7月1日(水)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(15)
■「きょうのおふでさき」 第十五号のまとめ (7月1日) 2026/07/01
■おふでさきの区切り《省略》
▼第十五号・(88)~(90)
《1~17、18~33、34~47、48~56、57~71、72~90 (6)》
■(88)きょうのおふでさき 《十四号1~17》
あすからハをやがはたらきするほとに
どんなものでもそむきでけまい 十五号10
前回、この箇所を次のように解説しました。
おやさまはこの年(明治13年)旧暦八月に三曲を含む鳴物をいれて、陽気づとめが勤修されて、あとはかんろだいの設置が待たれるそんな時期に執筆された内容です。
「このたびハたすけ一ちょにかゝるのも わがみのためしかゝりたるうゑ」(三号44)に仰せの通り、とにかくおやさまの言われることは親神様の思召であると布教伝道に携わるものが承知をして(5)、その話(身上・事情の話)を実際に試してみて、真実であることを自らの体験によって証(ためし・実験)す。その上でたすけ一条の確固たる心を定めよ(6)、切ないこともをやが踏ん張るから何も案じる必要がない(8)。そしてきょうのおうたに繋がります。をやが働きをするのでどんな者でも背きできないだろう(10)といわれて、さらに四十三年以前(立教の元一日)から今日まで導いてこられたことを確認し、「心次第にみなたすける」(16)「踏ん張りきりて働きをする」(17)と力強く宣言されています
きょうまではどのようなことも、じっくり語ることはないまま過ごして来たが(1)、もうきょうは何でもかでも口に出して言うから、親神のこれまで抱えてきた残念な思いに向けてくれ(2)。きょうまではおやさまが何を言ってもそこには人間の心があるとみなが思っていた(3)が、さあ、今はおやさまの心には人間心が混じっているとは決して思ってはならない(4)。どのようなことを言っても、親神のことばとして承知してもらいたい(5)と、これは布教伝道に携わる者に語られているのでしょう。
このたびはどんな試しもするから、この試しによって心にしっかりと定めよ(6)。この話は誰のことでとも言わない。みな銘々の心定めである(7)。その試しがどれほど切ないことであっても、親神が踏ん張るから承知していよ(8)。これからは親神の言われることをしっかりと承知をしてくれ、何も案ずることはない(9)。
明日からは親神が働きをするほどに、どんな者でもそれに背きはできないだろう(10)。今までもそれは四十三年以前からおやさまをやしろに親神がこの世の表に現れて始めかけた道である(11)。きょうまでは幾たびも残念な思いを抱いていたが、じっとしていた(12)が、さあきょうは月日親神の腹がはじけたので、控えておれなくなった(13) 。
いままでは村方だと思ってじっくりと治まっていたのであるが(14)、このたびはどのような心でいる者も、見定めをつけてすぐに働く(15)。これほどの残念が積もっているのであるが、心次第にすべての者はたすけるのである(16)。親神がどれほど残念が積もってあっても、踏ん張って働きをする、胸の掃除をするのである(17)。
今日、「十全の守護」と「八つのほこり」の教理は独立したものとして語られますが、この場面のように、試しによって親神の話(たとえば、十全の守護)をわが身で実証することを言われているように思います。この文脈からたとえば十全の守護の話、親神の働きをわが身の試しとつなげて語られていると理解すれば、守護の説き分けの意義をそこに見いだせるのではないでしょうか。
■ (89)きょうのおふでさき 《十五号18~33》
このたびハなんでもかでもこれをはな
もとのとふりにしてかやすでな 十五号25
前回この箇所を次のように解説しました。
試しによって心定めをするということを、ここまで話題にされてきましたが、それは「をやの残念みなあらわす」(18)ということでありました。「さあけふは」(19)は、いままでだれも知らなかった「人の心の真実」を胸の掃除によって「たしかあらわす」(20)と言われます。そうすれば胸の掃除が「ひとりできる」(21)のです。
「けふから」はどのような話をしかけても、承知せよ(22)。これまで親神の思惑をする(23)。どのような思惑か。「四十三年以前から」(天保九年以前から)(24)かけてある秀司先生の足の身上に印をつけて「悩めてきた」ものです。
きょうの一首は、それを「元の通りにしてかやす」(25)と言われています。立教以来、親神が試しをかけておられた事柄であるから、決して背くことがないように(26)、「をやの頼み」(27)である。そしてそれが世界たすけるおつとめ勤修への試金石となることまで知っている者は世界には「さらにない」(32)が、「をやの目には」、親神の今後の今後の展開が「しっかり見えてある」(33)と言われています。
きょうの日は何を言うやら知れない。親神の残念をみなあらわす(18)と告げられ、今までは人の心の真実を知っている者はいなかったが、さあきょうはどんな者も真実の胸の内を確かに現すようにする。これを現したら胸の掃除がひとりでにできるようになるのである(21)。
きょうからどのような話をしかけても、何を言っても承知してくれるように(22)。だんだんと語るが何を言うやら知れないが、どんなことでも思惑を実現するための話である(23)。
今までは四十三年以前から、秀司先生の足に印をつけて悩ませているが、これが心配であった(24)。このたびはその足の身上を何でも彼でも元の通りにして返すのである(25)。この話何を月日親神が言ったとしても背かぬようにしてもらいたい(26)。これからの親神の頼みはこればかりで、他のことは何も言わない(27)。この問題は何を頼むのかと思うだろうが、それはおつとめ(一条)のことばかりである(28)。このおつとめは、「これがこの世の初まり」であってこれさえ実現したなら、叶ったならば親神の世界だすけが一段と進捗するのである(29) 。
さあきょうは親神の言うこと何事もそばの心は背かぬようせよ(30)。そばなる者の心が親神のそれと違えば是非がない、かやしをせざるを得なくなるので、そこでくどくどと言っておくのである(31)。きょうの日は、どのようなことも世界には知っている者はさらにない(32)。しかし親神の目にはしっかりと見えてあるが、どんなことであるか誰も知らないであろう(33)
■(90)きょうのおふでさき 《十五号34~47》
このみちハうちもせかいもへたてない
せかいちううのむねのそふぢや 十五号47
この箇所を前回次のように短くまとめて記述してますので、それを再掲しておきます。
この道の信仰は証拠信心の道であると言われます。36にあるように、「何もかもどのようなことも言っておいて、それからをやが働きをする」のです。言った話の内容は、「神の話」でしょう。まずおやさまを通して神の話を聞かせて、すなわち教えておいて、その話の通りに「をやが働きをする」のです。人間は聞いた神様の話とその通りに現れてくる神様の働きをみて、真実の神の話であり、真実の神であると実感し、納得するに至るのです。証拠をもって信仰を促されており、この道の信仰が証拠信心であると言われる所以です。
神の働きは「世界中はをやの体」(37)といわれるように世界中にあふれています。それを見ることが信仰の始まりであり、そのためにはおつとめをしっかりつとめること、そして神の話、すなわち教理を学び身につけてそれを通して世界での神の働きが見えるようにする。そうすれば身に感じられるようになるのです、
ところがそれが実際には、人々にそのおやさまの話がなかなか「わかる」までに至っていないので、残念に思われており、そこで「このたびみなしてみせる」(38)と言われました。そしてその具体例として「四十三年以前からのゑらい試しがかけてある」との話をあげられます。それは、秀司先生の足の悩みがおつとめによってたすけるという神の話の試しであって、それを実現すればその話が証拠となって、話を実証することになるのです。おやさまの話が真実であることを明かすことになるのです。それによって世界中のだれもが神の話を信じられるようになるのです。それが「世界中の胸の掃除」(47)の意味なのです。おやさまが目指されるこの道は「内も世界も隔てなく」「胸の掃除」なのです(47)。
親神が語られている内容を噛み砕いて読み取ってみましょう。
この世界をはじめてから今まで、その道中は誰も知らないことばかりである(34)。そこでそれを教えたいから、これまでだんだんといろいろな働きを示そうとしているのである(35)。その原則は、どのようなこともまず話を聞かせておいて、その上でその話の通りに親神が働かれるのである(36)この働きも親神の働きがどのようなものであるかも知らないだろう。ひとことで言えば、世界中は親神の身体であると言えよう(37)。そこで親神の残念な思いを知らせようと、このたびどのようなこともして見せるのである(38)。どのようなことを親神がなされるかは知れないであろうが、みな一れつはそれが試しであることを承知していよ。
このたび親神の残念を口説くこの話を、みな一れつはどのように考えているのか(40)、と言われて、立教以来、四十三年前から親神が秀司先生の足の身上を通してかけられている試しについて諭されます(41)。この試しをしっかりと承知をしたならば、どのようなことも叶わないことはないのである(42)。その試しは世界中をたすけたいから試されているのであるから、「えらいためし」大変重要なことなのである(43)。
きょうまではどのような道も通り抜けて、じっとしていたが(44)、もうきょうはどのようなことでも「真実をしてかかる」、真実が実現するように親神が働かれるから、承知していよ(45)。今までと道がころっと変わるので、みな一れつは心を定めてもらいたい(46)。この道は、内も世界も隔てなく胸の掃除をしていくことになる(47)。その時にこの試し(秀司先生の足の身上をおつとめによって直すという試し)が重要になる。これを見たらだれでも親神の話が信じられるようになるのである、と諭されるのです。
■(91)きょうのおふでさき 《十五号48~56
このはなし四十三ねんいせんから
ゑらいためしがこれが一ちよ 十五号50
前回、この箇所を次のように解説しました。
前の箇所で言われていた「四十三年以前から」の「えらいためし」、秀司先生の足の悩みをおつとめによって元の通りに「してみせる」と説明された件が再度取りあげられました。
「このためし」は「つとめ一条」を急く模様(51)であり、「鳴物入れて」(52)おやさま仰せ通りの人衆を揃えてつとめてもらいたいこと、そして「これ止めたら」(53)このおつとめがつとめられないように邪魔立てをしたりすると「わが身が止まる」(53)、息が止まる? 自分の命をなくしてしまうとまで言われています。
そして54~56で、おつとめについての説明が追加されています。すなわちこのおつとめは「この世をはじめた」その(人間創造の)働きと同等のものであるから、「よろづたすけのつとめ」と言われるようにどのようなたすけも「みな請け合う」(55)おつとめである、「しかっかり承知を」せねばならない。それを止めたら神の働き(56)も退くと言われています。
この世を初めてから今日まで、本真実を言ったことはない(48)。きょうの日はその本真実を言いかけるから、どうぞしっかり承知してくれ(49)。この話は四十三年以前、すなわち天保9年の立教の折から大変重い試しがかけられていた。この試しというのは、秀司先生の足の悩みをおつとめによって直すという「えらい試し」である(50)。この試しはおつとめの準備をしていく上でたいへん重要な意義が込められており、その試しによっておつとめによるめずらしいたすけを進めていく段取りを促進する重要な手順なのです(51)。
このおつとめはどういうものか、鳴物を入れてつとめること、その人衆を揃えて、その準備を早く進めてもらいたい(52)との仰せです。このおつとめはどんな者でも思案せよ。これを止めたならわが身もとまってしまうぞ(53)とまで言われます。
このおつとめをつとめることは、この世人間を初めかけたのと同等である(54)。おつとめは、無い人間無い世界を初めかけた創造と同等であるから、どんなたすけもすべて請け合うものである(55)。このことはしっかりと承知してもらわねばなりません。これを止めたら親神の働きもすっかり止まってしまうぞ、と言われてます。この話の前半では秀司先生の足の身上をおつとめで直す試しの意義を説かれて、親神の話を信じられるようにされましたが、後半でその先にそのおつとめによって、よろづたすけを実行していくという大目標を掲げて、おつとめそのものの意義が説かれています。
こうしてこの号が執筆された明治十三年陰暦八月には、鳴物を入れての本づとめがつとめられ、一応おつとめが一通り教えられ、おつとめ完成への道を弥進まれることになります。
■(92)きょうのおふでさき 《十五号57~71》
をやのめにかのふたものハにち/\に
だん/\心いさむばかりや 十五号66
この箇所を前回次のように解説しました。
ここでは高山と谷底の話に触れられています。今までは高山が谷底をままにしていた(58)が、この先は谷底に多くのようき(用木・親神の手足となって働く用材)が出現し、その用木にこの世をはじめた「をや」が入り込んで働くので、何も案じることはない、すべて「をやの請け合い」(62)であるから心を定めてはやくかかるようにと述べられています(63)。
これからはそれぞれの「しんの心」をそのままにあらわすから、承知せよ(65)。「をやの目に適う者」は心が勇み、「をや目に残念な者」は夢見たように散る者と、はっきりさせる。すなわち心が勇む者と無残に散り去る者との結果を見せる。親神にとっては「世界中は皆わが子」であって、すべてかわいい子供である(68)から、「どこに隔てはない」(70)のであって、親神の心と合い違えば「是非はなく」「だんだん手入れをする」から高山も谷底の者もしっかり心を定めよ(71)と説かれています。
今までは高山に暮らす人々は居丈高に自由にして来た(57)が、これからはどれ程高い山の者でも、谷底に暮らす人々を牛耳って思うようにはできないだろう(58)。この先は、谷底にくらす人々のなかにも多くの用木が育って来ている(59)。その用木には、この世をはじめた親神がみな入り込んで働く(60)。この世を創めた親神が入り込めば、どのようなことをするやら知れないだろう(61)。しかしどのようなことをしても心配する必要はないのである。どのようなことも万般、親神が請け合うのであるから(62)。このことを早く心にしっかりと定めをつけて、用木に仕込む道を、早くにかかれと促されました(63)。
きょうまではこの道はどのような道か誰も知っている者はなかった(64)が、もうきょうは芯の心をだんだんとみな現すから承知していよ(65)。
親神の目に適った者は、日々にだんだん心が勇むばかりである(66)。逆に親神の目に残念と写った者は、何時に夢見たように散ってしまうかもしれないぞ(67)。この話はどこの話でもない、世界中はすべて親神の子どもである(68) 。親神にとって、一れつの子どもは可愛いばかりの者であって、どこに隔てはさらさらないのである(69)。しっかり聞いてもらいたい。心が間違っておれば是非がない。そこでだんだんと手入れをするのである(70)。このことは高山も谷底の者も、油断ないように心を定めよ(71)。
■(93)きょうのおふでさき 《十五号72~90
なに事をたのんだとてもたれにても
きゝわけがないをやのさんねん 十五号76
この箇所を次のように解説しました。。
明治十三年、鳴物をいれてのおつとめがなされる時期が迫っており、74で「はや/\とつとめせゑねばならん事」と急き込まれ、立教からここまでの歩みを振り返って、この試しがいまだ実現していないことに言及されています。そして「頼みかけてある」(75)が、「聞き分けがない」(76)「背きなきよう」(78)などと言われて、「今まではどんな話をしても」「何を言ってもにをいばなり」(79)と嘆かれています。
「にをいはかり」については、花と匂いのたとえ話です。それについてはおさしづに次のようにあります。
「花の色匂いを取る心が世界では分からんで。匂い取り兼ねる/\。人間心の色はどうもならん。…言えば言う程言う者は言う通りに成る。腹立てんよう。さあさあ日々皆々その花の心に成るで。」(21・7・17)
このおさしづを受け取って、これを悟った人のひとことがおさしづ本文の後に、「世界広い道になれば、皆々花の匂で寄り来るなれど、匂取る事分からん故に腹を立てるのであります」と誌されています。人は花の匂いで寄ってくるが匂いをとるだけではまったく不十分で「花の心」がわかるようにならいといけないのです。
なお、秀司先生はじめ周囲の方々はとにかく官憲の取り締まりや迫害攻撃からおやさまの身を守ることに一所懸命で、金剛山地福寺配下で転輪王講社結成したのもそのためでした。しかしそれはおやさまの思いに適わず開筵式は執行されるも、四十三年以前からの秀司先生の足の悩みを「元の通りにするおつとめ(ちんばのつとめ)がつとめられるその途中でご自身がお止めになったと言われており、実現しませんでした。「ちんばのつとめ」は実現しませんでした。後に明治16年雨乞いづとめはなされたので、十一通りの特殊含意のおつめのためしは実現したことになります。
また「みよだいなりとすぐにしりぞく」(88)については、『おふでさき註釈』に「秀司先生の名代として音次郎氏を迎い取るという御予言である、と思われていた」と誌されていますが、これは「親の罪が子に報いるのは理不尽である」と言ったので秀司先生本人が出直しになったと伝えられます。
『おふでさき通訳』にある背景事情に注目して書いたものです。それはそのまま置いておいて文脈を確認しながら詳述したい思います。
さあ頼むと話を切り出されて、早く鳴物を寄せてその稽古をせよ(72)と言われます。おつとめ勤修を「さあ頼む」と仰せになっておられるのです。前回も書きましたが、明治十三年の鳴物いれてのおつとめがなされる時間が迫っているからです。おつとめについてもおやさまが教えることはほとんど教えられました。あとはそれがつとめられるよう導くことを急き込まれているのです。
これまではどんなことでもじっくりと働きを納めてきたが(73)、もうきょうは早々とそれを実施に移さねばならない。おつとめ勤修が喫緊の課題になっているのです(74)これまでは親神が人々に何事を頼んでも、聞き分け(聞いて分ける、わからせる)がなかった。それが親神の残念である(76)。このたびの残念口説きのこの話、どうぞしっかりと聞き分けてもらいたい(77)と言われます。
ここ(78)から改めておつとめ急き込みの話が展開されます。親神の話がどのようなことであってもそれに背くことはないように(78)。今までは何を言っても「にをい」だけでその働きは目に見えるところまで至らなかった(79)。しかしきょうの日の話はもうその時期が来ているので、働きがすぐに目に見えてくるであろう(80)。
この話は四十三年以前(天保九年)からの親神の胸にたまっている残念を今晴らそうとしているのである(81)。それを知らずにおやさまの周りの者(うちなる者)は、何もかもが世界並のように思い込んでいる(82)。
このたびの「つとめ一条」を止めるなら「名代」なりとこの道は四十三年以前から(立教以来)まこと難渋な道を通って来た(83)。それを誰も知らなくても、このたびはその残念な思いをすべて晴らす(84)。どのようにして晴らすか言えば、「つとめ一条」ですべてを現すのである(85)。このおつとめについては、親神がどのようなことを言っても、どんなことでも背くことのないようにせよ(86)。こればかりくれぐれも頼みおく、後で後悔なきように(87)、と忠告さたのです。 すぐに退く(88)と言われました。「名代」については「おふでさき註釈』によって前回解説した通りです。この話、側の者は何と思っているか、もう一息も待っておれないのである(89)その上から早々と鳴物なりとも出しかけてくれ。おつとめ勤修を急き込んでいるのだから(90)と、この号のテーマに念を押され、第十五号を締めくくられています。
■きょうの自炊本
☆きょうの誕生日の花と花言葉(NHKラジオ深夜便) は「 ハンゲショウ」「内に秘めた情熱」です。