おさしづではそれを「一つ道を変えた」(24・1・23)と言われたことに繋がるのでしょうか。そしてその意味するところはおつとめの地歌の変更よりおやさまが現身を隠されたことともかかわるのか断定はできないが、おたすけの段取り・計画変更を意味することは間違いないでしょう。
前回は、いわゆる「模様替え」について「おたすけの段取り・計画変更を意味することは間違いない」と誌しましたが、本稿では、「おふでさきに誌されている親神の思惑(世界たすけ・救済計画)にはなんの変更もありません」と綴りました。その辺りの深層を解きほぐしていきましょう。
月日親神は世界中の子どもにとにかく可愛いばかりと思っている(49)。だからそれ故に世界中をどこまでも胸の掃除をしたい(50)。その掃除はどういうことかと言えば、たすけたい、陽気ぐらしをさせたいと思っているのである(51)。たすけでもその場その時に困っていること・悪きを直すに留まらない「めづらしたすけ」を思っているのだ(52)。このたすけは、病まず、死なず、弱りのないように暮らすことができる守護を与えてやろうと思っている(53)。こんなことは今までどこ尋ねてもどこにもないたすけで、このたび親神がその証拠を知らそうとされているのである(55)。
きょうまではどのような道であるか、だれも知らなかったが、これから先はその道、めずらしい世界たすけの道を知らせる(56)。この道は月日親神の残念一条のことである(57)。この残念は何のことか、かんろだいが第一の残念である(58)。この残念は一寸のことではないから、親神はどんなかやしをするか知れないぞ(59)。どのようなことが現れてきても恨みに思うな。それはみなそれぞれ銘々に行ったことが種となって芽吹いてきたものであるのだ(60)。この先はどこまでも、高山でも谷底にも親神が出かけて働くのである(61)。これからは世界中でだんだんと順を追って胸の掃除の働きをすると思え(62)。この掃除はみなはどう思っているのか、親神の心を知るものはだれもいないだろう(63)、と記しておふでさきで知らせること、説かれること(「何か委細を説いて聞かせる」(一号3)はこれでを終えられ、その後に、おさしづを含めて刻限などで、先にその点をだんだん示されるだろうと予告されているようにも見えます。
■(103)きょうのおふでさき 《十七号61~75》
いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
これからさきハさとりばかりや 十七号71
この箇所を前回次のように書きました。
月日が残念な思いを抱いていてもこれまでは見許していた(64)。しかしきょうは日が十分に詰んできたので、かやしをせずにはいられない(65)。神の残念な思いが積もり重なっている(67)それでも月日にとって世界中の子供はみな「わが子」であって可愛いいっぱいに思っている(68)が、一れつハめいめいに自分のほこりばかりを思案している(69)。それに対する神の胸の内の思いは口に出して言えないほどである(70)、と諭されて、これからは、いままでのようなことはもう言わない。これから先は悟りばかりや、と仰せになられました。これまでに説き聞かすこと(たすけの計画)はすべて説いて聞かせてきた。この上は「これから先は悟りばかり」である。これまでに聞かせた神の話を思案して、それに従って神の思いを悟ってくれ(71)と言われています。
そして、「さと/\たをと/\びよさま/\」と、暗号・符牒のようは言葉で語られています。『おふでさき註釈』によると、「里」はおやさまの生家前川家、「田音」は秀司先生の庶子・田村の村田家に養子にいった音次郎、「平様」はまつゑ様の生家・平等寺村の小東家を指す。これら三家はいずれも「神一条の道に遅れるならば、たとい親戚の者でも十分守護する訳に行かぬ、とお戒めになった」と記されています。74で「この話が合図立て合いでたならば、何についてもこの通りになる、つまり神の話は、何についても、その話通りに実現するのであることを人々に納得させてようとされたのでしょう。そして十七号おふでさきの最後に「これをばな一れつ心思案するよう、頼む」と結ばれているのです。
なお、おさしづの最後で、本席の家族について「三軒三棟」を建てるように指示されたのと、おふでさきのこの最後の言葉は、信仰と親族の治め方を対照的に示されていて、興味深いところではあります
前回解説したお歌に、
このたすけどふゆう事にをもうかな やますしなすによハりなきよに 十七号53
こんな事いまゝでどこにない事や このしよこふをしらしたさやで 十七号54
これまてハどこたつねてもない事や このたび神がはじめたさやで 十七号55
とありました。「こんな事いまゝでどこにない事や」(54)「これまでどこたつねてもない事」とあるのは、人間の生死の問題がなくなること、つまり「出直なき世界」に言及されたものと思われます。この点、見落としていましたので、追記しておきます。
さて、きょうのおふでさきに戻ります。
月日親神にはどんな残念に思うことがあっても、いままではじっと見許していた(64)。しかし、きょうは日も充分に詰んできたので、かやしをせずにはいられない(65)。このかやしは親神の残念ばかりである(66)。この残念は一寸ことではなく、これまで積もり重なった上のことである(67)。自然、社会、個人などいろいろな上に現されるが、親神にとっては世界中はみな可愛いわが子、可愛い一杯思っている(68)が、それを知らずに一れつ人間はほこりばかりを思案しているのである(69)。この親神の残念を思ってくれ。どうも何とも言うに言われんではないか(70)。
その上で、今までのようなことは言わない。これから先は悟りばかりである(71)。この先は何を言うやら知れない。どうぞしっかり思案をして悟ってもらいたい(72)。
おふでさきの執筆を終えられて後に、おやさまはいろいろお話されたようですが、これは記録されてないようです。おさしづで「今の話は皆今までの言い残りやで」(20・3・19)と語られていることからもうかがえると思います。
さあ/\多く/\のその中に、今の道ほど偉い道、今の道ほど堅い道は無い。さあさあ今の話は皆今までの言い残りやで 。今まではこの結構なる道を、まこと結構と思うて聞く者が無い。今までというは聞いたる者もあり、その場限りの者もあり、聞かぬ者もあり、そこで日が延びたのやで。世界では、どうやろうかこうやろうか、ぶっ潰れるであろうか、いや、そうではあろまいか。これではどうもならん、あれではどうもならん。もうやめようか、もう一つ行こうか、さあどうもならん。さあどうしよう。これ皆銘々の心からやでな。
(【明治二十年三月十九日(陰暦二月二十五日)午前五時】刻限御話)
そして、「さと/\たをと/\びよさま/\」(74)の話が続いて、「これをばな一れつ心思案頼むで」(75)とおふでさき十七号を締めくくられています。
■きょうの自炊本
☆きょうの誕生日の花と花言葉(NHKラジオ深夜便) は「 ホオズキ(実)」「自然美」です。