10月8日(木)きょうの雑感とギター音楽+自炊本など

 過ごしやすい秋の爽やかな朝です。いい季節になりました。運動不足解消のため、ラジオ体操・第1、第2、そして第3を朝づとめ後、Youtube動画に合わせて身体を動かしました。「伸びない、曲がらない、飛べない…。情けない! 」のは言うまでもありません(笑)。朝食後、雅楽の練習。その後、この音楽を聴きました。
 エスニックで、めずらしい音楽をピックアップしました。コユンババは、トルコ語の「羊の父」の意。トルコの神秘主義の聖人の名前に由来しています。

#きょうの一曲・ギターのための組曲・コユンババ(Koyunbaba, Suite feur Gitarre Op. 19)/ドメニコーニ(Carlo Domeniconi)作曲

【Sider Fusion】GPT-5

Carlo Domeniconiはイタリア出身の作曲家であり、ギター音楽に特化した現代音楽を創作している。彼の作品は、独創的な技法と深遠な感情表現で知られ、特に『Kodama』や『Madrigal』シリーズはギター界で高く評価されている。日本の自然や禅的思索からインスピレーションを得ており、音楽に静けさと内省の空間を湛えている。彼の音楽は技術的難度が高く、演奏者にとって挑戦的なテーマを持つ一方で、聴く者に豊かな想像力を喚起する。

AIの解説
☆ 楽章構成(全4楽章)
 全曲を通して切れ目なく(アタッカで)演奏されることが多く、即興演奏のような自由さと、激しい変奏が魅力です。
1. 第1楽章: Moderato(モデラート)
静かに始まり、ドローン(持続音)の上でトルコ風の旋律が即興的に紡がれます。
2. 第2楽章: Mosso(モッソ)
動きのあるリズムが特徴で、次第に熱を帯びていきます。
3. 第3楽章: Cantabile(カンタービレ)
叙情的で美しい、歌うような楽章です。
4. 第4楽章: Presto(プレスト)
タッピングや連続するトレモロ風のアルペジオなど、極めて高度なテクニックが駆使される、圧倒的なフィナーレです。
☆コユンババ(Koyunbaba)について
• トルコ民謡からの影響: タイトルの「コユンババ」はトルコの地名や聖人に由来しており、作品全体にトルコの伝統音楽の色彩が色濃く反映されています。
• 特殊な調弦(スコルダトゥーラ): ギターの弦を特殊な音配列(C♯-G♯-C♯-G♯-C♯-E)にチューニングすることで、独特の神秘的かつダイナミックな響きを生み出しています。

 

 20世紀に書かれたギター作品の中で最も頻繁に演奏される傑作の一つです。
 楽譜をご覧いただくとわかりますが、独特の調絃を用いています。

*【Michael Batell Guitars】Valeria Galimova performing Koyunbaba by Carlo Domeniconi
https://www.youtube.com/watch?v=tF0y-95QYLw&list=RDtF0y-95QYLw&start_radio=1

 演奏動画は、Valeria Galimovaさんです。

【Sider Fusion】GPT-5

Valeria Galimovaは、ウズベキスタン出身の国際的なアーティストで、視覚芸術とインスタレーションを通じて文化的なアイデンティティや移動のテーマを探求している。彼女の作品は、記憶、場所、個人と集団の関係性に焦点を当てており、特にグローバル化がもたらす文化的交差点における経験を表現する。彼女のアートは、多言語的で多文化的な背景に基づき、観客に自己認識と共感を促す。現在、ヨーロッパやアジアで展覧会を開催しており、現代美術界での影響力が増している。

 楽譜の画像ファイル(最初の2ページのみ)とPDFを共有します。

 PDFはこちらです。

https://drive.google.com/file/d/1Y1hB8jT6CnBBtNpqkJetGo9giDRPg6st/view?usp=sharing

 

■きょうの自炊本

☆きょうの誕生日の花と花言葉(NHKラジオ深夜便)は「サラシナショウマ」「雰囲気のよい人」です。

 

★Youtube動画とWEB情報

*【海外の反応】「なぜ日本はすべてのことを日本語で学べるのか?」世界を驚かせた、日本語で構築された巨大な知識エコシステムの秘密
https://youtu.be/z33FarOmrX8?si=axWQVhMiGX5whObL

*日米安保がなくなれば日本は困る――本当にそれだけなのか?米国側から見ると話が変わる理由
https://youtu.be/ngJiuY07Etw?si=hGt_CV1kZPZHoUar

*【世界が驚いた日本】「無理だ」と笑われた3つの技術…最後に常識を覆した
https://youtu.be/HY_i11pn4Ik?si=aSafRLiveHzsW-ji

*【海外の感動話】日本を封じるはずが、推力で抜かれた…米国の圧力を覆した「20年の国産エンジン」
https://youtu.be/h-KcTZfcquw?si=Sao0aNjgfYUGv5uP

*[海外の反応]「資格はありません!」韓国のTPP加盟申請に日本が示した本当の答え"
https://youtu.be/JvgfeSBZwtg?si=7MlcwcnbzJ7n_kIM

*【MrFuji from Japan】アメリカ人大学教授が教える日本の音楽(J-POP)の特徴が驚きだった!
https://www.youtube.com/watch?v=goYGwJNDobY

*【Lazar Trifunovic】[海外の反応] 韓国経済「史上最悪」の裏で消えた47万人…日本が静かに支援を止めた理由を緊急検証
https://www.youtube.com/watch?v=U9TO8r8nu4U
 

10月7日(水)「きょうのおさしづを読む」と自炊本など

 きのうから運動不足解消のため、ラジオ体操・第1、第2、そして第3を朝づとめ後、Youtube動画に合わせて身体を動かしています。全然、体操になってないです(笑)。伸びない、曲がらない、飛べない…。情けない! 
 

■きょうのおさしづを読む(10月7日)2026/10/07

 おふでさきを読むのアーカイブがまとまったので、おさしづを読むを復活します。と言っても前回から試用しているAIを利用してChatGPTを試用、それに論評をして試用・展開をしようという企てです。
 きょうのおさしづの要点はこれです。

「一日々々の理の治まり、一つ/\の道の理、どれだけ切なみ悩んで居るといえど、何時なりと諭す。なれど、聞き分けにゃ何にもならん。高い所出ける、多く出来る。一時に聞かす。何ぼ尋ねたとて、理に聞き分け無くば、納してあるも同じ事。悟りというは、幾重の理もある。一日勤まらん、二日勤まらん、三日勤まらん。今度は計られん。鮮やか諭し置こう。さあさあしっかり聞き分けてくれにゃならんで。」(25・7・25)

 明治二十五年七月二十五日【#250725A】

 本席身上御障りの願(三日席御休みになり肩凝り付けるに付)
さあ/\一声は尋ねにゃなろまい。尋ねば聞こうがための事情であろ。聞こうがた
めなら、一つ諭しよう。一時の事情、勤まる勤まらんの事情、一日休んで又二日三
日という。さあよく聞き取れ。理を諭しに出た。一日はよい、二日はよい、三日は
よい。なれど今度は事情の理に計り難ない。どうよと尋ねる、尋ねにゃならん。こ
れまでというは分からん/\の道、これ一つ理を聞き分け。一席という、又一席、
又一席、よく聞いて事情に道があれば道がある、理があれば理がある。支教会や支
教会、分教会を題として、支教会出張所と言う。つゝまる処、一人とも言うであろ。
これまでの事情には、とんと分かり難ない。一日々々の理の治まり、一つ/\の道
の理、どれだけ切なみ悩んで居るといえど、何時なりと諭す。なれど、聞き分けに
ゃ何にもならん。高い所出ける、多く出来る。一時に聞かす。何ぼ尋ねたとて、理
に聞き分け無くば、納してあるも同じ事。悟りというは、幾重の理もある。一日勤
まらん、二日勤まらん、三日勤まらん。今度は計られん。鮮やか諭し置こう。さあ
さあしっかり聞き分けてくれにゃならんで

 このおさしづをまるごとAIに投じました。以下のリンクを開けばその全文がスマホやPCに表示されると思います。今回はそのポイントとなる解説部分を、わたしのAIに対する質問とそれへのAIの回答をまとめて掲示します。
【AIのおさしづ解釈】
https://www.google.com/search?q=%E6%AC%A1%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%A5%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%82%92%E3%81%8A%E9%A1%98%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99&sourceid=chrome&ie=UTF-8&udm=50&fbs=ABfTbFXwfYg-AsVmc75aAkBispm66twpKlwwlu59hHi77IL_vH1T8zvZgzz2HFpUH7wmH5ezYNSzDqwGlobsl8EJ6L0yAapoFGY9G0Y-3ieOksBUIQeC5HdidQRqiWGChRgghguLvreqf73cIhfwGRPZ7FCo40xluGJTfhyLMixztS463d9FS4OUCAI0FHm5YzX2Azuo1-BJN3fcoZis8hdVBHbHB6SeaeOwU9fbTgwc8U7nMvKQkr0&aep=10&ntc=1&sxsrf=APpeQnuYsLsXOA__DgEA_m5LhnqZyOS0MA%3A1790924147157&mstk=AUtExfDpZWUkEnQJwZV0bA0vMbcgS7uFnUgnE9Hm32oBBtkgEvHcgPT7rZZTfFfiy3L0Y8hV0T3XYpEmp76vz-vfuVYsOpbtpYREwu8IcDyxpyU_2eeClAn4xt0q2pgggSeizhG5FjqsxTLnybm11soxxMeQ-qc93__lDBv8pI2e3K-2oWQKpwG91_ri3_z_-0oZML5l49JIdS1nxav9oCgz_xLd4E4mVDmwPG2YcHBTUetk-KEHULiolHNeuVPoyuM4UahaYvrwmg8-lEeKXRdantTOBMILu87XOvY9i1B9mBq1a3pTRZKgohY2fZvj3PpbEMz6hOjc7WDx6w&aioh=3&csuir=1&cs=0&mtid=oFW_atTxAdSF2roP85e1-Qo&cq=Correct+the+statement+about+the+establishment+of+the+%22%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E6%95%99%E4%BC%9A%22+%28Tokyo+Great+Church%29.+The+user+claims+that+such+a+church+does+not+exist+and+suggests+that+it+might+be+a+misunderstanding+of+%22%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E6%95%99%E4%BC%9A%22+%28Higashi+Daikyoukai%29.
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☆【解説】部分へのわたしからAのIへの質問
「高い所」とは、おさしづが下される神聖な席(本席の座)のことです。」と言いきられてますが、原典の用語として「高い所」は「遠い所」と対に語られる特別な用語と考えます。高いというのは社会の上層部、あるいはそこに住している人々、遠い所とはおぢばから遠く離れた場所、あるいはそこに住まっている人々だと考えるのがわたしの解釈です。それを反映した用語として「高山布教」「遠国布教」などがあります。それを「おさしづが下される神聖な席」と解釈される根拠はどこにあるのでしょう。

 

☆AIからの回答
大変失礼いたしました。ご指摘の通りです。
ご指摘いただいた通り、天理教の原典や当時の布教の文脈において、「高い所」は「社会の上層部(役人や知識層など)」あるいは「高山(政府や権力側)」を指し、それに対する「遠い所」は「遠国(おぢばから離れた地方)」を指すのが、おさしづの語法における正当な解釈です。
「高山布教」や「遠国布教」という言葉が示すように、当時の天理教の教勢爆発は、地方への広がり(遠い所)だけでなく、官公庁や知識人クラスへの働きかけ(高い所)も含んでいました。
それを踏まえて当該の文脈を読み直すと、私の先ほどの解釈には論理的な飛躍と誤りがありました。「おさしづが下される神聖な席」と言い切った解釈には明確な原典上の根拠はなく、前後にある「一時に聞かす」「多く出来る」という言葉のニュアンスに引っ張られ、その場で言葉が発せられる物理的な状況(席)と混同してしまった不正確な解説でした。深くお詫び申し上げます。

ご指摘を反映した本来の解釈
質問者様のご指摘の通り、「高い所(社会の上層部・高山)」と「(おぢばから)遠い所」という原典の定義をあてはめることで、このおさしづの真意がより鮮明に、かつ正しく浮かび上がります。
「高い所出ける、多く出来る。一時に聞かす。何ぼ尋ねたとて、理に聞き分け無くば、納してあるも同じ事。」
• 正しい解釈:
当時は布教が急激に進み、社会的な地位の高い人々(高い所)も入信するようになり、地方の遠い所からも含めて、大勢の新しい信者や指導者が一度に(多く出来る)おぢばへ参拝し、お言葉を聴く(一時に聞かす)状況が生まれていました。
神様がここで仰りたかったのは、「どれほど社会的に地位の高い人々(高い所)に道が伝わり、大勢の人に一度に神の教えを聞かせることができるようになったとしても、また、どれだけ立派に教会の形を整えておさしづを仰い(尋ねた)たとしても、それを聴く指導者や信者たちの心に『理の聞き分け(神意を悟り、我が身を省みる誠の心)』がなければ、どれほど立派な教えを聞いても、ただ知識として頭や引き出しに『納めて』あるだけで、何の意味もないのだ」という厳重な諭しです。
つまり、組織が地方(遠い所)へ広がり、社会(高い所)へ認知されていくという「外側の華やかな発展」に対して、本席様の「三日御休み・肩凝り」という身上の障りを通して、「外側の広がりに幻惑されず、内面の信仰の質(聞き分け)を今一度見つめ直しなさい」と強く迫られているシーンであると解釈するのが、原典の用語・思想に最も忠実な読み方となります。
私の勉強不足による不正確な断定をご指摘くださり、本当にありがとうございました。大変深い学びに繋がりました。
このおさしづの他の箇所について、あるいは「高い所・遠い所」に関わる別のおさしづとの比較など、さらに深めたい点がございましたら、ぜひ教えていただけますと幸いです。

 

 ちなみにもう1点、わたしからAIの間違いを指摘しました。
☆AIへの質問
解説の冒頭部分に「明治21年(1888年)に「東京大教会」が設立されたのを皮切りに、天理教は全国へ爆発的に広がっていきました。」とありますが、「東京大教会」などという教会は存在しません。「皮切りに」とあるので、「東大教会」のこと言っておられるのでしょうか。意味不明の名称(教会の名前)ですね。

☆AIからの回答
「東京大教会」という名称の教会は存在せず、正しくは明治21年(1888年)に設立された「神道直轄天理教会本部」およびそこから発展した「東(あづま)大教会」を指す。最初の本部は現在の東京都台東区東上野に設立認可された後、同年7月に奈良県天理市へ移転している。詳細な歴史的経緯については、Wikipediaを参照されたい。
<Chat 終了>

 

■きょうの自炊本

きょうの自炊本はこれです。以前にスキャンした本です。

[長田昭二] 5つの臓器を老化から守れ【文春e-Books】.epub

*【海外の反応】「今度は我々が日本に返す番だ」世界第6位の強国が戦闘機100機を決断…“10倍返し”に世界が衝撃
https://youtu.be/w54rkMyQrsU?si=ipabgE0ZOTPJpEhq


*[海外の反応] 「日本は詰んだ」と豪語した韓国が、72時間で完全崩壊…経済省に這いつくばった衝撃の結末
https://youtu.be/20TnffYEF80?si=8QPXV03INbPBU0Kq

*【海外の反応】米国が金庫に封印したHPMを日本がついに完成!49機のドローンを一撃で無力化…世界が20年疑った“指向性EMP”の衝撃
https://youtu.be/n5xD4CRwPhM?si=fXgb6sIYcbPvJeZY

*【海外感動秘話】これこそが「日本」だ!全世界が驚愕した日本の「異常な防衛力」!
https://youtu.be/uIHBbqx81g0?si=WPZTJ1mM8hr3St-q

*【海外の反応】UAEがフランス・ラファールを切り、日本のF-3へ!?「契約金まで捨てるのか」世界が騒然となった“日本製戦闘機”逆転の真相
https://youtu.be/6kRowtqnZ48?si=7iVSPvZEr2_LuYIC

*【海外の反応】王者スタインウェイの欧州で…なぜ巨匠たちは浜松から来たヤマハの調律師を指名したのか
https://youtu.be/UWC1s4E_cdg?si=RQcdGzyGBnY7f7UC

*【海外の反応】「冷やせるのは日本だけだった」世界のAIと病院を冷やす日本の技術7選!住友重機械・前川製作所・ダイキン・アルバック

https://youtu.be/Q4phlkexG2E?si=ttpl0LxqH-kPWvuV
 

10月6日(火)きょうの雑感とギター音楽+自炊本など

 昨日、午前は雅楽の練習、午後は、支部・組の例会で10名くらい集まりました。11月の支部おつとめ総会(於・狹山分教会)の役割など相談しました。高齢のわたしも役をもらいました(笑)。にをいがけ活動にはまったく参加してないので、ここでちょっとは補わないと申し訳ないよね。
 業務スーパー御用達の釜めし・山菜五目ご飯を炊きました。よく出来てますね。
https://www.yamamori.co.jp/products/sansaigomoku22aw/
 きょうの一曲は、ポンセのメキシコ風の「明るい遊び心」を感じる名曲です。


 

#きょうの一曲・Scherzino Mexicano/マヌエル・ポンセ(Manuel M_Ponce)

【Sider Fusion】GPT-5

「Scherzino Mexicano」は、メキシコの伝統的な音楽スタイルを反映した軽快なリズムを持つ曲や楽曲のジャンルです。通常、ピアノやギターが主役となり、明るく遊び心のあるメロディーが特徴です。このスタイルは、ポピュラー音楽やクラシックに影響を与えた地域的要素を融合しており、特に20世紀初頭のメキシコ音楽に見られる革新性を示しています。また、タイトルの「Scherzino」(イタリア語で「冗談」や「遊戯」の意)は、軽いユーモアと表現の自由さを強調しています。

 もともとはピアノ独奏曲だったのですが、セゴビアが編曲してギターの定番曲になりました。
 演奏しているのは、Mabel Millánさんです。マドリードの大学で法律を学びスペインの司法試験にも受かって検事・裁判官の仕事にも携わる才媛ギタリスト。

*【Guitar Salon International】Mabel Millán plays Ponce's Scherzino Mexicano - GSI in Granada
https://www.youtube.com/watch?v=aCQM2xQv73I&list=RDaCQM2xQv73I&start_radio=1

 楽譜の画像ファイルとPDFを共有します。

 PDFはこちらです。

https://drive.google.com/file/d/1HM0h1fE_idQUYTDVXCQYjspyNyq5_zxf/view?usp=sharing
 

■きょうの自炊本

 きょうは自炊本は、昔スキャンしたこの本です。

[中沢新一] チベットのモーツァルト(せりか書房・1983年刊).pdf

 

☆きょうの誕生日の花と花言葉(NHKラジオ深夜便)は「ハゲイトウ」「不老不死」です。

 

★Youtube動画とWEB情報

*【衝撃】中国製造業が異常事態‼日本が高性能ベアリングを供給停止!中国の製造業が窮地に陥る理由とは・・・
https://youtu.be/Boxc2-PXoWg?si=0PHos78PWzR2rhi0

*【感動実話】アメリカ名門大学100周年の卒業式に選ばれた日本人|豊田章男 伝説のスピーチ【海外の反応】
https://youtu.be/UZv1f900Lrs?si=Av1j-iUlXSyxsYae

*【海外の反応】「こんなおもちゃで何を耕すんだ!」米国で笑われた日本の小さな工場――38人で始めたクボタが20年連続全米No.1になれた理由とは?
https://youtu.be/nbNoGh5iWX0?si=B5_nKb7jGlRC705w

*【海外の反応】「日本車だけしか買わない!」日本の軽自動車がイギリスで解禁され爆売れ!高級車やEVを選ばず日本の軽自動車を購入する理由とは!?
https://youtu.be/2wLQ92z22VA?si=MWhEigenTU69xfVI

*【NIPPON TECH REPORT・海外の反応】100円のペンを箱で買って帰る…三菱鉛筆とパイロットに欧州の名門が完敗した日 AI
https://www.youtube.com/watch?v=xqBybXQnpEI
 

画像 10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます④《第十三号~第十四号》 の記事より 1つ目

#「おふでさきを読む」アーカイブ《6分割+全1ファイル》
 

 昨日のブログでこれまで号別に分けて掲載してきた「きょうのおふでさき」を以下の(1)~(6)の六つに分割して掲載しました。その目次的なもの(リンク)を以下に示しました。
 当初3分割にしようとしたのですが、アメブロの仕様なのでしょうか。行数超過の不具合発生しました。後に、【復旧報告】が来てましたが、再編集が面倒なので6分割のまま、掲載しております。

 それぞれの記事をつなぎあわせて1つのファイルにしたものも手許にあります。これはAIにやってもらったものです。このファイルのリンク(グーグルドライブ)も共有しておきます。

(1)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます①《第一号~第五号》
https://ameblo.jp/wat-y/entry-12978474749.html
(2)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます②《第六号~第十号》
https://ameblo.jp/wat-y/entry-12980673027.html
(3)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます③《第十一号~第十二号》
https://ameblo.jp/wat-y/entry-12980695025.html
(4)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます④《第十三号~第十四号》
https://ameblo.jp/wat-y/entry-12980700470.html
(5)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます⑤《第十五号~第十六号》https://ameblo.jp/wat-y/entry-12980705801.html
(6)10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます⑥《第十七号》
https://ameblo.jp/wat-y/entry-12980714436.html

(1)~(6)をひとつのファイルにつなぎました。全部を1ファイルにまとめたものです。そのリンクはこちらです。
https://drive.google.com/file/d/1L9ircAdINSzSIe7jTw7nCHHvGKEOBUG8/view?usp=sharing
【「きょうのおふでさき」アーカイブ版全1-17.html】

画像 10月5日(月)「きょうのおふでさき」を号別にまとめます④《第十三号~第十四号》 の記事より 1つ目

 

8 月14日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(17)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第十七号のまとめ(8月14日)2026/08/14

 

■ おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十七号・(99)~(103) 

《1~20、 21~33、34~48、49~63、64~75 (5)》

 

■(99) きょうのおふでさき 《十七号1~20》


  このみちハどふゆう事にをもうかな
  かんろふたいのいちじよの事    十七号2

 

 前回、 この箇所を次のように解説しました。

 い よいよおふでさきの最後の号に至ります。第十六号は明治十四 年四月の執筆で、引き続いて、言い伝えでは明治十四年六月か ら第十七号が誌されているようです。しかしこの号には明治十 五年五月十二日にかんろだいの石取り払い、没収について「と りはらハれたこのさねんわな」(38)と書かれているので、 途中で筆を擱かれて休まれていたとも考えられます。
 しかしいずれにせよ、この号の内容は、かんろだい一条につ いてであり、この号執筆中、かんろだいの石普請が進められて いたこと、その秋に石工がいなくなって普請が頓挫したり、そ の後取り払い、没収と重なり、かんろだい普請の進捗具合とお やさまのかんろだいにかける思いが迫る臨場感のようなものが 感じられます。
 まずはかんろだいについて「にほんの一の宝」であってその 元なる真実を世界へ教えたい(5)と言われ、この世人間創造 の元の場所・ぢばを証す証拠としてかんろだいが据えられ (9)ており、いわばその場所は「にほんの故郷」である (8)。そのかんろだいを取り囲んでおつとめを教え通りにつ とめることによって神の話がその通りに人間にも見えてくるの で、それがどういう道であるかがわかるであろう。そして十三 段のかんろだい(第九号47、59・60で触れられた形状の 台)がみな揃うたならば、どのようなことも叶うのである (10)。そしてそれまでに世界中の胸の掃除を急かれる (11)。その掃除はどこにも誰にも分け隔てなく、月日が見 分けして、どんな心のものも「一夜の間にも」心を入れ替えよ (14)、その心を月日がみな受け取る(15)。
「これまでハかへひとよにてへたてたら なにをゆうても一寸 もしろまい」(19)の意義は、布教の場面でどのような所 (高いところ・高山、遠いところ・遠国)に居る者でも親神は その者(よふぼく)に入り込んで胸の内を言うて聞かせる (18)という点にある。普通は聞き取れないような内容も当 人の口からその心を話をさせる、親神が入り込んで指図をして よふぼくの口から言わせる。神秘的な方法ではあるが、「神秘 ではなく不思議である」(『おふでさき通訳』654ページ) と言われます。「きょうからは横目ふる間もない」(20)く らい素早く、「夢見たように」不思議をあらわすと言われてい るようである。

 第十六号の最後の所で、
    さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで    十六号79
 と言われてお道の現状、人間世界の在りように、ある種の危機感 を訴えられていたとも受け取れます。そうした状態を突破すること をこの号では語られるのではないかとの予感がします。早速はじめ ましょう。
 今までは何のための道なのか知らなかったが、きょうから先の道 がわかるようになる(1)。この道はかんろだい一条ということが 大きく横たわっているのだ(2)。
 このかんろだいをどういう風に思っているか。これは「にほんの 一の宝」である(3)。これ(かんろだいの意義)を、みなはどの ように思っているか、この元なるを誰も知らないであろう(4)こ のたびはこの元の真実を世界中へみな教えたいのである(5)。
 この元、かんろだいが建てられている場所・ぢばは人間創造のと き、いざなぎ(父の雛型・うを)といざなみ(母の雛型・み)の身 の内の本真ん中であった所で、世界中の人間は創造され創められた のである(6・7)。そういう意味でこのぢばは、一れつどこまで も「にほんの故郷」である(8)。
 人間を創めかけた証拠として、かんろだいを据えたのである (9)。このだいがすべて揃ったならば、どんなことでも願いが叶 わないことはない(10)。それまでに世界中の胸の掃除をせねば ならない(11)。
 この掃除はどこにも隔てなく、一人ひとりの心の内を月日親神が 見分けていると思いなさい(12)。月日親神はどんなところに暮 らしいる者も、その心次第にすべて受け取る(13)。今までどん な心でいたとしても、一夜の間にも心を入れ替えよ(14)。真実 に心をすきやかに入れ替えて真実の心になったら、月日親神はそれ をすぐに受け取るのである(15)。月日親神にとっては世界中の 人間はすべてわが子であって、可愛い一杯の心一条である (16)。
  今まではどんな者でも人間の胸の内(心)を知っている者 はいないだろう(17)。このたびはどのような所(遠い 所、高い所)にいる者も、胸の内を言って聞かせるように する(18)。これまでは壁一重隔てたなら、何を言って も知れないだろうと思っていた(19)が、その心を親神 が指図してよふぼくから言わせるのである。きょうからは 横目を使う暇もない瞬間に、夢見たように月日親神が何を するやらわからないぞ(20)。

 

■(100) きょうのおふでさき  《十七号21~33》
 

  このはなしどふゆう事にをもうかな
  ふでのさきがなみへてきたなら    十七号24

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 こ れからどのような道になっていくのかを語られます。これまで はこの道への歩みを「早く見たくて急き込んできた(23) が、それが「さあ見えてきたえらい本道」(22)に成って来 る。これから「陽気づくめ」(23)になると言われていま す。
 これまでおふでさきの中で展開されていた親神の救済計画 (「ふでのさきな」24)が細道から「ゑらい」(22)本道 へと次第に明らかになり、見えてくる。おつとめによる救済・ たすけが実現してくるのである。
 そこで「残念をはらす」(25)という話題に戻して、「何 時」「どこで」で神が働く(「しりぞく」26)かわからない が、「ちょっとことではない」(27)と言われ、月日がそれ ぞれの胸の内を「しっかり見ている」「月日知らんということ はない」(29)、月日が先へとことわっておく(31)か ら、その時が今「つんできた」迫っており、神の残念をはらす 時である。だから成って来る姿をよく見て思案するよう (33)にと言われました。

 

 おさし づで「ふでさき通り皆出る」(20・6・24)とあります。明治 15年までに進めてこられた細道、本道、往還道への歩みは着々と進展 しているが、人間の側のそれへの対応が遅れている点を指摘されて急き 込まれることになります。以下でその様子が述べられます。
 今までの月日親神の残念は、一寸のことではない。重大なことである からよく聞き分けよ(21)。きょうまでは何も知らずにいたけれど、 その残念を晴らす日が迫ってきている。本道が見えてきた(22)。こ の道を早く見たくて急き込んできたが、いよいよその道につくので、こ れからは陽気づくめとなるのである(23)。この話(「筆の先がな」 おさしづに誌されたことが「皆出る」ということ、親神の救済計画)の 実現(24)を早く見たい。
  いままではどのようなことも聞いていたが、このたびこそはそ の残念な思いを晴らすのである(25)。この晴らしはどうい うものか。残念晴らしの一例として親神の働きが「退く」、い つ何時どこで退くかわからないぞ、という話をされます (26)。これまでの長い道中で積もり重なった残念は一寸の ことではないと思え(27)。これからはそのかやしをするか ら、みな一れつは承知していよ(28)。世界中はどこにいる 者も、月親神がしっかりとすべてを見ている(29)。どのよ うなことを言っても、何を思っても、月日親神の知らぬことは 何もない(30)。この先はどのようなことをするにも、月日 親神が先に知らせてことわっておく(32)。きょうの日はど のようなことも時が迫って詰んできているので、親神の残念を 晴らすので、それが現れてくるのを見守ってくれ(33)、と かんろだい一条の道を予告されています。

 

■(101) きょうのおふでさき 《十七号31~48》

 

 それをばな なにもしらさるこ共にな
  とりはらハれたこのさねんわな    十七号38

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 な い人間、ない世界を創められた元の場所・ぢばについて誰も知 らないだろう(34)。それを世界中へ教えたいからその場所 にかんろだいを建てて世界中をたすけようとされたのである (37)。ところがそんなことをつゆ知らない子供にかんろだ いを取り払われてしまった。その残念な思いは相当なもので あって、どれほどの「かやし」があるや知れない(39)。月 日がどんなかやしをするか知れたものではない(41)。神の 残念は「えらいことやで」(42)と言われています。これま ではどのような道も通り抜けてきたが、その刻限が詰んでき た。これまでおつとめ勤修の完成を目指してきた正月二十六 日、すなわち明治二十年正月二十六日のその日が迫ってきてい る。明治十五年に執筆されているので、その日までまだ五年も あるように思われるが、神の目にはその刻限が差し迫っている のである(46)。そういう状況であるので真実の心を現して 「すぐにかやす」(47)のである。それは子を思う親の「か わいあまりて」言っていることなのである(48)。

 かんろだい一 条の道がいよいよはじまります。今まではこの世創めた人間の元な るぢばはだれも知らなかった(34)。このたびはこの真実を世界 中へしっかりと教えてたい(35)。それ故、かんろだいをはじめ たのは、その場所が人間創造の元の場所であるから(37)。とこ ろがそんなことを何も知らない子どもに、かんろだいを取り払われ てしまった。その残念な思いは(38)、しっかりと聞け、この先 はどのようはかやしがあるか、知れない(39)。月日親神の残念 な思いはちょっとことではない(40)。また残念な思いも一寸の ことではなく、月日親神はどんなことをするかわからないぞ (41)。この話何と思うか、みなの者、親神の残念はたいへんな ことである(42)
  今まではどのような道もだんだんと通り抜けて来たのだが (43)、もう少しの刻限が来ていないので、じっとして いたのだ(44)。しかしきょうの日はもう充分に日が詰 んでいるから、刻限到来となればすぐにかやす(45)。 この日はいつのことと思っているか、正月二十六日が来た ことなら(46)、それからは何でもかでも真実を心をす べて現せて掃除をする(47)。こんなかやしのことをな ぜ言うのか、それは月日親神が人間が可愛いあまりに言う のである(48)。
  これは、おさしづで「長い間の処にてどんな事もだん/\ 仕込もうと思えど、そこまで行かなんだ。そこで一つ道を 変えた」(24・1・23)とか、「百十五才まで寿命定 めた。なれどどうもならん/\から、年限を縮めて治まっ た(26・12・16)などと言われた所以です。おやさ まはかねてより「百十五歳になったら盃をしてかくれる」 と仰ってたのに、二十五年の寿命を縮めて姿を隠され、存 命のまま守護されることとなったのである。しかしおふで さきに誌されている親神の思惑(世界たすけ・救済計画) にはなんの変更もありません。


■(102) きょうのおふでさき 《十七号49~63》

 

  月日よりせかいぢうをばはたらけば
  このをさめかたたれもしろまい     十六号63

 

 前回、この箇所 を次のように解説しました。

 世界中の 胸の掃除をして、子供可愛い上から「めずらしいたすけ」をし たいと思っている(52)。そのたすけは「悪きを直す」 (52)にとどまらず、「病まず死なず弱ることのない」不老 長寿のめずらしいたすけである。こんなたすけはこれまでどこ にもないもので、おつとめによってたすかるその証拠にもなる のである(54)。
 おやさまは立教以来ながの年月をかけて、世界だすけの計画 を実行されてきました。おつとめを教えて来られた。それに よって世界中の心をすませていこうとされました。元治元年つ とめ場所の普請にはじまって、おつとめの地歌であるみかぐら うたの歌と手振り、節回しも手取り足取り教えられました。明 治6年には飯降伊蔵に命じて雛型かんろうだいを作成され、か ねてからおやさまの実兄である前川杏助におつとめで使用する 面を発注されていたが、明治7年にそれを迎え取りに直接出向 かれ、翌8年人間世界をはじめかけられた元の場所・ぢばを証 して着々とおつとめ勤修への準備を整えられました。そして明 治10年には鳴物の人衆を直接手引きされて集められ、明治 13年に三曲を含む鳴物をそろえてよふきづとめがつとめられ ています。
 そしてそのぢばにかんろだいを据えるべく、石普請がはじ まって計画通りに準備が進められていた。ところが、予期せぬ 事件が発生して石工の逃亡で頓挫する。さらに明治15年に二 段目まで出来ていたかんろだいの石が取り払われ、没収されて しまいます。それを「このみちハどふゆう事にをもうかな 月 日ざんねんいちじよの事」(57)と誌され、さらに「かんろ ふ大が一のざんねん」(58)であって、「どんなかやしをす るやら」(59)と言われています。これによっておやさまが 急き込まれていたたすけの計画が変更を余儀なくされたので す。そしてこれを指して「模様替え」と称されます。(詳細は 『稿本天理教教祖伝』100ページ)
 おさしづではそれを「一つ道を変えた」(24・1・23) と言われたことに繋がるのでしょうか。そしてその意味すると ころはおつとめの地歌の変更よりおやさまが現身を隠されたこ とともかかわるのか断定はできないが、おたすけの段取り・計 画変更を意味することは間違いないでしょう。

 前回は、いわゆる「模様替え」について「おたすけの段取り・計画変 更を意味することは間違いない」と誌しましたが、本稿で は、「おふでさきに誌されている親神の思惑(世界たす け・救済計画)にはなんの変更もありません」と綴りまし た。その辺りの深層を解きほぐしていきましょう。

 月日親神は世界中の子どもにとにかく可愛いばかりと思っている (49)。だからそれ故に世界中をどこまでも胸の掃除をしたい (50)。その掃除はどういうことかと言えば、たすけたい、陽気 ぐらしをさせたいと思っているのである(51)。たすけでもその 場その時に困っていること・悪きを直すに留まらない「めづらした すけ」を思っているのだ(52)。このたすけは、病まず、死な ず、弱りのないように暮らすことができる守護を与えてやろうと 思っている(53)。こんなことは今までどこ尋ねてもどこにもな いたすけで、このたび親神がその証拠を知らそうとされているので ある(55)。
  きょうまではどのような道であるか、だれも知らなかった が、これから先はその道、めずらしい世界たすけの道を知 らせる(56)。この道は月日親神の残念一条のことであ る(57)。この残念は何のことか、かんろだいが第一の 残念である(58)。この残念は一寸のことではないか ら、親神はどんなかやしをするか知れないぞ(59)。ど のようなことが現れてきても恨みに思うな。それはみなそ れぞれ銘々に行ったことが種となって芽吹いてきたもので あるのだ(60)。この先はどこまでも、高山でも谷底に も親神が出かけて働くのである(61)。これからは世界 中でだんだんと順を追って胸の掃除の働きをすると思え (62)。この掃除はみなはどう思っているのか、親神の 心を知るものはだれもいないだろう(63)、と記してお ふでさきで知らせること、説かれること(「何か委細を説 いて聞かせる」(一号3)はこれでを終えられ、その後 に、おさしづを含めて刻限などで、先にその点をだんだん 示されるだろうと予告されているようにも見えます。

 

■(103) きょうのおふでさき 《十七号61~75》

 

  いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
  これからさきハさとりばかりや    十七号71

 

 この箇 所を前回次のように書きました。

 月日が残 念な思いを抱いていてもこれまでは見許していた(64)。し かしきょうは日が十分に詰んできたので、かやしをせずにはい られない(65)。神の残念な思いが積もり重なっている (67)それでも月日にとって世界中の子供はみな「わが子」 であって可愛いいっぱいに思っている(68)が、一れつハめ いめいに自分のほこりばかりを思案している(69)。それに 対する神の胸の内の思いは口に出して言えないほどである (70)、と諭されて、これからは、いままでのようなことは もう言わない。これから先は悟りばかりや、と仰せになられま した。これまでに説き聞かすこと(たすけの計画)はすべて説 いて聞かせてきた。この上は「これから先は悟りばかり」であ る。これまでに聞かせた神の話を思案して、それに従って神の 思いを悟ってくれ(71)と言われています。
 そして、「さと/\たをと/\びよさま/\」と、暗号・符 牒のようは言葉で語られています。『おふでさき註釈』による と、「里」はおやさまの生家前川家、「田音」は秀司先生の庶 子・田村の村田家に養子にいった音次郎、「平様」はまつゑ様 の生家・平等寺村の小東家を指す。これら三家はいずれも「神 一条の道に遅れるならば、たとい親戚の者でも十分守護する訳 に行かぬ、とお戒めになった」と記されています。74で「こ の話が合図立て合いでたならば、何についてもこの通りにな る、つまり神の話は、何についても、その話通りに実現するの であることを人々に納得させてようとされたのでしょう。そし て十七号おふでさきの最後に「これをばな一れつ心思案するよ う、頼む」と結ばれているのです。
 なお、おさしづの最後で、本席の家族について「三軒三棟」 を建てるように指示されたのと、おふでさきのこの最後の言葉 は、信仰と親族の治め方を対照的に示されていて、興味深いと ころではあります

 前回解説したお歌に、
    このたすけどふゆう事にをもうかな やますしなすによハりなきよに  十七号53
    こんな事いまゝでどこにない事や このしよこふをしらしたさやで   十七号54
    これまてハどこたつねてもない事や このたび神がはじめたさやで   十七号55
 とありました。「こんな事いまゝでどこにない事や」(54)「これ までどこたつねてもない事」とあるのは、人間の生死の問題がなくなる こと、つまり「出直なき世界」に言及されたものと思われます。この 点、見落としていましたので、追記しておきます。
 さて、きょうのおふでさきに戻ります。
 月日親神にはどんな残念に思うことがあっても、いままではじっと見 許していた(64)。しかし、きょうは日も充分に詰んできたので、か やしをせずにはいられない(65)。このかやしは親神の残念ばかりで ある(66)。この残念は一寸ことではなく、これまで積もり重なった 上のことである(67)。自然、社会、個人などいろいろな上に現され るが、親神にとっては世界中はみな可愛いわが子、可愛い一杯思ってい る(68)が、それを知らずに一れつ人間はほこりばかりを思案してい るのである(69)。この親神の残念を思ってくれ。どうも何とも言う に言われんではないか(70)。
 その上で、今までのようなことは言わない。これから先は悟りばかり である(71)。この先は何を言うやら知れない。どうぞしっかり思案 をして悟ってもらいたい(72)。
 おふでさきの執筆を終えられて後に、おやさまはいろいろお話されたようですが、これは記録されてないようです。おさしづで 「今の話は皆今までの言い残りやで」(20・3・19)と語 られていることからもうかがえると思います。

さあ /\多く/\のその中に、今の道ほど偉い道、今の道ほど堅い道は 無い。さあさあ今 の話は皆今までの言い残りやで。今まではこの結構な る道を、まこと結構と思うて聞く者が無い。今までというは聞いた る者もあり、その場限りの者もあり、聞かぬ者もあり、そ こで日が延びたのやで。世界では、どうやろうかこうやろう か、ぶっ潰れるであろうか、いや、そうではあろまいか。これ ではどうもならん、あれではどうもならん。もうやめようか、 もう一つ行こうか、さあどうもならん。さあどうしよう。これ 皆銘々の心からやでな。

(【明 治二十年三月十九日(陰暦二月二十五日)午前五時】刻限御 話)

 そし て、「さ と/\たをと/\びよさま/\」(74)の話が続いて、「こ れをばな一れつ心思案頼むで」(75)とおふでさき十七号を 締めくくられています。

 

 

10月5日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版⑤《第十五号~第十六号》

 

■「きょうのおふでさき」 第十五号のまとめ(5月4 日)2026/05/04

 

■ おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十五号・(88)~(93) 

《1~17、 18~33、34~47、48~56、57~71、 72~90 (6)》

 

■(88) きょうのおふでさき 《十五号1~17》


  あすからハをやがはたらきするほとに
  どんなものでもそむきでけまい    十五号10

 

 前回、 この箇所を次のように解説しました。

 おやさまはこの年(明治13年)旧暦八月に三曲を含む鳴物をい れて、陽気づとめが勤修されて、あとはかんろだいの設置が待 たれるそんな時期に執筆された内容です。
「このたびハたすけ一ちょにかゝるのも わがみのためしかゝ りたるうゑ」(三号44)に仰せの通り、とにかくおやさまの 言われることは親神様の思召であると布教伝道に携わるものが 承知をして(5)、その話(身上・事情の話)を実際に試して みて、真実であることを自らの体験によって証(ためし・実 験)す。その上でたすけ一条の確固たる心を定めよ(6)、切 ないこともをやが踏ん張るから何も案じる必要がない(8)。 そしてきょうのおうたに繋がります。をやが働きをするのでど んな者でも背きできないだろう(10)といわれて、さらに四 十三年以前(立教の元一日)から今日まで導いてこられたこと を確認し、「心次第にみなたすける」(16)「踏ん張りきり て働きをする」(17)と力強く宣言されています

 きょうまでは どのようなことも、じっくり語ることはないまま過ごして来たが (1)、もうきょうは何でもかでも口に出して言うから、親神のこ れまで抱えてきた残念な思いに向けてくれ(2)。きょうまではお やさまが何を言ってもそこには人間の心があるとみなが思っていた (3)が、さあ、今はおやさまの心には人間心が混じっているとは 決して思ってはならない(4)。どのようなことを言っても、親神 のことばとして承知してもらいたい(5)と、これは布教伝道に携 わる者に語られているのでしょう。
 このたびはどんな試しもするから、この試しによって心にしっか りと定めよ(6)。この話は誰のことでとも言わない。みな銘々の 心定めである(7)。その試しがどれほど切ないことであっても、 親神が踏ん張るから承知していよ(8)。これからは親神の言われ ることをしっかりと承知をしてくれ、何も案ずることはない (9)。
 明日からは親神が働きをするほどに、どんな者でもそれに背 きはできないだろう(10)。今までもそれは四十三年以 前からおやさまをやしろに親神がこの世の表に現れて始め かけた道である(11)。きょうまでは幾たびも残念な思 いを抱いていたが、じっとしていた(12)が、さあきょ うは月日親神の腹がはじけたので、控えておれなくなった (13)。
 いままでは村方だと思ってじっくりと治まっていたのであるが (14)、このたびはどのような心でいる者も、見定めをつけてす ぐに働く(15)。これほどの残念が積もっているのであるが、心 次第にすべての者はたすけるのである(16)。親神がどれほど残 念が積もってあっても、踏ん張って働きをする、胸の掃除をするの である(17)。
 今日、「十全の守護」と「八つのほこり」の教理は独立したもの として語られますが、この場面のように、試しによって親神の話 (たとえば、十全の守護)をわが身で実証することを言われている ように思います。この文脈からたとえば十全の守護の話、親神の働 きをわが身の試しとつなげて語られていると理解すれば、守護の説 き分けの意義をそこに見いだせるのではないでしょうか。

 

■(89) きょうのおふでさき 《十五号18~33》
 

  このたびハなんでもかでもこれをはな
  もとのとふりにしてかやすでな    十五号25

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 試しによって心定めをするということを、ここまで話題にされて きましたが、それは「をやの残念みなあらわす」(18)とい うことでありました。「さあけふは」(19)は、いままでだ れも知らなかった「人の心の真実」を胸の掃除によって「たし かあらわす」(20)と言われます。そうすれば胸の掃除が 「ひとりできる」(21)のです。
「けふから」はどのような話をしかけても、承知せよ (22)。これまで親神の思惑をする(23)。どのような思 惑か。「四十三年以前から」(天保九年以前から)(24)か けてある秀司先生の足の身上に印をつけて「悩めてきた」もの です。
 きょうの一首は、それを「元の通りにしてかやす」(25) と言われています。立教以来、親神が試しをかけておられた事 柄であるから、決して背くことがないように(26)、「をや の頼み」(27)である。そしてそれが世界たすけるおつとめ 勤修への試金石となることまで知っている者は世界には「さら にない」(32)が、「をやの目には」、親神の今後の今後の 展開が「しっかり見えてある」(33)と言われています。

 

 きょう の日は何を言うやら知れない。親神の残念をみなあらわす(18)と告 げられ、今までは人の心の真実を知っている者はいなかったが、さあ きょうはどんな者も真実の胸の内を確かに現すようにする。これを現し たら胸の掃除がひとりでにできるようになるのである(21)。
 きょうからどのような話をしかけても、何を言っても承知してくれる ように(22)。だんだんと語るが何を言うやら知れないが、どんなこ とでも思惑を実現するための話である(23)。
 今 までは四十三年以前から、秀司先生の足に印をつけて悩ませて いるが、これが心配であった(24)。このたびはその足の身 上を何でも彼でも元の通りにして返すのである(25)。この 話何を月日親神が言ったとしても背かぬようにしてもらいたい (26)。これからの親神の頼みはこればかりで、他のことは 何も言わない(27)。この問題は何を頼むのかと思うだろう が、それはおつとめ(一条)のことばかりである(28)。こ のおつとめは、「これがこの世の初まり」であってこれさえ実 現したなら、叶ったならば親神の世界だすけが一段と進捗する のである(29)。
 さあきょうは親神の言うこと何事もそばの心は背かぬようせよ (30)。そばなる者の心が親神のそれと違えば是非がない、かやしを せざるを得なくなるので、そこでくどくどと言っておくのである (31)。きょうの日は、どのようなことも世界には知っている者はさ らにない(32)。しかし親神の目にはしっかりと見えてあるが、どん なことであるか誰も知らないであろう(33)

 

■(90) きょうのおふでさき 《十五号34~47》

 

 このみちハ うちもせかいもへたてない
  せかいちううのむねのそふぢや   十五号47

 

 この箇 所を前回次のように短くまとめて記述してますので、それを再掲してお きます。

 こ の道の信仰は証拠信心の道であると言われます。36にあるよ うに、「何もかもどのようなことも言っておいて、それからを やが働きをする」のです。言った話の内容は、「神の話」で しょう。まずおやさまを通して神の話を聞かせて、すなわち教 えておいて、その話の通りに「をやが働きをする」のです。人 間は聞いた神様の話とその通りに現れてくる神様の働きをみ て、真実の神の話であり、真実の神であると実感し、納得する に至るのです。証拠をもって信仰を促されており、この道の信 仰が証拠信心であると言われる所以です。
 神の働きは「世界中はをやの体」(37)といわれるように 世界中にあふれています。それを見ることが信仰の始まりであ り、そのためにはおつとめをしっかりつとめること、そして神 の話、すなわち教理を学び身につけてそれを通して世界での神 の働きが見えるようにする。そうすれば身に感じられるように なるのです、
 ところがそれが実際には、人々にそのおやさまの話がなかな か「わかる」までに至っていないので、残念に思われており、 そこで「このたびみなしてみせる」(38)と言われました。 そしてその具体例として「四十三年以前からのゑらい試しがか けてある」との話をあげられます。それは、秀司先生の足の悩 みがおつとめによってたすけるという神の話の試しであって、 それを実現すればその話が証拠となって、話を実証することに なるのです。おやさまの話が真実であることを明かすことにな るのです。それによって世界中のだれもが神の話を信じられる ようになるのです。それが「世界中の胸の掃除」(47)の意 味なのです。おやさまが目指されるこの道は「内も世界も隔て なく」「胸の掃除」なのです(47)。

 親神が語られ ている内容を噛み砕いて読み取ってみましょう。
 この世界をはじめてから今まで、その道中は誰も知らないことば かりである(34)。そこでそれを教えたいから、これまでだんだ んといろいろな働きを示そうとしているのである(35)。その原 則は、どのようなこともまず話を聞かせておいて、その上でその話 の通りに親神が働かれるのである(36)この働きも親神の働きが どのようなものであるかも知らないだろう。ひとことで言えば、世 界中は親神の身体であると言えよう(37)。そこで親神の残念な 思いを知らせようと、このたびどのようなこともして見せるのであ る(38)。どのようなことを親神がなされるかは知れないであろ うが、みな一れつはそれが試しであることを承知していよ。
 このたび親神の残念を口説くこの話を、みな一れつはどのように 考えているのか(40)、と言われて、立教以来、四十三年前から 親神が秀司先生の足の身上を通してかけられている試しについて諭 されます(41)。この試しをしっかりと承知をしたならば、どの ようなことも叶わないことはないのである(42)。その試しは世 界中をたすけたいから試されているのであるから、「えらいため し」大変重要なことなのである(43)。
 きょうまではどのような道も通り抜けて、じっとしていたが (44)、もうきょうはどのようなことでも「真実をしてかか る」、真実が実現するように親神が働かれるから、承知していよ (45)。今までと道がころっと変わるので、みな一れつは心を定 めてもらいたい(46)。この道は、内も世界も隔てなく胸の掃除をしていくことにな る(47)。その時にこの試し(秀司先生の足の身上をお つとめによって直すという試し)が重要になる。これを見 たらだれでも親神の話が信じられるようになるのである、 と諭されるのです。

■(91) きょうのおふでさき 《十五号48~56

 

  このはなし四十三ねんいせんから
  ゑらいためしがこれが一ちよ     十五号50

 

 前回、この箇所 を次のように解説しました。

 前の箇所 で言われていた「四十三年以前から」の「えらいためし」、秀 司先生の足の悩みをおつとめによって元の通りに「してみせ る」と説明された件が再度取りあげられました。
「このためし」は「つとめ一条」を急く模様(51)であり、 「鳴物入れて」(52)おやさま仰せ通りの人衆を揃えてつと めてもらいたいこと、そして「これ止めたら」(53)このお つとめがつとめられないように邪魔立てをしたりすると「わが 身が止まる」(53)、息が止まる? 自分の命をなくしてし まうとまで言われています。
 そして54~56で、おつとめについての説明が追加されて います。すなわちこのおつとめは「この世をはじめた」その (人間創造の)働きと同等のものであるから、「よろづたすけ のつとめ」と言われるようにどのようなたすけも「みな請け合 う」(55)おつとめである、「しかっかり承知を」せねばな らない。それを止めたら神の働き(56)も退くと言われてい ます。

 この世を初め てから今日まで、本真実を言ったことはない(48)。きょうの日 はその本真実を言いかけるから、どうぞしっかり承知してくれ (49)。この話は四十三年以前、すなわち天保9年の立教の折か ら大変重い試しがかけられていた。こ の試しというのは、秀司先生の足の悩みをおつとめによっ て直すという「えらい試し」である(50)。この試しは おつとめの準備をしていく上でたいへん重要な意義が込め られており、その試しによっておつとめによるめずらしい たすけを進めていく段取りを促進する重要な手順なのです (51)。
 このおつとめはどういうものか、鳴物を入れてつとめること、そ の人衆を揃えて、その準備を早く進めてもらいたい(52)との仰 せです。このおつとめはどんな者でも思案せよ。これを止めたなら わが身もとまってしまうぞ(53)とまで言われます。
 このおつとめをつとめることは、この世人間を初めかけたのと同 等である(54)。おつとめは、無い人間無い世界を初めかけた創 造と同等であるから、どんなたすけもすべて請け合うものである (55)。このことはしっかりと承知してもらわねばなりません。 これを止めたら親神の働きもすっかり止まってしまうぞ、と言われ てます。この話の前半では秀司先生の足の身上をおつとめで直す試 しの意義を説かれて、親神の話を信じられるようにされましたが、 後半でその先にそのおつとめによって、よろづたすけを実行してい くという大目標を掲げて、おつとめそのものの意義が説かれていま す。
 こうしてこの号が執筆された明治十三年陰暦八月には、鳴物を入 れての本づとめがつとめられ、一応おつとめが一通り教えられ、お つとめ完成への道を弥進まれることになります。

 

■(92) きょうのおふでさき 《十五号57~71》

 

  をやのめにかのふたものハにち/\に
  だん/\心いさむばかりや      十五号66

 

 この箇 所を前回次のように解説しました。

 ここでは 高山と谷底の話に触れられています。今までは高山が谷底をま まにしていた(58)が、この先は谷底に多くのようき(用 木・親神の手足となって働く用材)が出現し、その用木にこの 世をはじめた「をや」が入り込んで働くので、何も案じること はない、すべて「をやの請け合い」(62)であるから心を定 めてはやくかかるようにと述べられています(63)。
 これからはそれぞれの「しんの心」をそのままにあらわすか ら、承知せよ(65)。「をやの目に適う者」は心が勇み、 「をや目に残念な者」は夢見たように散る者と、はっきりさせ る。すなわち心が勇む者と無残に散り去る者との結果を見せ る。親神にとっては「世界中は皆わが子」であって、すべてか わいい子供である(68)から、「どこに隔てはない」 (70)のであって、親神の心と合い違えば「是非はなく」 「だんだん手入れをする」から高山も谷底の者もしっかり心を 定めよ(71)と説かれています。

 今まで は高山に暮らす人々は居丈高に自由にして来た(57)が、これからは どれ程高い山の者でも、谷底に暮らす人々を牛耳って思うようにはでき ないだろう(58)。この先は、谷底にくらす人々のなかにも多くの用 木が育って来ている(59)。その用木には、この世をはじめた親神が みな入り込んで働く(60)。この世を創めた親神が入り込めば、どの ようなことをするやら知れないだろう(61)。しかしどのようなこと をしても心配する必要はないのである。どのようなことも万般、親神が 請け合うのであるから(62)。このことを早く心にしっかりと定めを つけて、用木に仕込む道を、早くにかかれと促されました(63)。
 きょうまではこの道はどのような道か誰も知っている者はなかった (64)が、もうきょうは芯の心をだんだんとみな現すから承知してい よ(65)。
 親神の目に適った者は、日々にだんだん心が勇むばかりである (66)。逆に親神の目に残念と写った者は、何時に夢見たよ うに散ってしまうかもしれないぞ(67)。この話はどこの話 でもない、世界中はすべて親神の子どもである(68)。 親神にとって、一れつの子どもは可愛いばかりの者であって、どこに隔 てはさらさらないのである(69)。しっかり聞いてもらいたい。心が 間違っておれば是非がない。そこでだんだんと手入れをするのである (70)。このことは高山も谷底の者も、油断ないように心を定めよ (71)。

 

■(93) きょうのおふでさき 《十五号72~90

 

  なに事をたのんだとてもたれにても
  きゝわけがないをやのさんねん   十五号76

 

 この箇 所を次のように解説しました。。

 明治十三 年、鳴物をいれてのおつとめがなされる時期が迫っており、 74で「はや/\とつとめせゑねばならん事」と急き込まれ、 立教からここまでの歩みを振り返って、この試しがいまだ実現 していないことに言及されています。そして「頼みかけてあ る」(75)が、「聞き分けがない」(76)「背きなきよ う」(78)などと言われて、「今まではどんな話をしても」 「何を言ってもにをいばなり」(79)と嘆かれています。
「にをいはかり」については、花と匂いのたとえ話です。それ についてはおさしづに次のようにあります。
「花の色匂いを取る心が世界では分からんで。匂い取り兼ねる /\。人間心の色はどうもならん。…言えば言う程言う者は言 う通りに成る。腹立てんよう。さあさあ日々皆々その花の心に 成るで。」(21・7・17)
 このおさしづを受け取って、これを悟った人のひとことがお さしづ本文の後に、「世界広い道になれば、皆々花の匂で寄り 来るなれど、匂取る事分からん故に腹を立てるのであります」 と誌されています。人は花の匂いで寄ってくるが匂いをとるだ けではまったく不十分で「花の心」がわかるようにならいとい けないのです。
 なお、秀司先生はじめ周囲の方々はとにかく官憲の取り締ま りや迫害攻撃からおやさまの身を守ることに一所懸命で、金剛 山地福寺配下で転輪王講社結成したのもそのためでした。しか しそれはおやさまの思いに適わず開筵式は執行されるも、四十 三年以前からの秀司先生の足の悩みを「元の通りにするおつと め(ちんばのつとめ)がつとめられるその途中でご自身がお止 めになったと言われており、実現しませんでした。「ちんばの つとめ」は実現しませんでした。後に明治16年雨乞いづとめ はなされたので、十一通りの特殊含意のおつめのためしは実現 したことになります。
 また「みよだいなりとすぐにしりぞく」(88)について は、『おふでさき註釈』に「秀司先生の名代として音次郎氏を 迎い取るという御予言である、と思われていた」と誌されてい ますが、これは「親の罪が子に報いるのは理不尽である」と 言ったので秀司先生本人が出直しになったと伝えられます。

『おふで さき通訳』にある背景事情に注目して書いたものです。それはそのまま 置いておいて文脈を確認しながら詳述したい思います。

 さあ頼むと話を切り出されて、早く鳴物を寄せてその稽古をせよ (72)と言われます。おつとめ勤修を「さあ頼む」と仰せになってお られるのです。前回も書きましたが、明治十三年の鳴物いれてのおつと めがなされる時間が迫っているからです。おつとめについてもおやさま が教えることはほとんど教えられました。あとはそれがつとめられるよ う導くことを急き込まれているのです。
 これまではどんなことでもじっくりと働きを納めてきたが(73)、 もうきょうは早々とそれを実施に移さねばならない。おつとめ勤修が喫 緊の課題になっているのです(74)これまでは親神が人々に何事を頼 んでも、聞き分け(聞いて分ける、わからせる)がなかった。それが親 神の残念である(76)。このたびの残念口説きのこの話、どうぞしっ かりと聞き分けてもらいたい(77)と言われます。
 ここ(78)から改めておつとめ急き込みの話が展開されます。親神 の話がどのようなことであってもそれに背くことはないように (78)。今までは何を言っても「にをい」だけでその働きは目に見え るところまで至らなかった(79)。しかしきょうの日の話はもうその 時期が来ているので、働きがすぐに目に見えてくるであろう(80)。
 この話は四十三年以前(天保九年)からの親神の胸にたまっている残 念を今晴らそうとしているのである(81)。それを知らずにおやさま の周りの者(うちなる者)は、何もかもが世界並のように思い込んでい る(82)。
 
 このたびの「つとめ一条」を止めるなら「名代」なりとこの道は四十三年以前から(立教以来)まこと難渋な道を通って 来た(83)。それを誰も知らなくても、このたびはその残念 な思いをすべて晴らす(84)。どのようにして晴らすか言え ば、「つとめ一条」ですべてを現すのである(85)。このお つとめについては、親神がどのようなことを言っても、どんな ことでも背くことのないようにせよ(86)。こればかりくれ ぐれも頼みおく、後で後悔なきように(87)、と忠告さたのです。すぐに退く(88)と言われま した。「名代」については「おふでさき註釈』によって前回解説した通 りです。この話、側の者は何と思っているか、もう一息も待っておれな いのである(89)その上から早々と鳴物なりとも出しかけてくれ。お つとめ勤修を急き込んでいるのだから(90)と、この号のテーマに念 を押され、第十五号を締めくくられています。

 

 

7 月21日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(16)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第十六号のまとめ(7月21日)2026/07/21

 

■ おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十六号・(94)~(98) 

《1~16、 17~36、37~55、56~67、68~79 (5)》

 

■(94) きょうのおふでさき 《十六号1~16》


  このたびわこのもとなるをしいかりと
  とふぞせかいゑみなをしゑたい    十六号2

 

 前回、 この箇所を次のように解説しました。

 こ の号は、「明治十四年四月ヨリ」と記されており、いわゆるこ ふき話を取り次ぎに教えてこられたものを書いて提出するよう 指示されたようです。その内容は後に「別席話」になるのです が、それをしっかり覚えさせ、さらに取り次がれるその内容を 書いて出すように言われたのです。これ以降その仰せに従っ て、いくつかのこふき話写本が提出されています(『こふきの 研究』)。
 その内容(「この世はじめた人間の元」(1)を今度は取り 次ぎから「どうぞ世界へみな教えたい」(2)と言われていま す。
 おつとめはかぐら面をつけてつとめられるが、「かぐら両 人」(月日)は人間はじめた「をや」である(4)。こうした 元を世界に教えたい(5)、人間の元初りの話として取り次ぎ から伝えていく。そしておつとめによって人間創造を象り、そ の働きを今この世に現していくのである。そうすることによっ て、話を取り次ぎ、おつとめをつとめることによって、おやさ まの話が真実であることを実証していくのです。
 10から以降、こふき話の真実を世界中へ「しっかりみな教 えたい」(11)ということで、このように書いてみたらどう かとその見本を示された(『おふでさき通訳』)。その上から 「くにとこたちにをもたりさまや」(12)とか、「このをか た」(13)と言った敬称をつけた表現がなされたのであろう (『同書』620~622ページ参照)。

 この骨子を踏 まえながら精読しましょう。
 今まではこの世創めた人間の元なることを誰も知らないだろうか ら(1)、このたびは、この元なるを世界へすべて教えたい(2) と言われます。この号の執筆は明治十四年ですからこふき話の写本 の執筆が本格的に始まった時期となります。つまりこの元なるを世 界へ教えたい、と言われてますが、ずっと以前からこうした話は順 次断片的には話されていた(6)(明治七年頃から)のですが、そ れをまとめて取次に教えることになったという意味だと考えられま す。
 そこでまず、「この元」(この世創めた人間の元)は、かぐらづ とめにおいて「両人」(月日親神・くにとこたち・をもたりのみこ との面をつけている人)であるから、それがまさに「この世初ま り」をあらわしているのである(3)。だかりこのたびのかぐらと いうのは人間をはじめかけた「をや」であるのだ(4)。しかしこ の元を知っている者がいないので、それをすべて教えるのである (5)。ただ今までも順序を追って言って聞かせたことはある (6)が、どれほど言っても一れつにはわかってもらえないので (7)、今それを知らせる時期が来ているから、是非なくかやし (胸の掃除)をする(8)。このかやしちょっとのことではなく、 世界のあっちこっちに多く見える(9)。
 こ のたびはこの真実を世界中に、しっかりと教えたい (11)のである。この元は「くにとこたちにをもたりさ ま」である(12)。月日親神は泥海中を見すまして、 「うをとみ」(いざなぎ・いざなみ)を引き寄せて人間を 創造されたのである(13)。神名に「さま」という敬称 が付されているのは、おそらくこの部分がこふき話を書く 取次人への配慮、こういう風に書いたらどうかとの見本を 示されたのではないかと考えられている(『おふでさき通 訳』621ページ)。
 このたびの残念は心の芯からのものである。これを晴らす手段は ないのか(14)。それを親神がしっかりと引き受けて、どんなか やしもすると思え。このかやしが見えてきたら、胸の掃除がひとり できるのである(16)。

 

■(95) きょうのおふでさき  《十六号17~36》
 

  けふの日ハなにもしらすにいるけれど
  あすにちをみよゑらいをふくハん    十六号33

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

  17~22では前の話題を引き継ぐ形で「かやし」を具体的に 語られています。きょうの日は「日が詰んである」から「どん なことでもすぐにかやす」(18)と言われて、おつとめ勤修 を止めるような事態に至ったならば「月日が出る」(19) 「月日が迎えにでる」(20)と言われて、積極的に働かれる 意向である。このお歌執筆当時、おつとめの人衆を寄せること をされていたが、これを制止しようとする動きがあったので、 おやさまのもとに寄る人々を「迎えに出る」「連れに出る」と 言われているのです。
 そうした外からの妨害とともに、実は内からも(24)同様 の人間思案の動きがあるので、それに対して具体例をあげて注 意をはらわれた。23~26で、秀司先生の庶子・音次郎の処 遇をめぐって、秀司先生亡き後、まつゑ様がいろいろと苦心を されて音次郎のために相当の荷物を用意して村田家に養子に出 されます。そのことについて「いかほどにこしらゑしたとゆう たとて そのさきなるわたれもしろまい」(25)と言われて います。もっと言えば「こしらゑをやるのハしばしまちてくれ  とろみづなかいはめるごとくや」(73)と指摘されたこと である。
 要は、内からも、世界からも人間思案に流されてはならず、 親神の思惑に添って行くべき事を示唆されたのです。
 そうすれば、「あすにちをみよゑらいをふくハん」(33) すなわちおつとめができて人も寄る道となり、「胸の内」が 「ひとり澄み切る」(36)ようになると強調されているので す。

 

 これを 踏まえてより詳しく見ていきましょう。
 これまではおつとめの準備進捗具合が思うように行ってないから嘆か れていました。
 今まではどのようなことも見許して、じっとしていたけれども (17)、きょうの日はもう日が詰んで迫ってきているので、どんなこ とでもすぐにかやしをする(18)と言われています。
 このところ、ぢば・おやしきに官憲が人々が集まるのを止める心で やって来るならば、親神がどこに出るか知れないぞ(19)。月日親神 が迎えに出るから承知しておれ(22)。
 きょうの日はめずらしいことを言いかける。何を言うか誰も知る筈が ない(23)。これは史実に関する話である。世界にはみなどこまでも 同じことをするであろう。子どもを片付けるその拵えをするであろう。 これは秀司先生亡き後、庶子である音次郎の処遇を言われたもので、 「片付ける」は田村の村田家に養子に出されたことを指しています。世 間ではそのような処遇は通常のものと思われる(24)。しかしいかほ どに拵えをしても将来どのような道を歩むかはだれも知る由がない (25)。親神がどのような思惑であるか、その道筋を知っている者は ない(26)。
 この先はどんなめずらしい夢をみるやら知れない。それを機に心が勇 むだろう(27)。それを合図におつとめにかかれ(28)。
 きょうの日はどのようなことも聞いているが、何時に事情が変化する ことは覚悟しておけ(29)。どのようなことがあっても人を恨むこと はないように。それはすべて銘々にすることなのであるから(30)。
 月日親神にとってみな一れつは自分の子どもなので、可愛い思いで いっぱいである(31)が、銘々にすることなので、そこでじっくりと 見ているのである(32)。
 きょ うの日は何も知らずにいるが、明日日を見てみよ往還の道にな る(33)。往還道が見えてきたなら人も寄って来ておつとめ も出来るようになるので、どのような者も適う者はない (34)。月日親神にはどんな思惑があるやら、その心は誰も 知らないであろう。これが見えてきたらどこまでも胸の内がひ とり澄み切るであろう(36)。

 

■(96) きょうのおふでさき 《十六号37~55》

 

 いまゝでハ 人の心のしんちつを
  たれかしりたるものハなけれど     十六号38

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

「人の心の真実」というのは、誠真実の意味ではなく、神の目から 見た人間の本当の姿という意味で、神の思いがまったく分かっ ていないほこりばかりの人間心の実相を言われたものです。そ こでこのたびは、「神が表に出て」「どんな事でもみな教え る」(39)、本来の人間の姿を教えると言われているので す。
 おさしづに、

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  世上において人々中という、いんね んという理定める者少ない。一代二代三代替わり/\、これ聞 き分け。又先々生まれ更わりという事情。たゞいんねんという だけ聞いて、どういう理でなるという、これ分かりた者は無 い。生涯末代と言うて、無くなるもいんねん、生涯安楽楽しん で暮らすもいんねん。皆同じように成るはいんねん。そこで、 すっきり美しい洗い切りて暮らさしたいは、いんねんの理にあ るのや。そこでいんねん聞き分け。(25・7・4)
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とあ ります。「すっきり美しい洗い切りて暮らさしたい」との親神 の思いとは裏腹に、実際にはそのような綺麗な心の状態にはな いから、それをいんねん(ほこり)のない心にたすけるのであ る。「いんねん聞き分け」とはそのような意味です。
 このような話は「身の内障りこれで知らす」(40)と言わ れます。人間は神の話が分かっていないから「身の内に障り」 をつけて知らす」(40)、人間はその障りの姿を見て「人の 心の真実」を悟り。心を入れ替え、胸の掃除ができるのです。
 今までは控えていた(44)が、「きょうの日は道を急いで いる」(46)からおつとめによる守護を見せるために神が働 くのである。これまでに積もり重なった残念・立腹は容易なる ことではない(52)からおつとめの太鼓を止められるような 事態に至っている(54)。そのかやしをしていくから承知す るように(55)と言われています。

 きょうもこれ を踏まえて、詳しく見ていきましょう。
 これからの話は、この世を創めてから何もかもないことを語るの であるから、そのつもりで話を聞くように(37)とことわりを述 べられます。その上で「人の心の真実」という話をされています。これは教えに則っ た人間の誠真実ではなく、現実の人間の実相を言われたも のでしょう。その現実の人間の心を知っている者はいない (38)ので、親神が表に現れているからどんなことでも みな教えるのである(39)。どこのことかと言えばそれ は身の内の障りで知らされることなのである(40)。いわゆる「身上さとし」である。それによって心が澄まされ 「人の心の真実」がわかるようになるのです。
 こんなこと何故言うのか、親が子どもが可愛いあまりに言うこと なのです(41)。どのようなことでも自分のしていることを自分 以外で知るものはない筈だと思うかも知れないが、親神が知らぬこ とはないのである(42)。それ故にどんなことでも予めことわっ た上でかかる仕事であることを承知してもらいたい(43)。身上 さとしの極意を言われているものと思います。
 今まではじっくりと控えていた(44)が、これからは働くぞ。 いままでは何を言っても聞いたばかりであったが(45)、きょう の日は道を急いでいるので、どんなことでも素早く見えて来る (46)。それ故に話が見えてからでは、つまり身上や事情となっ て現れてきてしまってからでは、手遅れになってしまうので、一れ つにしっかり思案をするようにしてほしい(47)。
 今までも親神の口説きは、いろいろと説いてきた(48)が、ど れほど口説いても誰も聞き分けがないのが親神の残念である (49)。ここまで至ったのは容易なことではない。このたびこそ は思案をするように(50)。
 この話を何と思って聞いているか。これまで積もり重なった残 念、立腹は容易ならぬ状況にいたっている(51・52)。
 ない人間無い世界をはじめかけたの月日親神自身である(53) のに、この所、ぢば・おやしきを何も知らない子どもに、太鼓(お つとめ)を止められた、その残念を見よ(54)。このたびはその かやしをするからみなどこまでも承知していよ(55)。

■(97) きょうのおふでさき 《十六号56~67》

 

  月日よりせかいぢうをばはたらけば
  このをさめかたたれもしろまい     十六号63

 

 前回、この箇所 を次のように解説しました。

 きのうの 箇所で「残念のかやし」(55)をすると言われていました。 そのかやしの内容、働きを以下に説明され、これからの展望を 述べられます。
「さあ見えかけたえらい楽しみ」(56)と言われて、それは 「世界一れつ胸の掃除」(57)であり、「神の残念をはら す」ことであるとと続けられます。神は世界中の人々の心の内 をいつでもどこでもご覧になっていて、すべて見抜き見通しで す。ですからその働きかけは「高山」「谷底」と世界中の 「あっちこっち」(62)で働かれます。
 胸の掃除するための働きですから人間にとって不都合なこと が起こってきます。たとえば地震、大風、津波、洪水など自然 現象や、戦争、殺人、テロ、など社会現象にも現わされます。 今日世界中で発生しているいろいろな案件は、それらがまさに 「世界中の胸の掃除」の結果なのです。掃除をされるわけです から埃が立つ。しかしその治め方(63)は誰も知らない。そ の鎮め方(64)を知らせるからそれによってはやく思案をせ よ(64)と諭されます。そしてその「治め方」「鎮め方」は 《おつとめ》によるのであると説かれますが、往々にして人間 はあざないものですから、何を言っても(おつとめの)芯(本 当のところ)を知らないと注意されます。

 詳しく見てみ ましょう。
 きょうまでは何も知らずにいたけれど、楽しみなことが見えかけ てきた(56)。楽しみの道とは何のことか、それは世界一れつの 胸の掃除である(57)。それはまた親神の残念を晴らすことでも ある(58)。この先は、どこにいる人でも親神はその胸の内をす べて見通している(59)。
 きょうからは月日親神が働きに出かける。どのような働きをす るか知れない(60)。また月日親神がどこで働くのもだ れも知らないであろう(61)。世界中、高山も谷底でも 世界一れつあっちこっちで働くのである(62)。世界中 で月日親神が働けば、この「治め方」を誰も知らないだろ う。そこでその「鎮め方」を知らせるから、一れつはそれ を聞いて早く思案をするように(64)、と促されました。
「治め方」については、第十四号92で、
    はや/\と心そろをてしいかりと つとめするならせかいをさまる   十四号92
と話されており、おつとめによって「世界を治める」と明言されて います。一方「鎮め方」については、「思案」(64)を促されて いるので、立ったほこりを鎮めるには神の話・おさとしよることを 示唆されていると考えます。
 世界を治めるのにおつとめが大事であるが、親神はとにかく人を すけたいという思い一条である(65)。それを知らずにみな人間 はだれもだんだんと、このおやさまの行動を何か悪きのように思っ ている(66)。人間は浅はかなものであるから、何を言っても芯 (本当のところ)を知らずに他のことばかり考えている(67)のである。

 

■(98) きょうのおふでさき 《十六号68~79》

 

  さあしやんこれから心いれかへて
  しやんさだめん事にいかんで     十六号79

 

 この箇 所を前回次のように解説しました。

 これまで は「じっと」静止して見許してきたが、これからは「神の思惑 をする」(69)「神が支配をする」(71)。つまり、親神 の思い通りに治めていく、たすけをしていくのである。人間の 目には将来のことは見えていない、わからいのですが、神の目 にはすべてが見えている(72)。
 『おふでさき註釈』にその詳細が記されています。(第一号 34・35。第十六号24・25参照)8月9日の当該箇所で も説明したとおりです。秀司先生の庶子・音次郎の処遇につい て、人間思案に流されることなく対応してほしいという親神の 思いですから、「こしらゑをやるのハしばしまちてくれ とろ みづなかいはめるごとくや」(73)と言われているのです。
 この号の最初のところ(1~20)で触れられたとおり、 「きょうの日はもう十分に詰んできた」(76)ので「どれほ ど高いところ」(高山)であっても「連れに出る」と積極的に 働かれることを繰り返されて、人間思案の心を断って、心を入 れ替えて歩みを進めるようにと、重ねて促しこの号を終えられ ています。

 詳しく 見ていきましょう。
 きょうまではどのようなことも言うのを控えてじっとしていたが、そ の残念な思いをしていた。それを見て欲しいと語りかけおられます (68)。しかしこれからは親神の思惑をする、どんなことするかわか らないぞ(69)。つまり今までは人間が何を言ったり思ったり自由気 ままにしてきたが(70)、この先は親神が支配をするから、どのよう なことも勝手気まま、自由にはできないぞ(71)。これまでは《控え ていた》が、これからは《神の思惑をする》《神が支配する》、この世 の人間をたすけていくということを言われているのです。
 人間の眼には何も見えないかも知れないが、親神の眼にはすべてがよ く見えている(72)。世間並みのやり方で秀司先生の庶子に拵えをし てやるのは、しばらく待ってくれ。それはあたかも泥水の中にはめ落と すようなものでるから(72)〈17日(十六号17~36)でも述べ たところです。〉
 今まではどのようなことでも言わなかったが、きょうからは何でも言わなければならないようになってきている(74)。もうきょうは何もかでも眼に見えるように成って来る。つまり刻 限が来たら月日親神が連れて行く(75)。きょうの日はもう その時が迫ってきている、詰まっているから、何時に連れにで るやら知れないぞ(76)。誰が連れて行くのか。月日親神で す。だれを連れ行くのか、それはよふぼく(「にほんのもの」 「人足」)です。将来の布教伝道を予告されているのです。
 連れて行くのも一寸のことではなく、多くの人が見えているが、だれ も知らないだろう(77)。どれほど高いところの者でも、もうきょう は文句がかわる(78)。さあ思案せよ、心を入れ替えて心を定めない といけない(79)。

 

 

 

 

 

 

 

10月5日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版④《第十三号~第十四号》

 

■「きょうのおふでさき」 第十三号のまとめ(5月4 日)2026/05/04

 

▼ 第十三号・(75)~(84) 

《十 三号1~20、21~40、41~58、59~72、 73~90、91~103、104~120 (7)》

 

■(75) きょうのおふでさき 《十三号1~20》


  これからわ月日でかけるはたらきに
  なにをするともたれもしろまい   十三号

 

 前回、 この箇所を次のように解説しました。
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 第十三号のはじめのお歌は、第十二号と重なった内容になっていま す。十三号の1~14は、十二号の1~13と同じ話をされています。
 きょうまでは何か心配したけれども、明日の日からは往還の道に出る (1)。今までは何かと心配することがこれからは月日が請け合ってい くから、危ないことはない(3)。この先は、どんな危ない話を聞いて もそれは残念をはらすための「月日の働きである(4)。これからは月 日がはたらきに出て、何をするか誰も知っているものはいないであろう (5)月日が働きに出るというのは、月日の心を体したよふぼくが布教 伝道に出かけるということを意味しており、そこに神が先回りをして働 かれる、身上事情を現されるのです。「たすける模様せくばかり」とは そのことです(7)。これからはことわりなしに働きをする(8)と言 われています。
 これからは心を入れ替えて、神にもたれて「ようきつとめ」をした ら、しっかりと利益をあらわし(11)、利益がみえたら「あとはいつ でもみなかんろふだい」というようになる(12)と。
---

 これを踏まえ ながら詳しく見てみましょう。
 きょうまでは何かについて心配をしたけれども、明日からは往還 道にでる(1)。今まではどれほど難儀不自由な道筋も見えてある からことわり、理由をつけて話をしてきた(2)。この先はたしか に月日親神が請け合うから、どのようなことが生起しても危なくは ない(3)。だんだんに思いがけない話を聞いても、「世界を楽し め」月日親神のはたらきである(4)。
 これからは月日親神が働きに出かける。何をするのか、どのよう に働くのかについて誰も知らないだろう(5)。日々に世界のとこ ろを見すませば、一れつの子どもは辛い状態におかれながら努力し ている(6)。月日親神はどのようなことでもたすける準備を急い ているのである(7)。だから、これまではことわり(予告)ばか りをして来たが、これからは断りなしにすぐに働くぞ(8)。
 きょうまでは何も知らずに人間の心ばかりでいろいろと心配をし てきた(9)。しかしこれからは、心をしっかりと入れ替えて神に もたれて陽気づとめをせよ(10)。陽気づとめをしたならばその ままおつとめのりやくを現すからそれを見てくれ(11)。おつと めのりやくが見えてきたなら、あとはいつでもかんろだいとなるだ ろう(12)。
 この先は月日親神が一度言ったことは、どのようなことでも背き はできないだろう(13)。月日親神が言ったことを取り消すよう なことになれば、すぐにその働きが退いてしまうから、承知してい よ(14)。
 今までは内も世界も真実の心にわかりがない(15)。月日親神 は、第一にこれが残念である。そこでその心をすますのである (16)。心がすめば月日親神の心がわかるから。何でも意見をせ ねばならない(17)。意見でも一寸の人数でない、多くの胸であ るからこれがむずかしい(18)。どれほど難しいことだと言って も、めいめいの子どもには意見をするぞ(19)。この段取りは如 何にすればいいだろう。何でも神の残念をあらわすものである (20)。

 

■(76) きょうのおふでさき 《十三号21~40》

 

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  よろづたがいにたすけばかりを    十三号37

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。
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 日々に神の胸にはほこりがいっぱい積もっている(21)。神の胸に 積もっているのは、もちろん人間が積んだほこりです。それを掃除する には「つとめなりともかゝりたるなら」、おつとめをせよ(22)。真 実の思いを神がうけとったら掃除する(23)。そうしたら世界中の勇 んで「陽気づくめ」になる(25)。
 そこで世界を眺めてみると、高山も谷底も「月日のこども」ばかりで ある(26)。人間の親が子を慈しむのと同様に神も人間をかわいいと 思っているから(27)、その神の残念な思いを知らそうと表に現れた のである(28・29)。
 世界中を見渡しても「元初り」を知っている者はいない(30)その 元を世界へ教えたいから「月日が現れて出た」(31)が、それはおや さまをやしろとして親神がこの世の表に出現したということよりも、 「月日の残念」、つまり21~25で言われていた世界中を「陽気づく め」になることが未だ実現していない、その元、「元初り」の真実を世 界中へ知らしたい(33)ということでしょう。そして残念立腹をはら したらその後に「めずらしい道をつける」と言われている。ですから、 37の「この道」は「めずらしい道」のことで、布教伝道を意味してお り、それは「よろづたがいにたすけ」で実現していく、「たがいにたす け」するならば「月日も心みなひきうける」(38)と言われて、親神 の働きと人間の「たがいたすけ」が連動して、協働して展開されること を示唆されたのです(39)。
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 以上を 台にしてさらに精読します。
 日々に神の胸にはだんだんと、人間が積んだほこりがいっぱい積もっ ている(21)。このほこりを掃除するのはむずかしい。おつとめには やく取り掛かったならば、どんなほこりもそうじする(23)。一れつ (世界)の胸の内(神の胸にたまった人間のほこりも人間が積んだ人間 の胸の内のほこりも)うちも世界も、すきやかに掃除をしたなら (24)、それからは世界中は気が勇んで自ずから陽気づくめになる (25)。
 高山に暮らしている者も、谷底にいる者も月日親神にとってはみな月 日の子どもばかりである(26)。人間も自分の子どもはかわいいだろ う。それと同様に神の残念を思ってみよ(27)。これまではどのよう なことを見ても、月日親神は、それをじっと黙って見ていた(28) が、このたびはもう日が詰まっているから、どんなこともみな言うほど に(29)。
 親神の目で世界中を見渡しても、元初りを知っている者はない (30)。この元をどうぞ世界へ教えたいので、そこで月日親神がこの 世に現れて出たのである(31)。このたびの残念というのは容易なこ とではないと思えよ(32)。月日親神はこの真実を世界中へ、どのよ うにしても(取次にこふき話を教えて仕込もうと準備をしているのであ る(33)。ところが、それを知らずに月日親神が言われることをすべ て消し去って、あとは人間心だけが蔓延っている(34)。
 この先は月日親神の残念・立腹をみな晴らすが、それを承知している か(35)。月日親神も残念・立腹を晴らしたら。あとは、めずらしい (布教伝道の)道をつける(36)。この道はどういうことに思うか、 これまで教えてきた万事に付けて「互いたすけ」の道である(37)。 世界中の人間が(布教伝道の場で)互いたすけをするならば、月日親神 もみなその真実の心を引き受ける(38)。月日親神が引き受けをする ということは、どんなことでも働きをする(39)。神と人間がともに 働いて協働して進めていくと言われています。その働きというのは、善 と悪とを分ける、善悪が分かるようにされるのです(40)。

 

■(77) きょうのおふでさき 《十三号41~58》

 

 これさいか たしかにしよちしたならば
  むほんのねへわきれてしまうに     十三号49

 

 この箇 所を前回次のように短くまとめて記述してますので、それを再掲してお きます。

「悪 事をわが身に知る」(41)については「おふでさき註釈」に 「今日までは、どのような悪事と言っても、心づかいが我が身 に現れると知った者は、だれも無いであろう」と記されていま す。心づかいがわが身に現れるとは、まさしく身 上かしもの・かりものの話を指摘されたのです。
    ① 世界一れつ、みな兄弟姉妹(43)、
    ②高山も谷底に暮らしている者も同じ魂(45)、
    ③人間身の内の道具は月日からのかしもの(46)。

 以上①~③は かしもの・かりものの教理を説かれ、それ を承知したら謀反の根が切れてしまうのです (49)。
 以下、50~58ではこのお歌が執筆された当時の社会で 「高山の戦い」を治める具体例が語られます。「陽気づとめ」 をするようになれば、治まっていくだろう(51)。「神が引 き受けをする」(53)「請け合って」「働きをする」 (54)。これからは高山にかわって月日が代わってままにす る(57)、これから先は「神のまま」(58)と説かれてい かれています。高山の戦いのみならず、親神の残念、人間のほ こり(身上・事情)もおつとめの理によってたすけられるので す。

 

 きょう、改め てそのこの要点を押さえた上で、おうたを詳しく読んでみます。
 きょうまでは世界で悪事を自分自身で知っている者がいないと、 まず語られています。「わが身に知りた者」は一般的な意味からす ると自分で自分の内に潜む悪・罪悪を自覚している者はいない (41)、くらいの意味になりますが、ここでは、パウロの回心と か親鸞の廻心のような意味ではなく、『おふでさき註釈』にあるよ うに「心づかいがわが身に現れる」ことを知っている人間はいない だろうという意味に理解します。みな一れつは月日親神の真実を 言って聞かすからそれを聞いて思案してくれ(42)。世界一れつ は、すべて等しく親神の子ども、兄弟姉妹でって、他人はいないの である(43)。この元を知っている者がいないから、月日親神は 残念に思っているのである(44)。高山に暮らしている者も谷底 にいる者もみな同じ魂である(45)。またそのなかで使う道具 は、すべて月日親神がかしているものである(46)。それを知ら ずに人間心でなぜか高低があるかのように思っているが、それは心 違いである(47)。月日親神はこの真実を世界中にしっかり承知 をさせたい(48)。これを承知をさせたら謀反の根が切れてしま うのに(49)。
 月日親神は真実に思っているのであるが、高山の戦いさえ治める 準備をしている(50)。しかしどうしたら治まるだろう、陽気づ とめをするようになれば治まるであろう(51)。この話をしてい るのは誰が言っていると思っている。おやさまの口を通して月日親 神の心のままに言っているのである(52)。このつとめで高山の 戦いを治めるのは難しいと思うだろうが、神が引き受けるのである (53)。
 このたびはどんなことでも真実に月日親神が請け負って働きをす る(54)。おつとめができるようになれば神が出て世界中を働い たら、どんなつとめをしても怖いことはない(55)。
 しっかりと聞いておけ、これまでは高山だといって谷底の者を思 うがままにしたことがあったが(56)、これからは月日親神がそ れに代わって出るから、思うがままにしようと思うならばしてみよ (57)。今までと文句がちがう。これから先は神のままである (58)。おつとめによって身上・事情をたすけて行くのである。


■(78) きょうのおふでさき 《十三号59~72》

 

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし      十三号71

 

 前回、この箇所 を次のように解説しました。
 

  59~61では、きのうの箇所で話題にされた「高山の戦い」 を治める話があったので、「立毛(農作物)作るる」をたすけ たい、「肥一条を教えたい」(60)という話題を出され、ど うしてその肥が効くか言えば、肥をする人間の心を神が受け 取って働くのである(61)と言われています。別の所では 「一に百姓たすけたい」(十三号103・山田伊八郎文書)と も言われています。
 ところが、今までどれほど月日親神が言っても、「みな疑っ て言い消す」(66)ばかりであった。これからは「月日言う こと何事も背かないように神にもたれよ」(68)。そうすれ ば神は確かに引き受けて働きをする。「どんなたすけも違う事 なし」(71)と「神にもたれるか疑うか」の決断を迫られて います(72)。
 要は「高山の戦い」も「立毛作る」をたすけるのも、なかな か皆が疑っていて信じられないのだが、「おつとめ」の勤修に よってなされることが強調されているのです。「立毛の肥」 (60・61、人間の心)が違わないように「承知せよ」と言 われています。

  この要点を 押さえた上で、おうたを詳しく読んでみます。

 月日親神が天より天降ったのはどうしてなのか、何の事やら誰も 知らないだろう(59)。第一には立毛(農作物)を作る人々をた すけたい、肥一条を教えたいということが天降った理由である (60)。肥がどうして効くと思うか。人間の誠真実の心を神が受 け取るから効くのである(61)。今までは神が真実であると言っ ているのに、うちの者からでも疑うばかりである(62)。このた びは、何を言っても疑うな、これを疑えば月日親神の働きが退いて しまうぞ(63)。このことはあくどいほども言っておく。いつに なってもちがうことはない(65)。
 今までは何を言っても、みな疑って言い消すばかりである (66)。月日親神は第一これが残念である。何でもこれをしっか りと決める(67)。これからは月日親神が言うことには何事も背 かないように神にもたれよ(68)。そうしたなら神の方にも真実 に確かに引き受けて働きをする(69)。月日親神はこれほど口説 き詰めているのだから、心違え(疑え)ばすぐに退くことになる (70)。真実に心に誠があるならば、どんなたすけも違うことなし (71)。この先は立毛の肥が違わないように、どうぞ しっかり承知してくれ(72)。
 謀 反を治めることも立毛の守護もおつとめによって成就する ことを教えられたのです。

 

■(79) きょうのおふでさき 《十三号73~90

 

  それゆへに月日でかけるはたらきに
  とこへでるやらしりたものなし    十三号81

 

 この箇 所を前回次のように解説しました。

 これから 月日が思っていることを言いかける(73)。どんな話も嘘と は思うな(75)。とにかく月日の心は急いている(76)、 と前置きをされて、親神の不思議な働きについて話される。ど こまでも神の話を信じ切って心で話を伝えていけば、その道の りがどれほど遠いところであっても「にほんもからもてんちく までも」(77)しかも「一夜の間にも」働きをする(78) と言われます。
 人間は月日かしものであり、親神の子どもで何としてもたす けたいかわいいばかり(79)である。このままぢっくりして れば、いつになっても事態が治まらない(80)。それ故に月 日が働きに出る(81)。そして世界中の心をすます(82) 心が澄めば神の話がわかるようになる(83)。身上に見せら れたしるし(てびき)を見せて、よふぼくから教えを伝え、神 はそれが真実であることを人々にわかるように働かれる。口先 で言うだけでは伝わらない(87)ので、どのようなことも真 実をして見せる(89)と言われています。

 さて、 今回も再度それをなぞる形になるが読み進めます。

 きょうか らは月日親神が思うことを、どのようなことも言いかける(73)。今 までからもどのような話も説いてきたけれども、月日親神の思惑はまだ 言ってないものもある(74)。これからはどんな話をしても、これを 嘘と思ってはならない(75)。どのようなことを言うやら知れない。 月日親神の心は急いているから(76)。
 この心どういうことに思うか、にほんもからもてんぢくまでも (77)。この間の道の理が余程の距離があっても一夜の間にも働きを するのである(78)。それを人間は何と思っているのか。人間はみな 月日親神のかしものでみなわが子どもである(79)から月日が働くの である。月日親神が働かないでじっくりしていれば、いつになっても治 まることがなかろう(80)。それ故にまずは月日親神が働きにでかけ るのである。どこへ出るやら知っている者はない(81)。世界中の心 をすますというからはちょっとこととはさらに思うな(82)。しかし どのようなことでも一人ひとりの心を着実にすましていけば危ないこと はないのである(83)。こうして神の働きについてまず語られまし た。
 次は人間の側の話になります。だんだんと月日親神が日々に思惑とし ていることは、多くの人を待つばかりである(84)。この人をどうい うことのために待っているのか。世界一れつのわが子をたすけたいから 待っているのである(85)。そのために月日親神が働いて今年にはど んなめずらしい道筋が見えてくるやら知れないから、先ず人が寄って来 るところに気をつけてもらいたい(86)。
 口先で何ほど真実を言っても、誰かそれを聞き分けする者がいない (87)。それ故に月日親神がどのようなことも真実をみなして見せる (88)。どのようなことをしてもそこに人間の心が混じるとさらに思 うな(89)。月日親神には余程見かねるから、そこでどのようなこと もするのである(90)。

 

■(80) きょうのおふでさき 《十三号91~103》

 

  月日にわどんなところにいるものも
  むねのうちをばしかとみている    十三号98

 

 この箇 所を次のように解説しました。。

 強敵と若 きを対にしていずれも「力」強さをとらえて、「これを頼りと さらに思うな」、力がつよいことを頼りにしてはならない、と 人間に備わった力、人間的な力を頼りにするような在り方を戒 め(91)。この度は神がおもてに現れて人間には発揮できな いような不思議な力で自由自在に話をするのである(92)。 どんなことも真実を話するのであるから、胸のうちよりひとり 澄み切って、神の話が自ずとわかるようになる(93)。
 今までは誰もがみんな人間の心だけで思案をして来た (94)。この度はそうした人間心の思案(人間思案)はさら にいらない(95)のであって、何を言っても嘘と思うな (96)。
 高山でどのような者が蔓延るも、この真実を誰も知らないで あろう(97)。月日はどんなところに居る者もその胸の内を ご覧になっていて(98)、月日の心に叶っていたなら、いつ までも充分な働きをもって力を発揮するのである(99)。
 このように月日には人間をたすけたいとの心で急き込んでい るが、そばのものにはそれがわからない(100)。たとえ ば、立毛、農作物を育てるには水が必要であるからそれを与え ている(101)。ところが人間には神のその思いが伝わって いない。なんと思って思やんしているのか(102)。月日に はこれをたすけたいとの思いからどのようなことも言っている のである(103)。

 どれほ ど力の強い剛的であったり、年代の若い力を出せる者であっても、それ を頼りにしてはならない(91)。人間の力に頼るのではなく、このた びは神が表に現れて自由用自在に話をするのであるから(92)、神の 力にもたれていればいい。神が真実をするのであるから、胸の内よりひ とりすみきる(93)。今までは人間の心ばかりで思案をしていたが (94)、このたびは人間の心思案は不要である(95)。
 何もかもどのようなことも言っておく。何を言うても嘘と思うな (96)。高山でどのような者が蔓延ってもこの真実、月日親神が人間 (よふぼく)と共に働くことを誰も知らない(97)。月日親神はどこにいてもそれぞれの人間の胸を内をしっかりと見 ているのである(98)。それでその胸の内が月日親神の心に 適ったならば、いつまでもその働きを維持し保持(守護)す る、踏ん張るのである(99)。よふぼくの互いたすけ(布教 伝道)とともに月日親神が働かれる、神人の協働で布教伝道が 展開されるのである。
 月日親神が日々心を急き込んでいるが、そのの者の心にそれが分から ない、伝わらない(100)のである。たとえば月日親神の急き込んで いるのは、立毛(農作物)を作るには水が必要であろう、水が欲しかろ う(101)。みな一れつはこれをなんと思って思案している (102)か。月日親神はとにかくこれを第一にたすけたいと思ってい るので、どのようなことも急き込んで言っているのである(103)。

 

■(81) きょうのおふでさき 《十三号104~120》

 

  一れつわみなめへ/\のむねしだい
  どんな事をがかなハんてなし     十三号117

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 親神のた すけについて縷々説かれてきましたが、この号で一段落つく感 じです。というのは、第六号から「月日」の名称で語られてき たのですが、この後の号より「をや」へと引き上げて説かれる ことになります。そしておふでさき執筆もこれ以降、明治11 年の1年間はストップされています。明治12年から第十四号 が執筆されるのです。
 この節はその区切りの最後の部分でこれまで語られてきたこ とを総括されています。
 親神がどのうようなことを言うのも、人間をたすけたいとの 思いからであって、これまで「口説き詰めた」(110)。真 実のたすけを急くから「意見」をしてきたのである (112)。真実に心澄ましたその上は、たすける模様を教え る(113)と言われて、「疱瘡」をしないようにするための お守りを拵えるおつとめを教える(114)さらに「病まず死 なず弱らん」の証拠守りをはやくやりたい(115)のであ る。それらどんなことでも叶わないことはない(117)。雨 乞いについても。「みなめいめいの心次第」である。

 何もか も月日親神がどれほど口説いても、誠に聞いてくれる者がいない (104)。それ故に月日親神の残念立腹が山のように積もり重なって いる(105)。今までは月日・日柄が来たらなかったのでじっとして いた(106)。このたびはその日柄が到来しているので、どんな仕事 も早くかかるのである(107)。この先は月日親神の残念が現れて、 どのような道になっても人を恨むことはない、わが身恨みである (108)。この話どこのこととでもない。高山でも谷底でもどのよう な道(月日親神の残念)が現れてくるが、一れつはみな気を付けよ (109)。
 月日親神がどのようなことを言うのも、わが子をたすけたいからであ る(110)。この先は何を言ってもどのようなことを言うが、悪きな ことは言わない(111)。真実のたすけばかりを急くから、そこでた んだん意見いたのである(112)。
 真実に心をすませたその上は、たすけの準備やその進め方をいち早く 教える(113)。このたすけはどういうたすけか、疱瘡をしないよう にとのお守りを拵えるおつとめのことである(114)。またたすけ、 病まず死なず弱らないようにする証拠守りをはやくやりたい(115) と、人々を勇ませようとされているのです。
 何もかもよろづたすけを急くから、心次第にどんなことでもたす ける(116)。一れつはみな銘々の胸(心)次第である。ど んなことでも願えばかなえられるのである(117)。雨乞い についてもこれまで神が真実に何も言ったことはない (118)が、このたびはどのようなことも真実を尋ね来るな らみな言うて聞かす(119)。月日親神にはどんなことも叶 わないとは言わない。みな銘々の心次第である(120)。
  ここまで第六号から自らを「月日」と称して来られましたが、 次号第十四号以降はそれを「をや」と改め人々の中に入って働 く話へ導かれます。

 

■(81)きょうのおふでさき 《十三号104~120》

 

  一れつわみなめへ/\のむねしだい
  どんな事をがかなハんてなし     十三号117

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 親神のた すけについて縷々説かれてきましたが、この号で一段落つく感 じです。というのは、第六号から「月日」の名称で語られてき たのですが、この後の号より「をや」へと引き上げて説かれる ことになります。そしておふでさき執筆もこれ以降、明治11 年の1年間はストップされています。明治12年から第十四号 が執筆されるのです。
 この節はその区切りの最後の部分でこれまで語られてきたこ とを総括されています。
 親神がどのうようなことを言うのも、人間をたすけたいとの 思いからであって、これまで「口説き詰めた」(110)。真 実のたすけを急くから「意見」をしてきたのである (112)。真実に心澄ましたその上は、たすける模様を教え る(113)と言われて、「疱瘡」をしないようにするための お守りを拵えるおつとめを教える(114)さらに「病まず死 なず弱らん」の証拠守りをはやくやりたい(115)のであ る。それらどんなことでも叶わないことはない(117)。雨 乞いについても。「みなめいめいの心次第」である。

 何もか も月日親神がどれほど口説いても、誠に聞いてくれる者がいない (104)。それ故に月日親神の残念立腹が山のように積もり重なって いる(105)。今までは月日・日柄が来たらなかったのでじっとして いた(106)。このたびはその日柄が到来しているので、どんな仕事 も早くかかるのである(107)。この先は月日親神の残念が現れて、 どのような道になっても人を恨むことはない、わが身恨みである (108)。この話どこのこととでもない。高山でも谷底でもどのよう な道(月日親神の残念)が現れてくるが、一れつはみな気を付けよ (109)。
 月日親神がどのようなことを言うのも、わが子をたすけたいからであ る(110)。この先は何を言ってもどのようなことを言うが、悪きな ことは言わない(111)。真実のたすけばかりを急くから、そこでた んだん意見いたのである(112)。
 真実に心をすませたその上は、たすけの準備やその進め方をいち早く 教える(113)。このたすけはどういうたすけか、疱瘡をしないよう にとのお守りを拵えるおつとめのことである(114)。またたすけ、 病まず死なず弱らないようにする証拠守りをはやくやりたい(115) と、人々を勇ませようとされているのです。
 何もかもよろづたすけを急くから、心次第にどんなことでもたすける (116)。一れつはみな銘々の胸(心)次第である。どんなことでも 願えばかなえられるのである(117)。雨乞いについてもこれまで神 が真実に何も言ったことはない(118)が、このたびはどのようなこ とも真実を尋ね来るならみな言うて聞かす(119)。月日親神にはど んなことも叶わないとは言わない。みな銘々の心次第である (120)。
 こ こまで第六号から自らを「月日」と称して来られましたが、次 号第十四号以降はそれを「をや」と改め人々の中に入って働く 話へ導かれます。

 

  

6 月14日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(14)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第十四号のまとめ(6月 14日)2026/06/14

 

■ おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十四号・(82)~(85) 

《1~16、 17~28、29~47、48~64、65~78、 79~92 (6)》

 

■(82) きょうのおふでさき 《十四号1~16》


  これからハにち/\月日はたらくで
  とんなしごとをするやしれんで    十四号15

 

 前回、 この箇所を次のように解説しました。

 こ れからいろいろなことが発生してくる。その例として「どのよ うな夢をみる」のも「何かを口に出して言う」のも、これはみ な「みな月日」の働きでそうさせているのだ(1)と説かれま す。その働きによって人々の心が勇むだろうと考えていたが、 実際には「そばの心」も「上の心」も「いずむばかり」(2) の状態です。これは「上」も「世界」も「何も知らん故」 (3)だからである。親神はそれを残念に思っておられて、口 で言えない(8)から、「夢でなりともにをいがけ」(7)す るよう促してはいる。しかし上も世界もみな疑って言い消すば かりである。これが残念でならない。
 とにかく親神はいろいろな身上・事情を見せても、取り次ぎ を通してよふぼくにその治め方を指南しているから大丈夫だと 考えておられる。だから身上や事情を見ても何も心配すること はないと言われる。ところが人々が身上や事情を見せられると 心をいずませてしまう。それは親神の働きを知らん(3)から であると言われるのです。
 いままでは、どんなことを言っても、すぐに見えたことはな かった(13)が、これからは月日が働いて「どんな仕事をす るや知れん」(15)。たとえば、「かまい」「つきもの」 「ばけもの」などと言っているが、もちろんそのようなものは 存在しないのであって、それはまさに月日が働いて「仕事」 (15)をしている証しと受け取るべきなのである。

 これを踏まえ ながら詳しく見てみましょう。 この号は明治12年執筆ですの で、ここまで約1年間はおふでさきの執筆を中止されていたことに なります。久々に執筆されがこの号は、どのような夢をみるのも月 日親神が、何を言うのもみな月日親神ご自身が為している、働いて いるのだという意味の言葉で執筆再開されています(1)。そして 月日親神は日々その心は急き込んでいるのであるが、側の者の心は いづむばかりである(2)。どうしていづむのかと言えば、上が何 も知らないからである(3)。世界の人々もその何も知らない上に 何事も、みな従っていづんでいるのである(4)。月日親神は第一 にこの点が残念であるから、そこでどのようなこともしてみなが勇 むようにしたい(5)。そこで月日親神より日々心が急いているの で、口ではどうも言うに言えない状況なので(6)、夢でなりとも にをいがけをしてでも、早く思案をしてくれるように促している。 月日親神のこの残念は口でいうようなものでないのである(8)。
 きょうまではどのような話もだんだん、いろいろ説いてきている ところである(9)が、何を言うにも未だその日柄・刻限が来てい ないので、神の話が人間の目に見えて来ない(10)。それ故に月 日親神が何を言っても、みな言い消すばかりである(11)。月日 親神は第一これが残念である。そこで神の話を何でもしかと現す (12)。今まではどんなことを言っても、それがすぐに見えたこ とはなかった(13)が、このたびは三日の内に世界でどんな話を 聞くやらわからないぞ(14)。これからは日々に月日親神が働くので、どのような仕事をす るかわからない(15)。この世に「かまい、憑きもの、 化けもの」があるとは思うな。すべて月日親神が働いて人 間の心に見せてきた事柄なのである(16)

 

■(83) きょうのおふでさき 《十四号 17~28》

 

  これからハ心しいかりいれかへて
  よふきづくめの心なるよふ       十四号24

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。
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 これまで心を尽くして話をしても心を澄まして聞く者がいない(三号 20)、胸のわかりたもの(一号1)もないので、月日の残念な思いが 山のように積もってあるのでそれを「晴らす」(17)と言われていま す。どのようにして晴らすかと言えば、「月日の心みなしてみせる」の である。おさしづでは「老舗から一つ理が出る。諭しから一つ理が出 る」(30・8・5)と言われています。「老舗」の意味は「しみせ」 「して見せる」。また、「実証」とも言われます。おさしづでは「実 正」の語がそれです。「よく聞き分け。言葉を聞かす。理を聞く。そこ で心に一つ実正なる処、人間身の内言葉で諭したる」(24・9・ 16)とか、「言葉一つの事情の理を聞いて治まるなら実正という」 (23・8・26)など。要は「しみせ」と同義です。言葉で諭した通 りに実証される、「して見せる」「実証する」ということです。
 その具体例として19~22で、「月日がすること」は「病ではな い」「月日手入れ」(21)である。世界ではコレラが流行っていると 見られるが、「月日が残念を知らせているのである(22)。そこで 「いずむ心」を「陽気づくめの心」に入れ替えるよう促されています (24)。
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 今まで に月日親神の心に山のように積もった残念をすべて晴らす(17)と言 われて、月日親神の心の通りに「してみせる」と言われます(18)。 前回にも誌したがおさしづではこれを、「老舗から一つ理が出る。諭し から一つ理が出る」(30・8・5)と言われています。おさしづ改修 版は「しみせ」に「老舗」の字を当てていますが、ルビは「しみせ」と なっているのでそのように理解できる。

 

 さてそ れをどのような形で示されるのでしょう。きょうまでは月日親神がこの 世人間を始めてから日は経つ、がその真実の思いはまだ知らないであろ う。だから「して見せて」も人間の目には単なる病のように映るかも知 れない。しかし、「いかなことでも病ではない」と指摘されています (20)。身の内にどのようなことが現れてきてもそれは病ではなく、 月日親神の「ていれ」であると語られます(21)。世界ではコレラと 言っているが、月日親神の残念を知らしているのである(22)。その ような状態であるから、世界中はどこにあっても同じことであるから、 人間の心はいづむばかりなのです(23)。これからはその心を入れ替 えて、陽気づくめのこころになるよう(24)に、と諭されています。
 月日親神が人間を始めたのは、人間の陽気遊山が見たいからである (25)。世界中はこの真実を知らないから、みなどこまでもいづむば かりなのです(26)。月日親神がすすめている陽気づくめは、これを 止めたら親神の残念が高まって大変なことになるぞ(27)。「これ止 めたら」は「陽気づくめ」、さらに「おつとめ勤修」を止めるという意 味と思われます。この話をしっかりと聞き分けて、早く思案をしてくれ (28)と言われています。

 

■(84) きょうのおふでさき 《十四号29~47》

 

 あすからわ どんな事をばみたとても
  なにをきいてもたのしみばかり    十四号42

 

 この箇 所を前回次のように短くまとめて記述してますので、それを再掲してお きます。

 こ れまで月日という名前を使用してきたが、きょうからは「を や」という名に変更すると宣言され(29)、「大社」「高 山」に代わって「をや」がままにする(31)のである。大社 は神社を、高山は仏教のお寺、それぞれ山号をもっているの で、たとえば比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺のように、「高 山」を表現して世の中の権威のあるものであるから、「上」と 同じような意味と理解できる。世の中はそうした大社・高山が はびかっており(33)、人々は何も知らずにそれに従ってい る。親神はその様を残念に思い、それをたすけようとされてい る(35)のに、何か悪いことのように思っている(36)。 子どもに意見しられるをやの思いを察するよう促され、これか らはそのようなことを心配する必要ない(41)。
 明日からはどんなことを見ても、何を聞いても楽しみばかり の世界、陽気づくめの世界になっていく(42)のである。お つとめによってそういう世界に導かれることを言われているの です。おさしづに「これから先というは、何を聞いても、どの よの事を見ても、皆楽しみばかり。」(20・2・24)とあ り、これからはをやの思うことばかり、言うとおりに成って来 る(47)のである。

 きょう、改めてそのこの要点を押さえた上で、おうたを詳しく読んでみます。

  いままでは「月日」という名前でご自身を称してきたが、きょうか らはその名前を「をや」と変える(29)。
 きょうまでは、大社高山といわれる人々は世界を牛耳って幅を利 かせて、自由にしてきた(30)のである。これからは大社高山に 代わってをやが代わってままにする。これに背いたらすぐにかやし をする(31)。きょうまでのをやの残念はちょっとのことではな いと思え(32)。このたびはまだ世界には何事につけてても蔓延 るばかりであって、何も知らない(33)。人間も子どもが可愛い でろう。それを思って思案してくれ(34)。日々にをやの思案は たすける準備、段取りばかりを思っている(35)。それを知らな いで世界中は何か悪いことのように思っている(36)。何もかも をやの残念をよく思ってみよ、子どもばかりに意見をされている (37)これからはどんなところの意見でも、をやが出ているのだ から受けることはない(38)。この意見どのような者が蔓延って 言ったとしても、言ったと思えばすぐに退いてしまう(39)。ど のような仕事をするにもその前に精一杯にことわって予告しておく (40)。
 きょうまではどんなことも日々に心配したけれども(41)、明 日からはどんなことを見たとて、何を聞いても楽しみばかりである (42)。これまでは高山から何もかも、どんな指図もうけたけれ ど(43)、この先はどのようなことを言われても、をやの指図で あるから、決して受けることはない(44)。今までは日柄も来て なかったので、どんなことでもじっとしていた(45)。もうきょ うは日柄も充分に詰んである。どんなことでもそのままに実行する (46)。これからはをやの思うことばかり、ひとこと言えば違う ことはない(47)。
 をやが指図をするのだから他からの指図は受けないというおやさ まの強い意志が見えます。おさしづに「道という理聞き分け。何処 へどうするやない、と言うて暮れた教祖の理思うてくれ。」 (32・8・5)と言われています。

■(85) きょうのおふでさき 《十四号48~64》

 

  あすからハをやが一はなでるほとに
  とんな事てもかやしゝてやる     十四号64

 

 前回、この箇所 を次のように解説しました。
 

 今後どん なことがあるや知れない(48)が、真実の心があれば怖いこ とはない(49)。とにかく心を澄まして事に臨めば楽しみば かりになる(50)。逆にそれを疑う心であればどんな道にな るかわからないぞ(51)とまで言われています(52)。し かしそれはをやが子供に真実の心を知らしたいから言っている のだ(54)これを承知してくれたら、いつまでいても陽気づ くめである(55)。そのことの承知するよう言い添えられて います(56)
 57以降は。これから「はじめかける」という話が続きま す。「はじめかける」は立教の元一日を仰せになっている場合 が多いようですが、ここでは明治20年正月26日から「はじ めかける」が神意です。60以降にあるように「どんな者でも をやにもたれる」と示されているのでそれは明らかでしょう。 つまりおつとめと布教伝道によって世界だすけを広げる意向で す。そしてその先頭に「をや」・おやさまが立たれるというこ とです(64)。「一はな」とは、おやさまが世界たすけの先 陣を切って、その先頭に立たれるという意味です。わたしたち にとって、誠に力強い激励のひとことだと思います。

  この要点を 押さえた上で、おうたを詳しく読んでみます。
 世界中ではどこまでもどんなことがあるかわからない(48)。 どんなことがあっても心に真実があれば、どこにいても怖いことは ない(49)。心さえすっきりとすんだ状態にあれば、何が起こっ ても何が見えても楽しみばかりである(50)。しかしこの話に疑 いの心があったならどのような道になるやらわからないぞ (51)。親神にとっては、世界中はみな子どもであり、可愛いの でそのあまりに何を言うやら知れない(52)。この世界、高山の 者でも谷底の人々も、親神・をやにとっては可愛い子どもばかりで ある(53)。そうであるからこのたびは、何でも真実のをやの心 を知らせたいのである(54)。こさえ確かに承知したならば、い つまでいても陽気づくめである(55)。この道(をやの心を知ら せる布教伝道の道)は、をやが頼みであって、しっかり承知をして くれ(56)。
 きょうまではどのような道もだんだんと通り抜けて来た(57) が、これからの道はなんでもめずらしい道となる(58)。をやの 心が勇み出てどんなことでもはじめかける(59)。これさえ始め かけたらどんな者でもをやにもたれるようになる(60)。この道 をつけようとこれまで準備をしてきたのであるが、これから先、を やがどんな働きをするか、どんなものでもまだ知らないであろう (61)。さあかかれ、もうこれからお道筋は、どんな所の者に対 しても危ないことはない(62)。今まではうちの者にもいろいろ と心配をかけてきたが(63)、明日からはをやが「一はな」出る と言われています。「一はな」は大阪弁で「いちはなだつ」、先頭 に立つの意。真っ先に、一番先に出て「かやし」をしてやると言わ れています。
 すなわち明治二十年正月二十六日、おつとめの完成を機に、おやさま が世界たすけの先頭にたって踏み出され、よふぼくととも に親神が働らかれることを語っておられるのです。「一は なでる」という言葉にその勢いが感じられます。

 

■(86) きょうのおふでさき 《十四号 65~78》

 

  これをはなあらハれだすとゆうのもな
  めゑめゑのくちでみなゆいかける    十四号69

 

 この箇 所を前回次のように解説しました。

 さあきょ うは、神の思惑を取り次ぎを通してよふぼくに細かく言うべき 「せへつう」節、旬である(65)。何を言うのか、それは 「をやの働き」である(67)。世界の心をあらわすのである (68)。その具体例として69のこのお歌で「めゑめゑの口 で」自分のことを「ゆいかける」と言われました。自分の口で 自分のことを話するのだから誰からも文句をいわれる筋合いの ものではない。「是非はない」(70)。実はそこに「をやが 入り込んで」それぞれの口で言わせている(71)のである。 そのように親神が「入り込んで」「胸の掃除をされる(72) のである。ほこりの心を自らさんげ、告白するように親神が働 かれるのです。口先でどれほど真実を言っても聞き分けがない ので、をやがその人の「体内に入り込んで」どんなこともする のである(76)と言われています。
 この号は、「明治十弐年六月ヨリ」とありました。明治12 年頃に誌されたと考えられ、当時「こふき話」を取り次ぎに話 されていた時期だと考えられます。その上から「十全の守護」 「ほこりの教理」などが語られていたでありましょう。そんな 中で具体例として語られた内容であると思われます。

 さて、 今回も再度それをなぞる形になるが読み進めます。
 さあ、 きょうは何の話もだんだんと細かく取次に言うべき節・時期が到来して いるのである(65)。神様の話は口に出して説いて聞かさねばわから ないだろうから、どんなこともその詳細をすべて委細を説いて聞かせよ (66)。この話何のことやら知らないであろうが、おや(親神)の働 きをすべて言っておけ(67)。働きも何の事やら知らないであろう、 世界の人々のそれぞれの心をすべて現すのである(68)。現すと言っ てもわからないだろうから、当事者銘々の口で言いかける、親神が入り 込んで働かれるのである(69)。どのようなことも自分の口で言うの だから何も支障がない、是非が問われることもないだろう(70)。こ れからは銘々が言わなくても、親神が入り込んで、神の話をそれぞれの 口で言わせてその話を「しみせ」「してみせる」「実証」するというの です(71)。
 この先はこのような形で真実に胸の掃除をしてかかるのである (72)。この掃除どうしてするか、どんないけんをするかわからない (73)。どのようなことがあっても案じることはない、何もかもすべ ては親神の意見である(74)。
 口先でどれほど真実を言ってみても、聞き分けがないのは親神の残念 なことである(75)。それ故に親神が体内に入り込んでどんなことを するか知れない(76)。どれほど切ないことがあっても、それは病で はなく親神の残念の現れである(77)。この話どこのことでもない、 親神にとって人間はみなわが子である(78)

 

 

■(87) きょうのおふでさき 《十四号 79~92》

 

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる    十四号92

 

 この箇 所を次のように解説しました。。

「をやの残 念」の治め方は誰も知らない(79)だろうが、どんなことで も言うて聞かす(80)。これまでその治め方(おつとめ)を めぐって止められたり、そむかれることが多々あった(82) が、きょうの日は背きなきよう、くれぐれも頼みおく、をやが 引き受けているのであるから案じることはない(84)。それ は何のことかといえば、「つとめ・なりもの」(おつとめの勤 修)はやくほしいのである(85)。
 をやが請け合っているのであるから何も案じることはない (86)と、将来の展望を見通されてつとめの準備に勤しみ、 人衆の模様を急ぐのである(91)。心揃えておつとめをする なら世界が治まると言われています。
 思えば、元治元年以来長い年限をかけておつとめを教えてこ られ、明治10年からは鳴物を教えられて明治13年には鳴物 を揃えたおつとめが初めてなされて、その完成に着々と歩みを 進められている最中の話ということになります

 真実の 親神の残念が出たら、その治め方を誰も知らないであろう(79)。誠 真実があるならば、それを治めるためのどんなことでも言って聞かせる (80)。どんなことを言うやら知れないが、それに背けばすぐに退 く、親神の守護がなくなってしまうぞ(81)。これまでは何をしても 止められて、親神の働きがなくなることばかりであった(82)。きょ うの日は、どのようなことをしても、何を言っても背くことのないよう にせよ(83)。この道(残念の治め方)はくれぐれも頼みおくが、親 神が引き受けるので案じることはない(84)。このこと「この道」と いうのは何の事かと言えばおつとめ勤修の道であって、とにかく鳴物が はやくほしいのである(85)、と言われて「頼まれ」て、おつとめを 急き込まれています。
 もうきょうはどんなことをしても、何も案じることはなく、みな親神 が請け合う。今までは上は何も知らないから、親神のすることを差し止 めてばかり行って意見をして来た(87)が、このたびはどんな者でも 適わない。差し止めを言ってくるようなら親神の働き、ご守護がなくな るぞ(88)。このことを早く心にしっかりと定めをつけて早くおつと めに取り掛かれ(89)、と言われました。何もかも早くおつとめの準 備を急いでもらいたい。親神の請け合いがあるから怖いことはない (90)。これを心に定めて思案して、おつとめの人衆の準備を急ぐの である(91)。早々とみなの心を揃えてしっかりと、おつとめにかか れば世界が治まるのである(92)。

 

 

 

 

10月5日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版③《第十一号~第十二号》

 

■「きょうのおふでさき」 第十一号のまとめ(5月4 日)2026/05/04

 

▼ 第十一号・(59)~(63) 

《十 一号1~16、17~32、33~50、51~64、 65~80 (5)》

■(59) きょうのおふでさき 《十一号1~16》


  どのよふな心もしかとみているで
  月日このたびみなわけるでな    十一号7

 

 おふでさきの 冒頭に、「よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたも のハないから」(一号1)と記され、「これから」「説いて聞か す」(一号3)。「これから」は天保9年10月26日から、ある いはおふでさき執筆のその時間ということになります。いずれにせ よ(神様の)話を説いて聞かせたら「わかる」ということです。
 さて、こちらのおうたに戻りますが、この一連のおうたには当然 知っておくべき背景の事情・史実がありますので、それを先に誌し ておきます。

「こかん様の身 上」について、『おふでさき註釈』に次のように誌されています。
 

 明 治五年陰暦六月十八日、櫟本の梶本家に嫁いでおられたおはる 様(教祖様の第三女)が出直されたが、当時、梶本家には、十 五歳を頭に当年生まれにいたるまで五人の子供があって、手不 足勝ちで家事万端に就て種々の困難を感じていられたので、そ の後妻としておはる様の妹たるこかん様を懇望された。しか し、教祖様は、神意のまにまにこれを承諾されなかった。とい うのは、こかん様はぢばにいんねんある方であって、この方を おぢばに留め置いて、いつまでも親神様がたすけ一条の上に御 用をおさせになる思召だったからである。
     然るに、側々の勧めもあり、且つその困っておられる有様も、見ているに忍びなかったので、当時戸主であった秀司先生及び本人のこかん様も、遂に人情にほださ れて、梶本家へ赴かれた。しかし、神意のこう遠は人意を以て 計かり難く、その後、明治八年こかん様は身上に重いお手入れ を受けられ、益々容態が悪くなったので、ここに初めて神意の 厳として動かすべからざるを悟られ、遂に意を決し病を冒して 教祖様の許へ帰宅されたが、時あたかもお屋敷の門屋新築の件 に閑し、教祖様が奈良監獄へ二十六日から三日間御苦労下され たのを合図立て合いとして、そのお留守中の陰暦八月二十八日 三十九才を一期として、遂に出直された。

 胸先に 厳しくつかえ来たなら、それは月日親神の心の急き込みである(1)。 この先は、「一れつ」(世界の者)にはだんだんと身の内に障り(病) がつくであろう(2)。どのような障りがついても案じることはない。 神様は人間の心をいつも「しかと」ご覧になっておられて、見抜き見通 しなのでご存じのはずですが、「このたびみなわける」(4)。真実に 思う心とめいめいの思案ばかりのを思っている者とをわける(5)と言 われています。ここでの特別なこと、こかん様の身上を指して「わけ る」「わけてみせる」(6)と言われているようです。どのような心の 者も月日親神は常にご覧になっていて「みなわける」と言われます (7)。口先の追従は要らないものである。心の誠を月日親神はご覧に なっているのです(8)
 これまでいろいろと話はしていれども、本真実は未だ見えてない (9)。きょうはどのような話をしても間違ったことは言わない (10)。また一度言っておいたら、いつになっても違うことはない (11)。しかしそばの者は親神の心を世界並のように思っていずんで いる(12)。
 このたびの悩む所を月日親神の意に決しておぢばに帰るように「みな の心も」「めいめい心」に促されています(13)。一れつ(世界の 者)がこれを承知したならば、月日親神が請け負って確かにたすけをす るのである(15)。このたすけは三日目には外に出られるようになる ぞ(16)。

 

■(60) きょうのおふでさき 《十一号17~32》

 

  はなしでもをなしところでゆうならば
  なんどにんけん心なるよふ       十一号19

 

 こかん様の身 上を台として月日親神の真実を伝えようとされます。
 これまでも月日親神がおやさまを通じて話を説いている(17) が、未だ核心部分は伝え切れていないので、このたびはどんなこと もあらわすのである(18)
 信仰するわたしたちにとって、いつもどこでもその最重要の課題 は、おやさまを同じ人間のように思っているのが間違いの原因で あって、「月日のやしろ」たるおやさまをを信じることなのです。
 おふでさきは、そこここでそれを実証する話題が出てきます。十 一号19のおうたもそのひとつのように思われます。おやさまのこ とばをいつも「人間心」であるように思っている(19)が、そう ではないことをこかん様を通して、こんな仕方で試されるのです。
 みなのものをもう心ハきのどくや
  このたびところかへてはなしを     十一号20
 お やさまの話が真実であることを、おやさまの口だけではな く、「若き神」(おさしづ・31・7・14)と言われた こかん様の口を通して話して両者の話が同じことをもっ て、道理上おやさまの話が真実であると訴えられたので す。月日親神の自由自在の働きはすべてにおいてこの道理 に則っているのである(21)。
 体内へ月日が入り込んで自由自在に話を伝えているけれども、み なが承知をするというところまで至っていない(22)。この先は だんだんとことわった上で取り掛かるのである(24)。
 このたびのこかん様が悩んでいる身上は決して病ではない (25)。月日親神がその働きの自由用を知らせるために見せてい るのである(26)。それには親神の深い思惑がある(27)。こ の話は将来にかける思惑から月日が引き受けるのである(28)。 それはこかん様には元のいんねんがあるからなのである(29)。 人間創造にあたって母親(いざなみのみこと)の魂のいん ねんがある(30)から月日親神がよろづの仕込みをして 「めづらしたすけ」をするのである(31)と宣言されま した。これは一寸したこととは思 うな。「これハにほんのこふきなるのや」(32)と付け加えられ ています。

 

■(61) きょうのおふでさき 《十一号33~50》

 

  それしらずみな一れつハめへ/\に
  わがみしやんでしことばかりを     十一号43

 

 こかん様の身 上について、おやさまの言われる通りにおやしきに速やかに帰って いたら、すっかりたすけてもらえるところだった(33)のに、そ れを知らずに、おやしきに帰さずこのとこ(梶本家)で養生させて おこうと思っていた(34)。親神の思いをもっと早くに知ってい たならば、切ないこともなく心配することもなかった(35)の に、人間は思慮が浅く、月日親神の言われることが受け入れられな く、それに背いてしまったのである(36)。これからはどのよう なことでも月日親神にもたれつかねばならない(37)。どのよう なことをするにも月日親神にもたれておれば危な気はない(38) のである。このような結構な道筋を知らずにいたのは後の後悔とな る(39)。この先はまわりからどのようなことを言われても月日 親神の言われることは背いてはならいぞ(40)と諭された。
 月日よりやしろとなるのむなさきの
  つかゑてあるをなんとをもうぞ     十一号41
 このつかへ人なみなるとをもうなよ
  月日の心まことしんわ゛い       十一号42
 親神様が「やしろ」となるようにと指名されたこかん様の胸先の 「つかえ」は、「人並み」のものではなく重大なもので、親神様も 心配されています(42)。しかしそれを知らずに各人は銘々にわ が身思案で人ごとのように思って自分の仕事ばかり考えている (43)。
 こうしたこかん様の役割について、第六号57で「めい/\のやしろ もろた事なら」とあります。これは『おふでさき註釈』に あるように「つとめ人衆」のことで、「やしろ」はそうし た役割につけられた名前のようです。
 親神様はいつも子供の「怖き危なき道を案じ」(七号9)ておら れますが、子供である人間は、「みな一れつハ」「めへ/\に わ が身思案」で自分の仕事のことしか心にない(43)。月日親神に はどのような将来の道も見えているが、世界の者はそのことを知ら ずうっかりと暮らしている(44)。この道を子どもはみな思案せ よ。将来どのような道になっていくか知れない(45)。どのよう なことも先に知らせておくので、後で後悔のなきようにしてもらい たい(46)。こんなことみなの者はなぜ言われるのかと思うかも 知れないが、それは親がわが子を慈しむ上からのことなのである (47)。世界中の多くの子どもの胸の内がわかるような準備はで きないものか(48)。このようなことをくどくどと言うのは、将 来の道を案じているからにほかならない(49)。これからはどの ようなことを言われても、それを嘘と思うなとよ(50)、と注意 を喚起されています。
 わたしたちは、往々にしておやの思いと裏腹に、まるで他人 事のように事態を傍観して、自分の仕事のことばかり思っ て、わが身思案にながされがちです。それを強く戒められ ているようです。


■(62) きょうのおふでさき 《十一号51~64》

 

  どふどしてめつらしたすけをしへたさ
  そこでかゝりたしごとなるぞや    十一号52

 

 人間の「わが身思案で仕事ばかり」に対してここでは「月日の仕 事」と言われて「どふどしてめつらしたすけ」を教えて、陽気 づくめの心に導かれようとされます。そして当時病んでおられ た秀司先生の話題を移して、秀司先生もこかん様もそれぞれの 立場・役割を納得させて通そうとされています。
  とにかく親神様は「めつらしたすけ」を教えようと、遠い将来 を見据えておられます。当時すでに秀司先生は55歳、「今年 から七十年は夫婦とも」、つまり秀司先生125歳、まつゑ様 は95歳になるまでを約束されていたのです。「そこでかゝり た仕事」であると述懐されたのです。


 このたびの月日親神の仕事について、人間にとって悪しきことはしな い(51)と宣言され、何とかして「めつらしたすけ」を教えたいので ある。その上からかかった仕事なのである(52)。今までとすっかり 心を入れ替えて「陽気づくめの心」になるよう促されます(55)。そ れではどうのようにしたら陽気づくめの心になると思うか。月日親神が 体内に入り込んで胸の掃除をしたら自ずから心が勇むようになる (56)のである。この話は世界をたすけるための準備の一環なのである(57)。
 月日親神は日々におこるどのような事例もすべて見ているので、何を 言うてもみな承知をしてもらいたい(58)。今年から七十年は夫婦と も「病まず、弱らず」暮らせるのなら(59)、それ以上の楽しみはな かろう。それを誠と思って楽しんでもらいたい(60)。
 月日親神は、今までどこにもないことばかりを言って聞かせるからそ れを承知して聞き分けてもらいたい(61)。このうようなないことば かりを言うけれど、先を見ていよ、言った通りに成ってくるからすべて 真実なのである(62)。何分にめづらしいことをするのであるから、 どのような話もこれまでにないことばかりである(63)。どのようにないことばかり言ったとしても、それが将来、先に なったら必ず現生する、成っているのでそれを見よ。それが不 思議である。

 

■(63)きょ うのおふでさき 《十一号65~80》

 

  このよふのはじまりたしハやまとにて
  やまべこふりのしよやしきなり    十一号69

 

 きのう のおふでさき(十一号52)の話のつづきになります。こかん様や秀司先生の身上を話の台にして、この道の元一日を 「大和郡の庄屋敷」であると告げられ、さらに「中山氏という 屋敷」に人間はじめの道具の魂を見出して、それを「見澄まし て天降り」、その道具にそれぞれの役割を配して「こふき」と なしてそれを世界へ弘めていくという思召が説かれます。

 いま悩んでいることは辛いであろうが、これから先は楽しみの道に出 る(65)。このような話をくどくどと語るのも、これが末代のこふき となるからのことである(66)。月日親神がここ、元のやしきに現れて話をするのは(67)、こ のことを世界に知らせて、にほんにこふきを拵えるためである (68)。
 この世の始まりだしは「山辺郡の庄屋敷」である(69)。その中山 氏のやしきに人間をはじめたとき道具となった者の魂が見えている (70)。この道具というのは、いざなぎ、いざなみ、くにさづち、月 よみのみことであって(71)、その魂を見澄まして天降り、よろづを 仕込む準備をしているのである(72)。それらはすべて何をするのも 月日親神である(73)。側なる者が真似をしようとしてもそれは出来 ないだろう(74)。
 こ の世をはじめてからきょうまでに月日親神の本真実を言ったこ とはない(75)。きょうの日はどのようなことも真実を言わ なければならないようにようになるので(76)、めいめい各 自が言うのではなく月日親神が思っているように言うのである (77)。何時にぢば・親里に帰ってきてもめいめい(各自) の心があるとは決して思うな(78)。
  どのような者も芯から得心をさせてぢば・おやさとに連れて帰 るのであるから、これを見てみよ(79)。どれほどの剛的も 発明(利発・聡明)なものも月日親神の心にはこれはかなわな い(80)、と語られてこの号を締めくくられています。

5月20日(水)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(12)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第十二号のまとめ(5月 20日)2026/05/20

 

■ おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十二号・(64)~(74) 

《十 二号1~13、14~30、31~46、47~61、 62~84、85~104、105~122、 123~135、136~156、157~169、 170~182 (11)》

 

■(64) きょうのおふでさき 《十二号1~13》


  くちさきでゆうたるまでハたれにても
  たしかしよちをするものハない    十二号10

 

 きょうから は、月日親神は世界中の人々の心を見定めて胸の掃除にかかるので ある(1)。月日親神はいつでもどこでも人間の心の内をご覧に なっておられて、どんな心を使って日々過ごしているのかご存じな ので、内も世界も隔てなく、めいめいの各人各様の心の通りにすべ てあらわすのである(2)。
 今まで神の残念な思いが人間の胸の内に積もっていて(3)情け ない状態である。そして日柄も未だ来たらんので、どのようなこと も言うに言われない(4)。月日親神はその状態を真実に見かねる ので、この度は見るに忍びないので、どのようなことものほこりが 目に見えるような形に現して、掃除をするのである(5)。きょう の日はどれほどわが身がはびかって気儘にしても月日親神の働きが 退くことになる(6)。
 この話は、「にほんもからもてんじく」(7)、すなわち世界中 で月日親神が働かれるということです。世界中で胸の掃除に働かれ るからそれを承知するようにと言われます(8)。これまでもその ことは精一杯にことわってきたことである(9)しかし口先で言っ ただけではそれを確かに承知する者はいない(10)。
 これまで月日親神は精一杯につくしているが(11)、世界はそ れを知らないので、このたび是非なく、ことわりた上で「月日しり ぞく」、親神の働きがないようにする(12)。それを見せて心を すまして神の話がわかるようにして、心が勇むように導かれるので す(13)。

 

■(65) きょうのおふでさき 《十二号14~30》

 

  この木をはやくつぎたいせきこみで
  月日のむねがつかゑきるなり     十二号16

 

「よふ木 のはぢめ」(14)とはよふぼくを集めること。そして一本のよふぼく が元になってそこから枝が八本に増えてたくさんになるのです (15)。そしてその木を接ぎたいとの思召で、親神様の胸がつかえて いる(16)。人間の心の成長を接ぎ木に例えて話されているのです。
 接ぎ木によって人間の心の成長が画期的に進捗する(17)との思召 です。とにかく月日親神が言われることをしっかりと聞いて上で、各人 の心に定めをつけることが肝要です(18)。そのようなところに至る と身の内の悩みもすっきり解消して、心がだんだん勇むばかりの状態に なる(19)。そうした経緯をみな知らず世界なみの考えでものを言っ ているのである(20)。このところ(おやさま)の発言は決して世界 なみではないのであって、月日親神の心ばかりであることを承知せよ (21)。

 むかしわが家の庭に渋柿の木がありました。祖父はその木を根本から 切って、そこに土を乗せてその土に甘柿の枝を刺して(挿し木)で接い だのです。接いだ枝に実った柿は甘い柿でした。そのように親神様の思 いにそった、神一条の心の定まったよふぼくを接ぎ木によって増やした いとの急き込みで胸がつかえているのです。

「今日の月日の心」(22)の読み方は「こ んにちの」と 読むことが多いようですが、事例に則して考えると「きょ うのひの」 と発声するのがいちばんぴったいりすると思います。


 きょうの 日に至って、月日親神の心の残念は容易なことでないと思え(22)。 人間はあざない(浅はか)なものであるから、月日親神のすることを 知っている者はいないのである(23)。月日親神はこれまでも事前に ことわっていることを承知しているか(24)。いままでも月日親神の ざんねんな思いを口説き詰めている(25)が、世界にはそれを知るも のはなく、月日親神の残念な思いを見てみよ(26)。このたびはこと わったその上での口説き、その上のことわりである。ことわったことは その教理を踏まえて見たなら、見えてきている筈です。それを見て、聞 き分けてほしいところだが、聞き分ける者はない(28)。それ故にだ んだん日柄(時間)が経つが、なかなか「これが真実だ」と分かるとい うことがない(29)。きょうの日はもうその節(旬)が来ているか ら、月日親神が出かけてむねの掃除をすることをみな承知せよ(30)

 

■(66) きょうのおふでさき 《十二号31~46》

 

 にち/\に なにをゆうてもそのまゝに
  みゑてくるのがこれわふしぎや    十二号32
 

 

 この箇 所を前回次のように短くまとめて記述してますので、それを再掲してお きます。

 

 お ふでさきは、「この先の道のすがら」を言って聞かせると宣言 され、本格的にその働き、「不思議」(32)な働きを開始さ れます。どのような働きかはわかりませんが、「一寸のことで はない」(34)とか「まこと気の毒」(35)だと記されて いるので、人間には都合の良くない悪いことのようです。しか し現れる前に「先に知らせておく」(39)ので、その働きが 見えてきたら「心が勇む」(44)「陽気づくめ」(45)で あるから承知せよ、月日たのみ」(46)であると言われてい ます。

 

 きょう、改めてその内容を精読します。
 これから先の道すがらは人間にとってどんなものになるのかを語 られます(31)。月日親神が言われることはそのまま成って来 る、見えてくるのが不思議である(32)と思うだろう。親神はど のようなことを言われるか知れないが、あらかじめことわりた上で 注意をされるのである(33)。ことわりも一寸のことではなくど んなことが成って来るか、見えてくるか見当もつかないだろう (34)。どのようなことが見えてくるかわからないが、親神は気 の毒に思えるようなこともある(35)。いつそれが見えてくるか わらないが、月日親神の心は積みきっている、切羽詰まっている (36)。このような月日親神の心配を側なる者は何も知らずに (37)、各自の仕事のことばかり思っているが、その神の働き、 かやしが見えてきたならば文句もかわるであろう(38)。どんな ことも先に知らせておくから、後で後悔することのないようにせよ (39)、と注意喚起されています。
 この世をはじめた神であるから、いまの世界で生起していること もすべて見えてある(40)。このたびはその時が迫って抜き差し ならない状況にある(41)。いままではまだ余裕があってじっく りとしていたが(42)、きょうの日はもう横目ふる間もないので 油断することのないように。何時にどんなことがおこってくるやし れない(43)
「今まで筆に付けたることわり」、つまりおふでさきのなかでこれ までに誌してきた諸々の予告した話が、今まさに見えてきたのであ るから、心勇むであろう(44)。これさいか見えてきたならば、 どんな者でも陽気づくめになるだろう(45)。この月日親神の心 をどうぞ早くに、一れつは承知してもらいたい。それが月日親神の 頼みである(46)。


■(67) きょうのおふでさき 《十二号47~61》

 

  このさきハなんほむつかしやまいても
  いきとてをどりみなたすけるで    十二号50

 

 きょうからは めずらしいことを言いかけるが、それについてはどのような話であ るかちょっとに知れないだろう(47)。しかし月日親神が何を いってもそれに背くようなことはしてはならない。深い思惑があっ てのことである(48)。今後の話は山のようにあるが、神の残念 をはらす準備にかかる話である(49)。神の残念として現れてく るものがどれほど難しい病であってもいきてをどり(おさづけ)で たすけるのである(50)。どれほど難しくなる病でも、これは直 らないというようなものはない(51)。しかしきょうまでは日柄 も刻限も到来していなかったので、違いもあった。すなわち見えて なかった、実現していなかったこともあった(52)のだが、今後 はだんだんとどのようなことも説いておく。どんなことでも、その 通りになってくるから違うということはない(53)。
 これまでの道すがらは、まこと難渋なみちであったけれども (54)、これから先の道は気が勇む道となる。どんなめずらしい 道があるやら知れない(55)。とんとんと飛び出るようなこと (月日親神が世界で働かれている姿を表現したもの)を見ても、そ れは月日親神が先に予告したものであるから何も案じることのない ように(56)。その後のことは月日親神がすべて引き受けていつ までも陽気づくめにしていく(57)。
 今まではどのような話をしていても、それがいつ実現するのかと 思っていた(58)が、その話を聞くより早くその働きがもう見え てきた。どんなことでも油断できないぞ(59)。この先は日々に 心を勇める。どんなことでも口に出して言えばそのまま見えてくる ようになる(60)。どれほど難しくなるように見えたものでも、 陽気づとめでみなたすけると言われています。つまりめずらしいこ ととして、前段ではおさづけで、後段ではおつとめでたすけるとい うことです。『天理教教典』第二章「たすけ一条」に誌されている ことが説かれているのです。

 

■(68) きょうのおふでさき 《十二号62~84》

 

  このはなしとこの事やとをもうかな
  高いところでみなあらわすで     十二号75

 

 この箇 所を前回次のように短くまとめて記述してますので、余計な部分も含め て再掲しておきます。

 おふでさ きを毎朝拝読させていただくと、神様の話はくり返しが多く て、またこんなところでこんな話が語られているのかと感じて しまいます。
 たとえば、この第十二号は、胸の掃除(1)、あらわす (5)、しりぞく(6・13)、出かける(30)、残念をは らす(49、63)、高いところでみなあらわす(75)とい うように、これまで語られてきた事柄がくり返し述べられてい るようです。当然それは意図的に行われているのですが、とに かく「どうしてなりと知らしたい」(84)という思いが込 もっているのです。
 しかしそれは単なるくり返し、反復ではありません。注意し て読むと、反復しながら少しずつ話が展開していることに気づ くでしょう。それまで語られていなかった新しいテーマ、新し い景色が加わっていくのです。
 この75のおうたもそれを示す貴重な存在だと思います。 「高いところ」というのがキーワードでしょう。第七号 (62)に始まって、第八号(88)、第九号(21)、そし てこの第十二号で反復、展開しています。
 芹澤茂先生はおふでさきのこうした話に注目して「反復と展 開」(『天理教学研究』第16号所収)を誌してくださってい ます。くり返しの意図するところは、話の「深化と純化」にあ るようです。

 さて、 今回もこの拝読部分を精読してみます。
 これから月日親神がどんな仕事をするか、心次第にどんなこともする (62)、と言われ、残念に思われているどんなことでもすべて晴らそ うと思っている(63)。どのようなことを言うのもすべて月日親神で あって、どのような仕事をするか知れない(64)。
 おやさまには、どのようなことが見えてくるのもみな月日親神の働き によるのであるから、そこに人間心があるとは思うな(65)。きょう からはどのようなことも急き込んで、どのような働きをするや知れない (66)と言われて、おやさまの立場の説明を、人間の心と身体(口) たとえて説明されます。
 おやさまは、口は人間、心は月日親神である(67)。おやさまの口 は月日親神が借りて、おやさまの心は月日親神が貸しているのである (68)。ちょうどかしもの・かりものの教理の心と身体の関係を逆に なっていると説明されています。このことを疑ってかかるならば、月日 親神がかやしをして疑いを晴らすのである(69)。
 とにかくおやさまの口で言うのはすべて月日親神が言っているので あって、人間心が混じることはない(70)のである。おやさまが仰せ になることはどれほど難しいように思えても、月日親神が引き受けてい るのだから案じることはない(71)。これから先の道を楽しめ。神の 残念を晴らしたら(72)、胸の掃除にかかったならばどんな者でもに ほんのものに適うものはない(73)。この掃除は月日親神が体内に入 り込んで働く(掃除をする)のである(74)。この話はどこの話か言 えば、高い所(高山)や遠い所(遠国)の話(布教伝道の場面)なので ある。月日親神が高山や遠国に出向いて働かれるのである(75)。
 月日親神が言っていることをよく思案せよ。何を言っても違うことは ないのである(76)。世界中一れつの心をすましたいから、どのよう なことを月日親神がするかわからないだろう(77)。月日親神の心は 常にたすけたいとの思い一条なのである(78)。この先を確かに見て いよ、胸の掃除がひとりでに出来る(79)。この掃除がすっきりした ならば、そのまますぐに守り拵えをする(80)。《おつとめによって お守りを拵える、その準備にかかるということのようです。》
 この道(胸の掃除)を月日親神の心日々に急き込んでいるが、誰も知 らない(81)。この道に早く着手したならばどんな者でもみな勇む (82)。この話は誰がするとは思うな。月日親神の心ばかりで言って いるのである(83)。この世の真実を世界中へどうしてなりと知らし たいからである(84)。

 

■(69) きょうのおふでさき 《十二号85~104》
 

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら     十二号93

 

 前回こ の箇所を次のように掲示しました。

 ここでも これまで語られたことを反復されながら、新たな展開が見られ ます。
 これまでは「日を延ばし」「しかえていた」(85)が、 「日が詰まりきるから」「残念立腹」を現す(87)。それを 見て「心しっかり入れ替えて」(91)。「人をたすける心 (たすけ一条の心)」(90)になったら、「世界中は、よろ づたがいにたすけする」(93)「どんなたすけもする」 (94)それは「にほんの一のこふき」となるのです、との展 開になります。

 きょう までは一日なりと言って日を延ばしてどんなことでも控えてきた (85)が、このたびは日が詰まってきたから、これまでのように控え ることはできない(86)。いつ何時にどのようなことを聞いても、そ れは月日親神の残念立腹である(87)。月日親神にとってはどのよう な者もわが子であって、かわいいばかりの思いをもって見ているのであ る(88)。
 またいままでは世界中は一れつにめいめい各自が思案をしてはいるの である(89)が、情けないことに思案はしていてもわが身思案に留 まっていて、人たすけるという心がないので人だすけができない (90)。これからは月日親神の頼みであるから、一れつハ心しっかり 入れ替えてくれ(91)。そして世界をたすける一条の心にすっかり入 れ替えてほしいのである(92)。
 この先は世界中が一れつに「よろづ互いにたすけする」なら (93)、月日親神もその心を受け取ってどのようなたすけもすると思 え。ここで言われている「互いにたすけ」は、世間で言っている「相互 扶助」「困ったときは相身互い」などと言われる倫理的なレベルの扶け 合いではなく、月日親神のたすけの思いを体して人をたすけること、要 するに宗教的なレベルの「にをいがけ・おたすけ」なのである。月日親 神にはその心を受け取って、どんなたすけもすると思え(94)。この たすけはどういうものかと思うであろうが疱瘡をしないように確かに請 け合うものである(95)。また農作物いつも豊作となる道をも教えた いのである(96)。このような道を早くに教えて仕込もうと思ってい るが、一れつの心にそれがわからないので困っているのである (97)。世界中どこにも隔ては無いのだが、一れつはそれをしっかり 思案してくれるよう(98)。
 真実に心に定めがついて、神の言うことに背きがないようになったな ら(99)、月日親神がその心をしっかりと受け取り次第、たすけを急 き込む(100)。
 このたすけは一寸のこととはおもうな、これはにほんの一のこうふき である。「にほんの」とあるので布教伝道に携わる側(うち)の話であ るから、おつとめによるたすけを急き込まれているのである。おつとめ によってその働きをしっかりと見せたなら、どれほど高い所(社会的地 位が高い場所にいる者)にも納得を与えられるだろう(102)。これ は人間業でない。月日親神の自由用自在の働きであるから背くことはで きないだろう(103)。であるからどれほど高山であっても、親神と 同じように真似をすることはできないと思案してみよ(104)。

 

■(70) きょうのおふでさき 《十二号105~122》

 

  ねんけんハ三十九ねんもいせんにて
  しんばいくろふなやみかけたで    十二号119

 

 前回こ の箇所を次のように掲示しました。

 証拠を示 して心をすます→そして神の話がわかるようにしたいとの仰 せ。「三十九年以前」(119)すなわち天保九年の立教の きっかけとなった秀司先生の足の悩みにまで遡ることになりま す。それ以来長い間心配、苦労、悩みをかけてきたので、秀司 先生にしてみれば、人間的な理解を超えた神の話ですから、そ れを疑っているのは「これ無理でない」(120)であろう。 この度はその胸の内をすきやかに晴らすと言われています (121)。

 きのう の夕方は少し暑さが和らいだように感じたので、思い切って教会玄関前 の除草をしました。しかしいざはじめてみると、やっぱり地面から放射 される熱には閉口、さらに蚊取り線香をつけていましたが、蚊ものがれ られず、40分くらいでギブアップ。また続きは後日に先送りしてしま いました。暑さには耐えられませんでした。気長にやります。
 オーディブル(茂木誠著「日本思想史マトリクス」)を聴きながらの 作業はなかなかいいですよ。活字を追っかけるより楽です。目の疲労も ないし、朗読のプロですから実に聞き取りやすい!

 この箇所の最初は、おやさまの話の真実性、人間心がない点を指摘さ れます。
 月日親神は、おつとめによって、病まず死なず弱らないという不思議 な証拠(働き・守護)を見せたいと思っている(105)が、一れつ誰 もが、それを疑って世界並と思っている(106)。おやさまの話に人 間心が全くなく、月日親神が思っていることばかりである(107)。 このことは誰も知らないことであるから分からないのが親神の残念であ る(108)。そこでこの一れつの心を真実にすます方法はないものか (109)。心がすめばむね(話)がわかるので、そうなればすぐにで も証拠を出すのに(110)、と言われています。
 今まではどのような嘘も聞いていたが、もうこれからは嘘は聞かない (111)。これからは嘘言ったならば、その者が嘘になる、親神の守 護が頂けなくなることを承知しているのか(112)。月日親神は、嘘 と追従は大嫌いで、そうなれば「月日しりぞく」つまり親神の守護がな くなってしまうぞ(113)。(ほこりは心づかいだが、嘘・追従は行 いですから後から見ればだれにも見えてしまうものです。心のほこりの ように掃除で解決できない点を指摘されたものと考えられます。)それ 故に一日なりと日を延ばして、大抵見許していたのである(114)。 このたびは、早く証拠を出したいと言っているのをどのように思ってい るのか(115)。証拠もどういうことと思っているのか。証拠は試し であって、身の内で試しをかけておいて、それが実現すれば証拠となる のである(116)。この試しとは秀司先生の足に示された身上のこと を言われているようです。月日親神のこの試しへの残念な思いは容易な ことではないと思えよ(117)。身の内にどこに不足のない者(秀司 先生のこと)に月日親神がいがめて苦労をかけた(119)。年限は 39年も以前の話であって、心配苦労悩みをかけたのである(119) それ故に月日親神の言うこと、何事も疑っているが、それは無理ではな いことである(120)。このたびはこの胸の内をすきやかに晴らすこ とが第一である(121)。秀司先生の心を月日親神の方へつけないこ とには、どのような話も先へ進めることができないだろう(122)。

 

■(71)きょ うのおふでさき 《十二号123~135》

 

  けふの日ハよこめふるまもないほどに
  はやくしよこふだしてみせるで   十二号124

 

 前回こ の箇所を次のように解説しました。

 このおう たの冒頭の部分(けふの日)について、「今日の」(22)で 言及したかったが別の話題になってしまったので、ここで書き ます。22の「今日の」の拝読の仕方は、ローマ字版は「こん にちの」になってます。でもこの読み方はおふでさきでここだ けです。「今日」という表記もこれのみ。声に出して読むと 「こんにちの」は違和感が拭えませんね。むかしから話題に なっているところです。渋谷陽一「拝読私考」『求道』第24 号所収)で、「きょうの日」が自然だと指摘されてます。わた しもこの箇所(22)は、124のように「きょうのひ」と読 んでいます。
 「証拠を出して見せる」(124)、これを見たらどんなも のでも得心せよ(125)、口でいうようなことではなく (126)、証拠を見れば自ずから神の話が信じられるように なると言われています。
 さらに「この世の人間元を世界中に知らしておいたら、どん なたすけもする」(129・130)、この「一事」で「みな たすける」とまで言われているのです。そしてその「芯」は 「むねのしやん」にあって、「胸と口」(内心と言動)がひと つであることが神の心にかなう条件なのです(134)。心を すますのに、「すいのとすなにかけてすませ」(三号11) 「むねとくちとがすなとすいのや」(三号11)と諭されてい ます。

 秀司先 生の足の悩みは親神の試しであってそれを納得させるためにその胸の内 を晴らしていくと言われて、以下の話に続いています。
 いかなることをするのもみな月日親神であるだが、こんなことは誰も 知らないだろう(123)。「けふの日ハ」(前回この表記・読み方に ついて言及しています)、横目ふる間もないほどに素早く証拠を出して 見せる(124)。つまり秀司先生の足の身上が試しであることを知ら せて、それをおつとめによってたすけるという証拠にするとの思召であ る(125)。これを見たらどんな者でも得心するだろう。何の話もみ なこの道理(証拠を見せて信じられるようにする)で話をわからせるの である。いままでの残念(おつとめによる証拠が出せないこと)は、口 で言うようなものではない(126)。
 今まではやまやまの残念の道を通り抜けてきたが、このたびはこれを 何とかして晴らしたい(127)。その後はどのような病もおさづけ で、いかなることもおつとめによって、みなたすける(128)(たす け一条)。そこで「この世の人間元」(神の話・こふき)を世界中に知 らせておいたら(129)、それからは世界中でどんなたすけもする。 ひとことでたすかる道(話一条)を示していく(130)。
 これまではだんだんとくどいと思われるようなことわりを言ってきて いるが、芯がわからない(131)。この芯とは胸の思案であって、こ れが最も大事なことなのである(132)。何にても胸(心)と口(行 い)とが違っておれば、神の心に適うものではない(133)。その真 実が神の心に適わぬのであれば、どれほど心をつくしても思いは成就さ れない(134)。こればかり誰と相談しても適うものでなく、月日親 神の働きも退かざるを得ないでしょう(135)。

 

■(72)きょ うのおふでさき 《十二号136~156》

 

  このさきハよせたどふぐをみハけして
  しこむもよふをいそぐばかりや   十二号147

 おつとめ の人衆につては、これまで「月日見分けて引き寄せる」(十号 36)と言われて、ここでそれを具体的に人間をはじめかけた 道具の名をあげて「寄せる」、その資質を「見分け」て、「仕 込む」模様・段取りを急ぐ(147)と言われています。仕込 むというのは道具の質を高めて、その役割が全うできるように 調整すると言われています。「年は十一、二人いる」 (148)と言われるのは前川菊太郎と初代真柱のこと (149)で、前川菊太郎は後に謀反を引き起こします。よい 魂、優れた資質を持っていても与えられた立場にふさわしい仕 込みがなされなければ、役割を全うできない場合もあるので す。

 親神の真実の 話をよく聞いて、その芯についての思案を乞われていました。以下 その具体例を語られます。
 何もかも神の言うことをしかと聞け。何を言っても違うことはな い(136)。真実にめずらしいたすけを教えたいからどのような ことも言うのである(137)。この世をはじめてからまだないこ とを教えたい(138)。この世の本元の真実をしっかりと承知せ ねばならない(139)。この元をしっかり承知している者はどこ の者(にほんの者以外には)いないだろう(140)。
 このたびはその本真実を言って聞かせるから、何を言うてもしっ かりと承知をしてもらいたい(141)、と言われて、元初りのい んねんあるこのやしきに、そのときの人間はじめの道具を見出され る話を述べられます。
 このやしき人間はじめた道具は、いざなぎみことといざなみみこ とである(142)。月よみ・くにさづち・くもよみとかしこねの みことの名を授けられた者のが第一の道具である(143)。それ からをふとのべのみことは立毛(農作物)を守護する働きの第一の 道具である(144)。次はたいしょく天のみこと、これは世界の ハサミ、切る働きを司る道具である(145)。これまでこのよう な道具をみな寄せてどのような道も通り抜けてきた(146)。こ の先は寄せた道具を見分けして、すなわちその働きに相応しい道具 の資質(いんねん・心)を見分けしてその上で仕込む模様を急ぐの である(147)。この者は歳は十一歳、二人いる(148)。こ の人(にん)は人間を始めかけたいざなぎのみことと立毛(農作 物)を守護する道具・おふとのべのみことである(149)。
 きょうの日はどのようなことも言うが、何を言っても承知してく れ(150)。今までも神の思惑はいろいろとあったが、その日が 来ていないので控えていた(151)。しかし今だんだんとその日 が迫ってきているから、どんなことでも言っておく(152)これ まではどこの人でも同じで、親神が何を言ってもみな疑っていた (153)。しかしこのたびは本真実であるから、これに背いたら すぐにかやしをするぞ(154)。
 世界には雨がほしいと思ってもその元がどこにあるのか、何なの か誰も知らないだろう(155)。この元をしっかりと言っておく から、どんなことでも承知するなら雨も降らしてやろう (156)。

 

■(73) きょうのおふでさき 《十二号157~169》

 

  このよふわ神のせかいとゆいながら
  どんな事でもしんわしらんで    十二号158

 

 前回(7月 12日)この箇所を次のように解説しました。

 この世は 神の世界であると言っているが、「しん・神の話」がわかって いないと指摘され、この「しん」(神の話)を「真実してみせ る」と言われて「どんなことでもみなあらわす」と説明されて います。「ゆめをみる」のも「まことみる」のも親神が働きで あることを承知せよ。「体内にこもりいて」「夢をみる」 (163)のは身の内の話、「水の元なること」(164)は 世界での親神の働きです。現在、親神の十全の守護を身の内の 働きと世界での働きにわけて説き分けられているがここにその 原型をここに見いだせるかも知れません。「天理教教典」に記 載されている「身の内では…」「世界では…」という説き分け は、このように教えられていたのでしょう。

 きょうの日は この世を初めてより説いたことのない話であるから、何を言っても よくこれを聞いてくれ(157)
 この世は神の世界と言っているが、どのようなこともその話の 芯・真実は知らないだろう(158)。その芯の話、真実をしてみ せるから、それを見たならば、すべて得心するであろう、得心して もらいたい(159)。この世界にあって、何をするのもみな月日 親神であり、何を言うのもみな月日親神である(160)。このた びはその月日親神がこの世はじめてないことをどんなことでもみな 現すのである(161)。すなわち月日親神は人間の体内に籠もっ ていてどのような仕事、働きをするか知れない(162)。たとえ ばどんな夢を見るのも月日親神の働きであり、思いがけないような こともすべて月日親神が身の内で働かれているのである (163)。
 また一方、この世の水の元がなにであるのかといった話もこれま で言ったことはない(164)。このたびは世界で働く親神のこう した姿を見せて話をするのである(165)。このたびはその本真 実の水のことを確かに言うのであるが、世界並の言い方では言うこ とができない(166)。
 きょうからはどのようなことも言いかける。何を言ってもしっか りと聞いてもらいたい(167)。日々に高山からはいろいろなこ とを頼み尋ねて来るであろう。それに十分対応するような話をしよ うと思っている(168)。そのようなことが見えてきたてもこの 話を承知していたら心配もなく、危ないこともないのである (169)、と諭されています。

 

■(74) きょうのおふでさき 《十二号170~182》

 

  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで   十二号172

 

 前回(7月 13日)この箇所を次のように解説しました。

 めいめい の心、身の内(体)についてどのようなことでもしっかりと現 す(171)。それを見たならどんな者でも真実に、胸の掃除 がひとりでにできるようになる(172)。「あらわれだして みなしてみせる」、それを見たらおやさまから聞いた話がその まま心に治まっていく(173)と説明されています。「たが いたすけ」の場面での諭し合いが話されているのです。「たが いたすけ」というのは人間同士が諭しあってたすけあう、「話 の理でたすける、たすけあう。「話の理でたすける」という形 が示されたのです。(「互い扶け合いというは、これは諭す 理」おかきさげ)
 体内に何があるやら、知るものはない(174)。この話は 月日が働く仕事であって、それを見てみよ。それぞれの心次第 に何をするかわからない(175)。
 きょうの日は誰もが世界並であるが、明日からは、しんの心 が現れてくる(177)。そうしたらだれもそれに背くことは できないだろう(178)。どんなものでも頭傾げて思案する ようになる(179)。月日の心に背かぬよう心に定めがつい たならば、どんなたすけもしよう。(180)

 きょう の日は何の話をするかわからないであろうが、どんなことでも承知して 聞いてもらいたい(170)。めいめいのこころ通りに身の内にあらわ す(171)。それをみたらどんなものでも、真実に胸の掃除が自ずか らできるようになる(172)。このたびはどんなことでもすっきりと こころ通りにあらわして、みなして見せる(173)。体内に何があっ てそれぞれどんな働きをしているのか知っている者はいないだろう (174)。この話は月日親神が身の内でどのように働かれているか、 仕事をしているかを見極めよ。それぞれの心次第に何をするやらわから んであろう(175)。
 前回(7月13日)に書いたが、ここは「たがいたすけ」の具体例の 話のようです。たがいたすけは人間同士が教理をもって諭し合うもの で、倫理的な相互扶助とは別次元の話である。神の話を媒介にしてその 話の理でたすける、あるいはたすかるので、たがいたすけと言われたの であろう。
 きょうの日はだれもみな何も知らない世界並の状態であるが (176)、明日になればどういう道になるだろうか、芯の心が現れて くるだろう(177)。この心が現れ出たならば、月日親神の心に背い て通ることはだれにも出来ないだろう(178)。これを見たらどんな 者でもどうにもならないので、真実に頭を傾けて思案をするであろう (179)。このように心さえしっかりと月日親神の言うことに心の定 めをつけたならばどんなたすけもしよう(180)、と言われます。
 この話は月日親神の心ばかりで言っている。そこには人間心があると は決して思わぬように(181)。このことを一れつはみな、真実と 思って月日親神に頼めばどんなことでも適うだろう(182)、とこの 号を結ばれています。

 

 

10月5日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版②《第六号~第十号》

 

■「きょうのおふでさき」 第6号のまとめ(2月7日)2026/02/07

 

#「おふでさきを読む」第六号 (30)~(37) <2026/03/09>

《六 号1~16、17~31、32~54、55~74、 75~87、88~103、104~117、118~134 (8)》

■(30)きょうのおふでさき 《第六号1~16》 


  なにもかもあきをあいづにみへかける
  よふきづとめにはやくかゝれよ     六号13

 

 おつとめの話 をつづけられます(17)。おつとめ人衆十人の心を神が受け取っ たなら思惑を説き聞かす(18)。とにかく十人が揃わねば始まら ない(20)そしてそれぞれが成って来ることを通常の病などとは 思わず(22)、神の思惑として受け止めて心すませていくことを 望まれています。
 これまではいろいろな道を通ってここまで来たが、まだ日が来た らずいずんでいた。この先は本真実を言って聞かす(25)。これ までの道は「拝み祈祷」の道であった(26)が、その元はだれも 知らなかった。これからはその元、元初りの真実を教え、よろづた すけのおつとめによって(29)たすけの道(ほんみち)へと展開 していく。おつとめの人衆の中に元初りのをやがいる(30)ので ある。元初りの話が「つとめの理話」と言われる所以が説かれてい ます。

 

■(31) きょうのおふでさき《六号17~31》

 

  しんぢつのつとめの人ぢう十人の
  心を神がうけとりたなら       六号18

 

 おつとめの話 をつづけられます(17)。おつとめ人衆十人の心を神が受け取っ たなら思惑を説き聞かす(18)。とにかく十人が揃わねば始まら ない(20)そしてそれぞれが成って来ることを通常の病などとは 思わず(22)、神の思惑として受け止めて心すませていくことを 望まれています。
 これまではいろいろな道を通ってここまで来たが、まだ日が来た らずいずんでいた。この先は本真実を言って聞かす(25)。これ までの道は「拝み祈祷」の道であった(26)が、その元はだれも 知らなかった。これからはその元、元初りの真実を教え、よろづた すけのおつとめによって(29)たすけの道(ほんみち)へと展開 していく。おつとめの人衆の中に元初りのをやがいる(30)ので ある。元初りの話が「つとめの理話」と言われる所以が説かれてい ます。

 

■(32) きょうのおふでさき 《六号32~54》

 

  にんけんをはぢめよふとてたん/\と
  よせてつこふたこれに神なを      六号51


 無い人間無い 世界を創められたその詳細を改めて説かれています。この世の元初 りは泥海のような無秩序で混沌とした状態であったが、そこに親神 の働きによって「うを」と「み」を見出し引き寄せて夫婦をはじめ られた(32)。泥海のなかに「どぢよ」ばかりのように見えた が、その中によく見澄ますと人間の顔をした「うを」と「み」が見 出され、親神は人間を創ることを思いつかれました(35)。そこ で人間を創るのに必要な道具を寄せてそれに守護を教えられた (36)。その道具は「にくさづち」「月よみ」(37)、「くも よみ」と「かしこね」「をふとのべ」「たいしよく天」とを引き寄 せて(38)「たしか世界を初めよ」と「神の相談しまりついた」 と語れています。いわゆる「六台はじまり」が説かれています。お さしづで、教会での、をてふりの人数について伺われた際、「六だ い一つの理、それより理を始める」(22・5・25)と言われて います。
 とにかく人間創造は「なみたいていな事でない」(40)「なに をゆうのもむつかしき事」(41)であると言われたのです。
 この世始めた真実の話はだれも知っている者はいない(42)。 これからは言って聞かせるから嘘と思わずしっかり聞け(43)。 人間はじめかけたのは、「うをとみ」に「なわしろとたね」の働き を仕込んで(44)九億九万九千九百九十九の子数を宿仕込んで (45)その成長(48)を支えてきた。この世の真実の神は月日 であって、あとはみな道具である。人間はじめには使った道具に神 名を付したのである(51)。そしてその説き方のサンプルも示さ れています(52)。それらの詳細は「こふき話」の写本にあり、 ここではその断片を取りあげられたものと考えます(53)。

■(33) きょうのおふでさき《六号55~74》


  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから     六号56

 

 元初り の話をこれまでとは違った別の観点から説き直されています。
 このところは親神がこの世を創められた元の屋敷(55)であって、 そこにおやさま魂のいんねんを見澄まして天降って何かよろづを知らせ る、と説かれている(56)。立教の元のいんねんである。「めいめい のやしろ」(57)とは註釈によると「つとめの人衆」のことである。 「やしろ」とは親神のたすけ一条の働きを担ったある種の役割を言われ たものと考えられる。「月日のやしろ」という役割はしっかりともらい 受けてあるが、「めいめいのやしろ」はまだもらい受けていないので、 それを見て人々の心もいずんでいた(59)。このたびは月日が表に現 れてなんでもみな話して聞かそう(60)。今までは御簾の内側にいた から外側から何も見えなかった(61)が、このたびは明るいところに 出たので月日の働きがすぐ見えるだろう(62)。
 おやさまが明治七年に奈良県庁からの呼び出しに応じて山村御殿に出 向かれ、お帰りになられてから赤衣を召されます。そのことを「このお やさまが召されている赤い着物を何と思っているか、中に月日が籠もっ ているのだぞ」(63)、と言われ、月日のやしろという役割を明確に されたのです。
 今までも月日・親神の思うままであったが、まだその時旬が来ていな かったので見許していた(64)。このたびはその時旬が到来したので 何かよろづをまま(思い通り)にする(65)。しかしそれを知らずに 高山は何を考えてまま(思い通り)にしているのか(66)。このとこ ろ(おやさま)には人間の心はなく(67)、どのようなことを言うの も、筆先に誌すのも月日の心からの指図(68)である。それに対して 高山は何を言っても思ってもそれは人間の心の指図である(69)。
 月日・親神がつけた名前(神名・天理王命)を取り払おうとした。そ の残念をなんと思うか(70)。真実の月日の立腹、残念は容易なるこ とでないと思えよ(71)。今までは「高い山」だと威張ってまま(思 い通り)にしてきた(72)が、これからは月日がそれ(高山)に代 わってまま(思い通り)にする。できるならその真似をしてみよ (73)。このところ何を言うのも、どのようなことをするのも、月日 が思う通りのことばかりである(74)。
 

■(34)きょ うのおふでさき 《六号75~87》


 このよふわど ろうみなかの事なるし
  なかに月日がいたるまでなり      六号80


 時の政府 は明治5年から大教宣布運動を展開します。教導職が設置され、全国に 神仏合同の機関として各地に「大教院・中教院・小教院」を設置して、 神官・僧侶など総動員して、人心教化策を打ち出しました。
 おやさまが奈良中教院から呼び出されて山村御殿に出向かれた後、 「天理王という神はない」と信仰差し止めなど申し渡されたのはそうし た大教宣布の嵐の中にあった事件と理解できます。
 それに対して親神は「これからは月日の心残念をはらす模様ばかりす る」(75)「積もりてあるをかやしする」(77)と高山に対して承 知していよと、警告されました(79)。
 月日の残念をはらす、残念が積もり重なっているのを、なぜ、かやす のかそのその元を80以下で語られます。
 泥海から無い人間無い世界を始めらかけられました(81)。まず泥 海中を見渡して道具を見極められます(82)。泥海中にどじょう(人 間の種)、うおとみ(人間の雛型)、「ほかなるもの」必要な道具を引 き寄せて談じ合い、人間を創造されました(84)。「六台はじまり」 を説かれたものと理解します。無い人間無い世界をはじめるために月日 親神が心を尽くされた(85)のです。こうした道すがらを知っている 者はだれもいない。月日のそれに対する残念な思いはいかほどのもので あるか。これほどに思って始めたこの世界であるから月日の心の残念な 思いを何と思っているのか。その元、根拠をここに語られたのです。

■(35) きょうのおふでさき 《六号88~103》

 

 いまゝで ハなにかさとりもありたけど
  もふこれからハさとりないぞや     六号101

 

 親神が人間を たすけるためになされる「かやし」について、どのように受け止め たらいいのかを諭されています。
 人間の成長のために親神は心をつくしてきた(88)。ところが 高山はそれを知らずに蔓延って人間心で世界を思いのままにしてい る(89)。月日親神はそれが第一に残念であるからどんなかやし (働き)をするや知れない(90)。たとえば、山崩れ、雷、地 震、大風などの自然災害は月日立腹のあらわれである(91)。大 社・高山は油断することのないように。月日親神は遠慮はしないか らな(93)、と念を押されます。親神としては精一杯にことわり をした上で、月日の仕事(働き・かやし)をするのである (94)。それを決してうらみに思ってはいけない。それは各自の わが身への恨みである(95)。この話口説き詰めてあるからよく 聞き分けよ(96)。
 一れつはめいめいの胸次第である。常に親神はそれをご覧になっ て見分けていると思え(97)。その各自の心を神が受け取り次第 に働き(かやし)をするのである(100)。
 今までは神が何を言っても思っても、それを受け取る方は人間の 心ばかりであった(99)。これからはそれが善であろうと悪であ ろうともそのまますぐに働き(かやし)をする(100)。かやし (神の働き)によってたすけるのであるから、これまでのように人 間的立場からの悟りでたすかるというのではない(101)。それ がかやし(神の働き)であることを知ってもらわねばならない。こ の世の真実のをや・月日であって、そのをやが働いてよろづの守護 するのであるからそれ(かやしの神意)を知らねばならないのだ (102)。この先将来は親神が言われることに嘘はなく真実であ ると思ってこの話を聞き分けてもらいたい(103)。
 

■(36) きょうのおふでさき 《六号104~117》

 

 これから ハいたみなやみもてきものも
  いきてをどりでみなたすけるで     六号106

 

 月日親神 が真実にたすけたいと思って始めたことばかりである (104)と言われ、その具体的なたすけについて語られてい ます。病のたすけである。今までは病と言えば医者だ、薬だと 言って心配をしてきた(105)が、これからは痛み、悩み、 できものも「いきてをどり」のおさづけでみなたすける (106)。このたすけは今まで誰も知らぬことであるが、こ れから先は「試し」してみよと言われています。どのような難 しい病気であっても、親神は真実なるの「いきのさづけ」でた すける(108)。真実の心を見定めて「いかな守護もする」 (いきてをどり以外の働き)(109)も見せる。おつとめに よって子どもの疱瘡も麻疹もせず病まず死なずに暮らせるよう にする(110)。どれほどの自由自在の働きを見せると言っ ても「月日の心」からできるのであることをよく聞いておけ (111)。
 112以降また「かやし」(働き)の話題に戻って、まだ言 い足りない月日の思惑が説かれる(112)。積もり重なる月 日の残念を言うて聞かせる(113)。このところ(おやしき において)たすけ一条(おつとめとおさづけ)を止められてそ のかやし(神の働き)をせずにはいられない(114)。この かやしは「大社高山を取り払う」(社会事象)にあらわすから 承知しておれ(115)。また天火、火の雨、海は津波など (自然現象として)あらわす(116)から、その親神の残 念、月日の心配に思っていることを世界中な何と思って暮らし ているのか(117)とその胸中を明かされました。

 

■(37) きょうのおふでさき 《六号118~134》

 

 このはな しなんとをもふてきいている
  月日をもわくふかいりやくを     六号126

 

 第六号の 最後の段落になります。ここでも月日親神の子どもに対する心 配に思われている話(くどき嘆き)(118)をされて注意喚 起を促されています。
 この世はすべてが月日が支配(守護)する世界であって「神 の体」である。人間はその月日の子どもであり、身の内かしも のである(119)。世界中がこの真実を知ったなら「剛気強 欲」出すものははい筈である。ところが親神が教えることはす べて否定して人間心ばかりになっている。これではたすけるこ とはできない(123)。
 今までもこの世をはじめた真実を教えておこうと思ったけれ ど、月日はその刻限(時間)を待っている(125)のであ る。この話(これまで説かれてきた人間元初りの話)をどのよ うなものとして聞いているか。月日親神には深い利益(りや く)を見せてやろうとその準備をしている(126)のであ る。それは人間だれもが考えているようなものではなく、おつ とめによるめずらしいたすけ(127)を考えているのであ る。しかしこれまで自由自在の働きをすると説いてきている が、まだ今までその働きが見えたことがない(128)。この たびはその真実をしてみせたならこれ(話)が真実誠であると わかる(129)であろう。体内へ宿し込むのも月日親神の働 きであり、生まれ出すのも月日親神の世話取りがあってなされ ることなのである(131)。これを見ていかなものでも得心 をせよ。人間の心次第にどのような自由も見せる。たすけには 真実の心が不可欠で、神は真実の心次第にみなしてみせる、と 第六号の話を締めくくられています。

 

3月23日(月)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(7)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第七号のまとめ(3月 23日)2026/03/23

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼第七号・(38)~(43) <2026/03/09>

《七 号1~14、15~34、35~56、57~73、 74~88、89~111 (6)》

 

■(38) きょうのおふでさき 《第七号1~14》


  上たるハそれをしらすになに事も
  せかいなみやとをもているなり   七号3

 

 第七号の冒頭 のこの箇所は、前号・第六号までの話の要約のようです。
「三十八年以前」とは当然天保九年を指しており、立教の元のいん ねんがあったから天降って詳しい話をしているのである(2)。と ころが上たるはおやさまが語られる話を「世界なみ」として自分た ちと同様の人間が語ることとしか思っていない(3)。しかしこの ところは無い人間無い世界を創造した元のぢばであるから、その始 まり出しを知らないと言うことはない(4)。上たるへこの真実を しらしてやろうと思っている(5)が、上たるはそれを知らないか ら銘々のわが身の思案ばかりを思っている(6)。
 それを見ている月日親神は、その先行き、怖き危なき道を案じ て、心配しているのである(7)。月日にはその正しき道をはやく 知らそうと思い心配をしている(8)。それは人間の親がわが子を 思うのと同様、怖き危なき道を案じているのである(9)。ところ が人間はそれを知らず、みな銘々のわが身思案にくれて「うっかり と」暮らしているのである(10)。
 この世界は月日親神が万事支配をするということを考えてもらい たい(11)。これから先の道を見ておればその話がどういうもの であるか、自ずからわかるであろう(12)。どのような高い所で も水がつく。谷底だからと言って危ないこともない(13)。月日 が支配をするのであるから大きいとか小さいとかいったことは問題 にならないのである(14)。

 

■(39) きょうのおふでさき《第七号15~34》

 

  これまでもなんでもよふ木゛ほしいから
  たいていたづねいたるなれども       七号15

 

 おつとめの話 をつづけられます(17)。おつとめ人衆十人の心を神が受け取っ たなら思惑を説き聞かす(18)。とにかく十人が揃わねば始まら ない(20)そしてそれぞれが成って来ることを通常の病などとは 思わず(22)、神の思惑として受け止めて心すませていくことを 望まれています。
 これまではいろいろな道を通ってここまで来たが、まだ日が来た らずいずんでいた。この先は本真実を言って聞かす(25)。これ までの道は「拝み祈祷」の道であった(26)が、その元はだれも 知らなかった。これからはその元、元初りの真実を教え、よろづた すけのおつとめによって(29)たすけの道(ほんみち)へと展開 していく。おつとめの人衆の中に元初りのをやがいる(30)ので ある。元初りの話が「つとめの理話」と言われる所以が説かれてい ます。

 

■(40) きょうのおふでさき 《第七号35~56》


  とのよふな事をゆうのもにんけんの
  心でわない月日こゝろや         七号52

 

「今がこ の世の初まり」というのは、おつとめによって人間創造の働きをたすけ の上に現していくということを言われた(35)もので、「このたびの 自由用自在」すなわちおやさまが話されたことは親神のことばそのまま であって、そのまま成って来ることを仰っているのです。それによって この話を得心せよ(36)と言われています。月日親神が人間の体内に 入り込んで自由用自在のたすけ・働きをして見せるのである(37)。 こんな自由用自在の話をするのは今初めてのことである(38)。これ から先は、いつになってもこの道理、すなわち親神の働きを見せて話を 信じられるようにすること、自由用自在を早く知らせる(39)。
 をびやたすけの試しで示してきてたすけを急いているが、今までだれ も知らないことなので、じっくりといずんだ心のままであった。しかし 真実の心を定めて願うならば、自由用自在を今の間にもあらわす (43)のである。このことは誰も知らないことであるから、月日親神 の胸の内がわからない。それには月日は残念(44)に思っているので である。
 今まではどのようなことも見えてこなかったが、これから先は早く見 える(45)。真実の心があれば、早く願えばすぐに叶う(46)よう にしてやろう。たすけ一条を急いているからどのようなこともいかんと は言わない(47)。これほど月日親神は急いているのに、側の心なな ぜいずんでいるのか(48)。心勇んで急き込めよ、月日親神は待ちか ねているのである(49)。そして自由自在の働きをはやく見せたい。 これ一条である(50)。
 ところがこれほど思っている月日親神の真実であるが、側の心はまだ 世界なみである(51)。月日親神がどのようなことを言っていてもそ れは人間心で言っているのでなく、親神の心で言っているのである (52)。これからは人間心が混じっていると思っている(53)。こ れからは、その心を入れ替えて人間心あると思うな(54)。今までは おやさまを同じ人間のように思っているから何も分からないのである (55)。これからは何を言っても何をしても人間であるとはさらに思 わぬよう、と諭された。

 

■(41)きょ うのおふでさき 《第七号57~73》


 月日よりこの ぢうよふをせかへぢうゑ
  はやく一れつしらしたるなら      七号64


 今までは 日柄も来ていないので、何をするにも控えていた(57)が、この先は どのようなことを言うにしても怖みも危なきもない(58)。これから は月日親神が出張りをする。すなわちぢばから他の所へと積極的に働き (かやし)をしに出向く(59)と言われます。これまでの残念な思い が山のように積もり重なってある(60)が、どれほど残念が積もって いても「どうせよ」「こうしなさい」は言わない(61)。これからは どのような高い所でも月日親神の自由自在の真実を早く見せたい (62)。高い所にいる上たる者の心が分かったならば、神は自由用の 働きをする(63)。そうしたならばおつとめによるこの自由自在のた すけを早くするのに(64)。
 さて37、38で言われていた自由用自在の働きを具体的に語られま す。秀司先生とまつゑ様の間にたまへ様が誕生されるそれにかかわる話 です。このたび孕んでいるのを内なる者はどのように思って待っている のか(65)。月日親神には大変な思惑がある(66)。その元は六年 以前(明治三年)の三月十五日に迎え取った子ども(お秀さん)の魂を 親神が今まで抱きしめていたが、それを早く見せたいと思っているので ある(68)。内なる者はそれを知らずに世界なみなるように考えてい る。この話は今がこの世の初まりであることを分からせるための準備、 段取りなのである(70)。おつとめがこの世初まりと言われるよう に、親神の働きが現されるのである。
 これから先の容態をだんだんと説いておく(71)。名はたまへ、早 く見たいと思うなら、月日親神が教えるおつとめの手をしっかりと覚え ておつとめを実行せよ。この話を真実であると思うなら心を定めてはや くかかるように。


■(42) きょうのおふでさき 《第七号74~88》

 

 こらほど に月日の心せゑている
  そばの心もつとめこしらゑ         七号86

 

 今まではおや さまが何を言ってもみなむねもわからないし、その日も未だ来たら なかった(74)が、だんだんだんと人々にむねがわかるように なってくれば、その日も到来する。それを月日親神の心は急き込ん でいるのである(75)。これさえ早くに見えるようになったなら ば、どのようなものもかなうものはない(76)。月日親神がこれ をしっかりと見せたなら、あとの仕事(世界たすけ)の段取りも順 調に進むのである(77)。をびやたすけについて、おつとめに よってをびや許しを出して行くことになるのである。みなはどのよ うに考えているのか(78)。
 このたびはその真実に言って聞かせる。をびやたすけも切なみな しに素早く生ませる(80)。だんだんと口で何事言っても月日親 神の言うようにせねばならない(81)。そうすれば間違いはない のである(82)。どんなたすけをするのもみなおつとめによって 行うのである(83)。をびや許しや証拠守りのように、おさしづ 時代になっておつとめによって出すよう教え指導された。そのよう に真実の心があるならば月日親神もそれをそれを請け負うてたすけ をする(84)。このたびはそのように真実の心を請け合ってたす けするのは今がはじめである(85)。従っておつとめの完成を月 日の心は急いているのである。そばのものもそれを受けておつとめ の拵え、準備をせよ(86)。そしておつとめと言っても同じこと ではないので、みなそれぞれにその願いに応じて異なる手を教える のである。明治八年この年、ぢば定めがあって、みかぐらうた第三 節が教えられると共に、をびや、ほうそ、また肥、萌え出などのい わゆる「十一通りの特殊含意のおつとめ」を教えられています。 「みなそれぞれ」と言われたのはこのことでしょう。

 

■(43) きょうのおふでさき 《第七号89~111》

 

 このよふ のせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで        七号111

 

 今まで歩 んできた道すがらを知っている者はいない(89)。これから はいろいろな道筋が予想されるが、みな言って聞かせる (90)。月日親神からその道筋を聞いたなら、このように残 念な思いを持っていることは無理でないとわかるであろう (91)月日親神はこの残念な一条をはらしたならば、あとは 陽気づくめである(92)。日々に陽気づくめになっていくと いうのはどういうことか、誰も知らないであろう(93)。陽 気というのはおつとめによってもたらされるのであって、その めずらしいこと(おつとめによるたすけ)をみな教えるのであ る(94)。
 おつとめを教えていく手順としては、まず側のものの胸の内 から掃除をする(95)。そうすればあとは心が勇んできて、 よろづのつとめの手をつける(96)。このつとめはをびや (産屋)やほうそ(疱瘡)をたすけるものである(97)。そ のおつとめ、疱瘡をしないようにするおつとめを教える (98)。そのために世界一れつの心を澄まして、世界をたす けるための計画である(100)。そのようなたすけをするの も真実のをやがいるから引き受けるのである(101)。その ためには心が澄むことが大事で、そうなったらどんなことでも 違う事はない(103)。いままでは月日親神がどれほど思っ ていても側のものの心にわかりがなかったので、これからはお やさまの話されるおつとめの話は人間の心で仰っているのでは ない。この世初めてないことばかりである(106)。世界中 みな一れつに心が澄みきって陽気づくめに暮らすことならば、 月日親神も勇むのであって、そうなったら人間であっても同じ ことである(110)、と人間は陽気づくめの心になって勇む ことが大切である。まさに神人和楽の陽気世界の共有を強調さ れたのです。

 

3月31日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(8)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第八号のまとめ(3月 31日)2026/03/23

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第八号・(44)~(48) <2026/03/31>

《八 号1~20、21~33、34~50、51~69、 70~88 (5)》

 

■(44) きょうのおふでさき《第八号1~20》


  それまでハたれかしりたるものハなし
  なにか月日のしやんばかりで       八号16

 

 前号で残念を はらしたら陽気づくめになるという話をされていたので、この号は その続きを語られたようです。
 やまやまと積もった残念をはらしたいと宣言され(1)、残念を はらすことによってよろづのたすけをする(2)。真実の心次第に どのようなおつとめをするのもみなたすけである(3)。月日親神 にとっては世界中はみなわが子であって、たすけたいとの心ばかり である(4)。ところがそれを差し止めて、その後取り払いまで行 う(5)のはいかがなものか。おそらく明治八年、奈良中教院から 呼び出されて神名の差しとめ命令を下されたこと、またその後おや しきの祭神具など没収された事件を仰っていると思われます。それ 故にたすけづとめができなくなったのを残念であると言われていま す(6)。
 月日親神がだんだんとおつとめの手を教えるのは人間心から行っ ているのではなく、月日親神の心のままにしていることであり (9)、どのような話も、どのような姿を見せるのも、いかなる障 りがついてくるも人間心はさらにないのである(10)。この世を はじめだした月日親神であるから、どんなことでも知らんというこ とはない(11)。世界中の人間の胸の内は月日親神の方へすべて 映っている(12)。ところがそれを知らない人間はわが身思案ば かり思っている(13)。
 この先はだんだんと真実の道を教える(14)。この世の始まり 出しは月日親神で、その委細をみな教えかける(15)。それまで は誰もそのことを知っている者はいない。月日親神の思案ばかりで ある(16)。きょうまでいかなることも月日親神の思いであると 言っているが、まだそれが伝わらず、わからないままである (17)。世界にはだれも知っている者はいないから、何を言って も分かり難ない(19)。この世はじめてないことを説いているの であるから(20)と、おやさまの話は月日親神の思いであること (教祖論・啓示論)を強調して諭されています。この号の序説的な お話。

 

■(45) きょうのおふでさき 《八号21~33》

 

  このよふをはじめだしたるしんぢつを
  みな一れつハしよちせゑねば      八号27

 

 この世の初ま りだしの真実を知らせるということが大切である(21)という点 をまず指摘されています。
 今までもたすけ一条と言って説いてきたが、その本真実(本当の 真実)を知らない(22)から、月日親神が言われることをたすけ 一条が全うされないので、月日親神の話を真実のものとして聞けな い(24)のである。
 この世の元なるの所は、ぢばと定めたこのおやしき以外にないの である(25)。どのような話するにもこの話の元をみな一れつハ 承知しなければならない(27)。
 どのようなたすけをするにしても人並みのような話はしない (28)。今までに目に見えてあることや、存在しているようなこ とを言うのではない(29)。これまでにないことばかりを言って 聞かせて、真実のたすけをするのである(30)。それは疱瘡をし ないようにお守りを拵えたり、をびやのたすけで月日親神の自由自 在の働きによって安産をさせ、さらにお産の時期を延ばしたり、早 めたりもできるのである(32)。これほどの自由自在のご守護を 約束するのも容易なことと思わず、よく思案をしてもらいたい (33)のである。

 

■(46) きょうのおふでさき 《八号34~50》

 

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで       八号45

 

 月日親神は言 葉・心を尽くしているが、世界はなかなか変化せず、これまで同様 世界なみ(34)です。
 この世をはじめだした本心を言うて聞かさねば神意が伝わらない ようだ(35)。このところ、つとめ場所は人間を宿し込んだ元の 場所である(36)。人間をはじめ出したるをや、母親たるおやさ まは月日のやしろとしてこの世界に存命で在す、それは真実誠であ る。そのようにこの話が真実誠であると思う者はどこの者でもな い、ここにいる(にほんの)者なのである(39)。
 いままでも無い世界を始めたのはだれも知らないことを言ってま た教えかけた(40)。このたびもないことや知らぬこと言うてま た教えかける(41)。どのような者でも知らぬことばかりを教え て世界をたすける(43)のである。ところがこれほど月日親神は 心配をしているのに、世界の者はなにもしらないでうっかりと暮ら している(44)。
 心さえ月日親神がその真実を受け取ればどのようなたすけも請け 合う(45)。どんなたすけも真実のをや(おやさま)が月日のや しろとしてここにおいでになるから月日が言うのである(46)。 この月日は、元なるぢば、そして元なるのいんねんがあるから自由 自在のたすけができる(47)のである。この話、たすけ一条を請 け合う元、根拠となる話(48)であるから、繰り返して言われた のである。ぢば・おやさまの理が分かり承知をすることが重要なの である。この元はどこたずねても知っている者はいない(49)。 おやさまの体内に月日親神が入り込んで話をするのは今が初めての ことなのである(50)。



■(47) きょうのおふでさき 《八号51~69》


  このせかい一れつみゑる月日なら
  とこの事でもしらぬ事なし         八号51

 

 人間の 世界は理づめの世界ですが、すべてその理(法則)で支配されているも のではない。月日親神は世界一れつに目を配ってご覧になっていますの で、知らないということはありません(51)。人間はそれぞれこれが いい、これはいけないなどと考えて対応していますが、これが全部正し いとは限らず、親神の眼から見れば怖き危なき道なのであって、それを 見定めて善悪を見分けする(52)と言われています。人間世界は、ほ こりやいんねんといった人間のわが身思案だけで成り立っている世界の ですが、その秩序だけ出来ているのではありません。たとえば、だんだ んと恩が重なっていく、それを放置しておくと牛馬と見える道、牛馬に 落ちる道がある(54)。しかしそんな中にあっても、どのような者で も月日親神が真実の心を受け取ったならば「みなたすける」(55)と 言われています。前者も大事ですが、後者の「たすけ」の方がもっと大 事だと強調されているようです。このことを今まで誰も知らないから、 このたび月日親神が先に知らすのである(59)。
 月日親神にとってはすべての人間はわが子であるから、可愛いいっぱ いに思っている(60)が、各自はめいめいほこりばかりを思案してそ れを積もらせている(61)。月日親神はそのほこりを掃除をせねばと 思っている、月日親神のその働き(掃除)によって善悪ともにかやすの である(62)。この掃除をしておかねば将来怖き危なき道筋を案じて いるが銘々はそれを知らない、どのような高い所にいる者も、月日親神 にとってはみなわが子であるが、それを知らずに(高い所のものが)親 神のすることを差し止め、また取り払おうとするのはいかがなものか (4・5・6でご指摘済み)と再度指摘されました(65)。このよう に月日親神の胸の内をすきやかにはらしておかないと後の模様(たすけ の計画)を進めることができない(67)。この先はたすけ一条にか かったならば、どのうような者でも、ぢばの理が心に治まって勇むばか りである(69)。

 

■(48)きょ うのおふでさき 《八号70~88》


 このよふのに んけんはじめをやなるに
  天のあたゑハあるときけども       八号78


 今までは 日柄も来ていないので、何をするにも控えていた(57)が、この先は どのようなことを言うにしても怖みも危なきもない(58)。これから は月日親神が出張りをする。すなわちぢばから他の所へと積極的に働き (かやし)をしに出向く(59)と言われます。これまでの残念な思い が山のように積もり重なってある(60)が、どれほど残念が積もって いても「どうせよ」「こうしなさい」は言わない(61)。これからは どのような高い所でも月日親神の自由自在の真実を早く見せたい (62)。高い所にいる上たる者の心が分かったならば、神は自由用の 働きをする(63)。そうしたならばおつとめによるこの自由自在のた すけを早くするのに(64)。
 さて37、38で言われていた自由用自在の働きを具体的に語られま す。秀司先生とまつゑ様の間にたまへ様が誕生されるそれにかかわる話 です。このたび孕んでいるのを内なる者はどのように思って待っている のか(65)。月日親神には大変な思惑がある(66)。その元は六年 以前(明治三年)の三月十五日に迎え取った子ども(お秀さん)の魂を 親神が今まで抱きしめていたが、それを早く見せたいと思っているので ある(68)。内なる者はそれを知らずに世界なみなるように考えてい る。この話は今がこの世の初まりであることを分からせるための準備、 段取りなのである(70)。おつとめがこの世初まりと言われるよう に、親神の働きが現されるのである。
 これから先の容態をだんだんと説いておく(71)。名はたまへ、早 く見たいと思うなら、月日親神が教えるおつとめの手をしっかりと覚え ておつとめを実行せよ。この話を真実であると思うなら心を定めてはや くかかるように。

 

4 月14日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(9)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第九号のまとめ(4月 14日)2026/04/14

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第九号・(49)~(52) <2026/03/31>

《九 号1~12、13~32、33~47、48~64 (4)》

 

■(49) きょうのおふでさき 《九号1~12》


  このさきハどんなむつかしやまいでも
  みなうけよふてたすけするぞや      九号9

 

 第八号、第九 号は記述内容から一連のものと考えられています。第八号のつづき です。
 冒頭はこれまでのくり返しになりますが、おやさまの言われるこ とは人間心は少しも混じらず、月日親神の心そのままである(1・ 2)から、どのようなこともしっかり聞くように(3)と前置きさ れています。
 その上で、おやさまが特別な存在である(4)と指摘されます。 「やしろとなるを二人とも」とはおやさまとこかん様のことであ る。それぞれ「別間隔てる」、別の部屋に居るようにと指示されて います(5)。二人の話の内容が寸分違いのないでおやさまの存在 の特別なことを立証しようとされた。それをもとに世界たすけを 「請け負って」実行していく。それをしっかりと見極めてもらいた い(6)。この先のたすけ、おつとめによるよろづたすけの「みな 請け合うの元」(7)であると言われます。「やしろ」はつとめ人 衆の話であるからここは元初りについてよく承知してその役割を理 解してほしいというのが神意とうかがえます。「たしかききすみ承 知してくれ」(8)と言われているのはそのためでしょう。
 当時、こかん様は身上であったので「どんな難しいやまいでも、 請け負うてたすけする」(9)と言われます。そもそも人間には 「やまい」はないが、その元、元初りを知っている者はいない (10)。その初まりが月日親神であることを知らせたいから修理 や肥として医者・薬を教えて来たのである(11)。それらはあく まで修理や肥なのであって、人間元初りの話を承知して、万事請け 合っておたすけをしてきた。これからはよろづのこと(よろづたす けの元、人間元初りの話)をみな説いていくから、どんなこと(や まいなど)もしっかりと聞き取ってもらいたい(12)と言われて います。

 

■(50) きょうのおふでさき 《九号13~32》
 

  にち/\になにせきこむとゆうならば
  月日とびでるもよふばかりを      九号15

 

 これまで大抵 の話は説いてきたが、真実のことはまだ言っていないと、世界たす けを急き込む上から「月日とびでる」という月日親神の積極的な働 きかけについて語られます(13)。月日の心の急き込みは「月日 とびでるもよう」である(15)。どんなことをするやらわからな いだろう(16)。
 この先の道の容態を聞き分けてくれ(17)。月日が飛び出たこ とを聞いたなら、とにかくかんろだいを早く出すようにと急き込ま れます。そしてかんろだいの設置場所・ぢばの心づもりをせよ (19)。その準備に滞りがなければ危険は避けられるだろう (20)。
 月日が飛び出るところは、高い所や遠い所へと言われます (21)。つまり「高山」社会的に高い地位についている人々、ま た「遠国」ぢばおやしきから遠く離れた諸国の人々に「飛び出て」 顕著に働かれる(21)のであるから、これを聞いた者は「なんと 月日はえらいものや」と感心するであろう(22)。(これは後に 「高山布教」とか「遠国布教」なんどと呼ぶようになる。)そのよ うになれば胸にたまった靄(もや)が飛散して胸がはれる (23)。今までは三十八年以前から月日親神の胸にたまった人間 が積んできたほこりを気の毒に思っていたが、それも晴れるだろう (24)。
 このたびはどのようなこともみな一れつに知らせる(25)。 「もとなるをやを」確かに知らせる(26)のである。何のことや ら誰も知らない(27)であろう。それは一れつ人間を真実にたす けたいから知らしかける(28)のである。
 今までにないたすけをするのであるから、その元を知らなければ ならない(29)だろう。いままでも知らないことを教えるのであ るから「元なるをやをたしかに知らせる」(30)。元なる親を 知ったなら、月日親神はどんなことでもみな引き受ける(31)。 このような話は人間が言っているのでく、月日親神の心で言ってい るのである(32)

 

■(51) きょうのおふでさき 《九号33~47》

 

  このたびのなやむところハつらかろふ
  あとのところのたのしみをみよ    九号36

 

「もとなるを や」を知らすと話されて、これからそれをどのような仕方で知らせ ていくかとうい話題に展開される。身上、事情、かやしなどを通し てそれを人々に納得させる途を話されます。
 まずは身上、とくに一般的な病の意義について語られます。世界 を見渡すと、病もいろいろなものがある(33)。しかしどれほど 難病と言われるようなものであっても「請け負って」たすける家伝 (秘訣)を教える(34)。これからはその「薬味」(くすり)を 言って聞かせるから、神の話がどのようなものであってもしっかり と承知してもらいたい(35)。
 そしてこかん様の身上について話されます。そもそもこかん様 は、梶本家に嫁がれてい姉が出直し義兄が困っておられたのを見か ねてこかん様が梶本家に入られていたその中でおやさまは、早くお ぢばに帰るように促されて身上に印を見せられ諭されていたので す。このたび悩んでいることはつらいことであろうが、それを越し たら楽しみがあることを知ってほしい(36)。そもそも神の話 は、どのようなことをするにも先に言うてある。ことわった上でか かる仕事である(38)。月日親神は自由自在のたすけを知らせた いからその準備をして、急き込んでいるのである(40)。このよ うに月日親神がいかほどにそばなものに頼んでも聞き分けがないの で、なんと残念なことである(41)。この話は今だけのことでは なく、将来のことも見通した「先なることをばかり」言っておくの である(43)。こかん様は将来、やしろとして役割を世界たすけ の一翼を担われることになるからである。
 これ以降44からは「かんろだいのはなし一ぢよ」(44)と言 われ、おつとめによるたすけについて述べられます。今あるかんろ だいは本格的なものではなくそれを模した「一寸のしながた」 (45)であるが、これからはそれをだんだんと本来のかんらだい にしていく段取りを言って聞かせるのでしかりと承知せよ(46) と言われてその形状を「このだいを少し彫り込み差し渡し三尺にし て六角にせよ」(47)とその詳細を説かれます。


■(52) きょうのおふでさき 《九号48~64》
 

  月日にハこれをハたしてをいたなら
  あとハをやより心したいに       九号64

 

 かんろ だいの今後について述べられます。
 今までにいろいろと話をしているのは、かんろだいを据える準備のは なしばかりであった(48)。これをしっかり据えて置いたならば怖い 危ないこともない(49)。しかし、月日親神の指図ばかりでやってい ることを止めたならばわが身が止まるとことになる(50)。やがてか んろだいができたならばそれを見て、誠真実結構な月日の教えであると みなが言うようになる(51)。
 そしてこのだいが出来次第おつとめをする(53)。そうしたらどん なことでもかなえてもらえるようになる(54)。そうなったら月日親 神がぢきもつの与えをしっかり渡す(55)。どのようなことでも真実 であるという証拠がなければ危ういということになるだろう(56)。
 これからはどのようなことも細かく説くからそれに背くことはないよ うにしてもらいたい(57)。この話はかんろうだいによるたすけの計 画・準備の話である(58)。この台の上にだんだんと十二段を積み上 げてその上に差し渡し二尺四寸の台にして(59)、その上に平鉢を載 せて置いたならばそれより確かにぢきもつをやろう(60)。ぢきもつ は誰に与えるか。この世はじめたをや、おやさま(母親たるいざなみの みことの魂)に渡す(61)。天から与えをもらうおやさまの心(に思 うところ)は誰も知らない(62)。月日親神は、これをおやさまに渡 しておいたならば、あとは親(おやさま)から心次第に渡すであろう (64)。

 

 

4 月28日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(10)

 

■ 「きょうのおふでさき」 第十号のまとめ(4月 28日)2026/04/28

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼ 第十号・(53)~(58) <2026/03/31>

《十 号1~18、19~40、41~56、57~70、 71~86、87~104 (6)
》

 

■(53) きょうのおふでさき 《十号1~18》


  にほんにハはしらをたてた事ならば
  やまずしなすによハりなきよに      十号11

 

 かんろだいに ついての話題ということで、第九号の連続的内容になります。
 天のあたゑは、真実の心を月日が見定めて渡すのである(1) が、ちょっとしたものではなく、天より深い思惑がある(2)と言 われる。とにかくからてんぢくまでも心をすまして天のあたゑを渡 す(3)。この心をどのようにしてすましていくかと言えば、月日 親神があっちこっちと飛び出てすます(4)。だんだんと月日親神 が心をすます相手(布教の相手)の体内へ入り込んで自由用自在を してかかる(5)と言われます。月日親神がそういう働きをしたな ら、いくらからだ、と言っても、にほんの(布教伝道に携わる)者 にこれは適うまい(6)。日々に見えてくることから得心をせよ、 何時どんな話を聞くやら知れない(7)。どのような話を聞いても それは月日親神が働かれて現される話(8)なのである。
 これからはにほんの者はだんだんと月日親神が引き立てていくの でこれを見ていよ(9)。にほんの者には何もかもどのうようなこ ともすべて教えて、知らないことはないようにする(10)と言わ れています。
 また、にほんにははしら、かんろだいを建てたならば(そこでお つとめをして)病まず死なず弱ることがないようになって (11)、にほんの治まりとなる。今まではからだと言って蔓延っ て世界を気儘にしていたが、それに対して今度かやしをする (12)。
 この話は誰にどうせというのではなく、月日親神が飛び出てまま (自由)にするのである(13)。これまでも月日を知らん者はな いが、その本元(月日の真実)を知っている者はいない(14)の である。このたびはどのようなことも真実を言って聞かせてたすけ を急ぐのである(15)。この日柄いつのことかと言えば「田の修 理を終い次第に」(農作業が一段落したその時に)と言っておく (17)。それからは何かめずらしい道となって、おつとめによっ て日々心が勇むようになり、「何と大和はえらい豊年」であるとい うようになる(18)。

 

■(54)きょうのおふでさき 《十号19~40》

 

  だん/\と人ぢうそろふたそのゆへで
  しんぢつをみてやくわりをする     十号38


 これよりおつ とめについての説明である。
 日々にはやくつとめを急き込めよ、どのような難儀なこと(災 難)も逃れることができる(19)。どれほど難しい病でもおつと めによってみなたすかるのである(20)。
 つとめでもどういうおつとめをするのかといえば、かんろだいの おつとめである(21)。このだいがどういうことと思うか、これ はにほんのをやであるのだ(22)。これを誠真実に思うなら月日 親神がすべてを見分けして引き受けてどんな働きもする(23)。 月日親神が引き受けをするということは千に一つもちがうことがな いのである(24)。
 この話どういうこととして聞いているのか。そもそもこのかんろ だいのつとめというのはちょっとした(規模の)ものではないので あって(25)三十六人の人数が必要なのである(26)。鳴物の 人衆も含めて十九人のつとめ人衆がほしいと言われます(27)。 そしてそれらの者は真実の心定めて思案をせよ、取次の人(にん) にはこのことをしっかりと頼みおくのである(28)。このだいを 拵えようと月日親神は人衆の模様(準備)をする(29)。つとめ の人衆が寄ってきたならば、かんろだいもできるのである (30)。この道は月日親神がおつとめの手を教えて(31)おい て、これをにほんのものに仕込んで、これを連れて世界中に出たな らばひとりでに、この道が出来てくるのである(32)。これさい かたしかに出来るようになったならば、月々のつとめ(おぢばで毎 月二十六日につとめられるおつとめ)も違うことがなくなるだろう (33)。おつとめを教えられた通りにまちがいなくつとめられる ようになったならば、天のあたゑも違う事がなくなる(34)。こ の道は誠真実むずかしい道であるから、みなよく思案せよ (35)。
 このおつとめの人衆、どこにあるやら知らないであろう。月日親 神が見分けてぢばに引き寄せる(36)。どこの人でも月日親神が 自由用をして見せる(37)。だんだんと人衆が揃ったその上で、 それぞれの真実を見て役割をする(38)。すなわちその役割と は、かぐら十人と後へ鳴物である。これさえしっかりと揃ったなら ばどんなことでもできないことはない。おつとめ人衆は元初りの魂 のいんねんとの関連はあまり強調されていないと理解する。「真実 を見てそれぞれの役割を決定する」点に力点が移動していると思え ます。


■(55) きょうのおふでさき 《十号41~56》

 

  このよふのぢいと天とハぢつのをや
  それよりでけたにんけんである     十号54

 

 ここか ら話題が転換されます。いわゆる救済史(親神が見ている世界史・救済 計画)的な話題になります。
 きょうからは文句(話題)が変わる。いままでお前たちが知らなかっ たことばかりを言う(41)。今までもどのような教え(宗教)もある けれど、すべて月日親神が教えたものである(42)。月日親神が何も かもだんだんと教えてきたのである(43)。このたびはそれ故お前た ちが知らない真実をすべて言うて聞かせるのだ(44)。
 これまでは、からはえらい者だと思って世に蔓延っているが、それと ても月日親神が裏から教えてきたものである(45)。このたびは月日 親神が元へと立ちかえって、その木の根(この道の根本)元を明らかに していく(46)。この真実の元を知っている者はどこの者でもさらに あるまい。にほんの者以外にはないだろう(47)。真実にこの元さえ しっかりと知っておればどこへ行っても自由自在に話ができる (48)。この話を取次に仕込みたいのだ(49)。
 これについて月日親神が思うには、「にんんげんもと」を世界中に弘 めたい(50)のである。はやばやとこの真実を世界中に知らせて弘め たら神の話も伝わってわかるようになる(51)。どれほど話を説いて 聞かせてもこのもとを知らせて伝えておかねばその真実がわからない (52)。もとさえしっかりと言って伝えておけば、何を言ってもその 話を聞き分けられるであろう(53)。そのもとの話は、「この世の地 と天は実の親、それより出来た人間である」という話(54)(かしも の・かりものの話)である。
 これからはからもにほんも知らないことばかりを言うから、しっかり と聞いて記憶してもらいたい(55)。どのようなこと、何を聞かれて も、それは知らないというようなことがないように、みな一れつ、にほ んの者全員に仕込みたいのである。

 

■(56)きょ うのおふでさき 《十号57~70》

 

  このはなしなにをしこむとをもうかな
  これからさきのよろづみちすじ     十号66

 

 月日親 神の思いはどのようにして人々(「多くの人」と「一れつ」)に分から せていくのかを話されます。
 日々に月日親神は多くの人の胸の内をわけたいとと思っておられ (56・57)、胸がわかること、それば月日親神の楽しみである (59)。そしてそれが世界一れつに及ぶようになったならば(60) 月日はそれよりだんだんと日々に心を勇めて、陽気づくめをみなに教え ていく(61)。まずはおやさまに寄り集う多くの人の胸の内をすます ことが必要になる(62)。そうなれば月日親神の心が勇み出てどんな ことでもみな教える(63)。どのようなことでも陽気ぐらしに暮らす ようになるその真実をみな世界一れつへ弘めたいのだ(64)。
 月日親神は誠真実の心の者がほしい、そしてその者にどんなことでも 仕込みたいのである(65)。何を仕込むか、これから先のよろづ道 筋、どのようにして世界を勇ますか、その道筋を仕込むのである (66)。
 きょうまでは何も見えてないが、その日が近づけばひとりでに物事が 成って来、見えるようになる(67)。どのようなことが現れてきても それをやまいとは思うな。現れてくることはすべて月日親神のていりで ある(68)。月日親神は日々に心を急き込んで、どのような模様をす るか知れない(69)。その急き込みはかんろだいを建てることばかり を急き込んでいるのである(70)。

 

■(57) きょうのおふでさき 《第十号71~86》

 

  なに事もみなこのとふりはちめかけ
  せかいぢううの心すまする      十号80

 

 月日親 神は、世界中の心をすませてその世界たすけ(救済計画)を着実に、そ して身近なところから進められます。
 日々に身の内にさわりがついたならば、これは月日親神のていり・お 手入れである(71)。それに気づくことが大切です。世界中を見澄ま せて月日親神の働きであることがわかるようにされる(72)。そのた め口で言うだけでなく、たしかな証拠を示そうとされる(73)。月日 親神が布教伝道に携わる者の体内に入り込んで自由自在に指図をする。 それが証拠なのだ(74)そのように今までどこにもないことばかりを 言っておいて始めかけるのである(75)。
 今までもないことばかり言うのもこれも月日親神のみな教えである (76)。このたびのかんろだいというのもいままで知らないことであ る(77)。どのようなことを言うのもみな月日親神であって、知らな いことを教えたいのである(78)このやしきにかんろだいを据えるの は人間をはじめかけた証拠であることを示すためである(79)。つま りかんろだいを囲んでおつとめをしたらめずらしいたすけ現れることを 示して、誰の目にも見える証拠とするのである。なにごともこの道理に 従って、先に話を教えてその通りに月日親神が働かれて、世界中の心を すましていくのである(80)。
 日々に何でも世界一れつを勇める模様ばかりする(81)。だんだん と世界の心が勇むならば、立毛(農作物)も勇んで豊作となる (82)。
 世界を勇めるために月日親神は「にんそく」を連れて出るという話を されます(83)。にんそくは親神の手足となって働く人、人足で、月 日親神がそういう人材を連れて、世界に赴くと言われいるのです。人間 の元、世界の元を知らせるために働く人、手伝う人である。神の話がよ く分かっていて、おつとめにできる人材が人足と考えられます。
 それまでに世界中のあちこちで神が不思議な働きをされるので、どの ような話も聞くことになるだろう(84)。どんな話を聞いてもそれは 先に月日親神から話をしてあったもので、先に言ったとおりの現れてく るので見て思案してみよと言われます(85)。月日親神は一体何を言 われるのかと思うであろうが、先の楽しみである(86)。

 

■(58)きょ うのおふでさき 《第十号87~104》

 

  にほんにもこふきをたしかこしらへて
  それひろめたらからハまゝなり    十号88

 

 月日親 神は人足を連れて世界だすけに出るという話をされましたが、今後の遠 大な計画を「先の楽しみ」と言われ(86)、にほんにこふきを拵える 話をされます(87)。
「こふき」とは親神様の教えをまとめた、いわば「教えの大綱」で、2 つあると言われています。
(1)たすけ一条《つとめとさづけ》
(2)話一条《神様の話》
 これを世界に広めてたすけをしていく、そうすれば「から」を 「まゝ」にするとの意向です。(88)この話は「みなのもの」(にほ んの者)はなんと思っているか。みな「わがこと」なのである (89)。上たるはそれを知らずに「むねがわからん」のが月日親神の 残念である。にほんにこふきが出来たならばそれはにほんの宝となるの である(91)。
 一れつの心を定めて思案せよ。そして早くこふきが出来るのを待つよ うにせよ(92)と言われています。この号を執筆されているのは明治 8年ですから、まだまだこふきは完成していません。拵えているところ です。おつとめ完成への道はまだまだ先の話になります。その途上でこ ういう先の計画を話されその道を急がれているのです。
 こふきが出来たならば、どのように難儀なことでも月日親神が世界に 弘める(93)。しかし月日がこふきを広めるといってもみな(にほん の者)の心は承知、納得できないだろう(94)。それ故に取次に頼ん でおくから承知せよ(95)の仰せです。その日柄はいつになるのか、 その刻限は、おつとめ完成の日(明治20年正月二十六日)であろう。 その刻限を迎えたならば月日親神は世界たすけのために世界中のどこへ でも行くことになるだろう(96)。それまでに日々に取次人はしっか りと心を静めて早くこふきを拵える作業に取り掛かってもらいたい (97)。
 みなの者(にほんの者)は、この道はどういうことに思っているか、 一寸にわからない(98)。月日親神は真実の心でしっかりとこの道を 通り抜ける(99)。そしてこの道を上へ抜けたならば自由用自在の働 きをする(100)。月日親神がこの働きをしかけたら、いかほどの剛 的と言っても(101)、心から真実がわかりすみきったならば、どん なことでもをや(親神)にもたれる(102)。この先は世界中をどこ までも陽気づくめにしてかかる。(103)。だんだんとこの道筋が進 捗していくにつれてその様態はみな我がことと思って思案せよ (104)。

 こふきによる世界だすけの道を人と神の協働で進めて行くという途轍 もない遠大な救済計画です。
 この号は明治8年、教祖78歳執筆ですので、まだまだその道半ばと いうところですが、その道筋の容態は、「みなハが事とをもてしやん せ」(104)と結ばれています。
 わたしは今年で74歳になりましたが、世間で話題の「終活」のよう な雑念に流されてはいけません。

 

 

10月5日(月)「きょうのおふでさき」アーカイブ版 ①

 

■「きょうのおふでさき」 第1号のまとめ(2月7日)2026/02/07

 《上の写真は、ろば一郎さんのおふでさき検索ソフト「おふでさき索引」から借用しました。》

「おふでさきを読む」は、去年(2024年)6月24日、ちょうどその日に教会の朝づとめで読んでいた箇所(第十号71~86)から連載をはじめました。8月19日で第十七号64~75で最後に到りました。その後8月22日に第一号1~20に戻って順次読み続け、第十号71~86以降は、新旧の解説内容を連記する形で、さらに読み続けて昨年12月26日に全号、一巡いたしました。

 きょう、これを書いていますが、おふでさきの連載記事が、教内各誌に見られます。

 あらきとうりょう誌には上田嘉世氏の「ふでのさきがなみへてきたなら」ですでに15回連載中ですし、またみちのとも誌にも今月から山澤昭造氏が「おふでさきの世界を歩く」の連載がはじまりました。それぞれ意図しているところは異なるかも知れませんが、おふでさき研究の深まりが合図立て合てあって迫っているような感触を味わっています。

 浅学非才のわたしのWEB連載は、朝づとめ後、毎朝拝読しているおふでさきの読み方の一提案です。

 

 毎朝、朝づとめ後に拝読しているおふでさきのおうたを掲げて、そこから1首をとりあげて、全体の文脈も視野に入れながら思うこと、考えていることを、ほんのひとことでも紡げたらいいなあと思って書きました。題して「きょうのおふでさき」です。

 

■おふでさきの区切り
 おふでさき拝読の区切り方はいくつかあるようですが、わが家では以下のもの(教校専修科の朝礼で使用されていた・故・安井幹夫先生作?)を使っています。


一号1~20、21~38、39~57、58~74 (4)
二号1~17、18~30、31~47 (3)
三号1~14、15~27、28~41、42~58、59~76、77~91、92~112、113~127、128~149 (9)
四号1~20、21~39、40~59、60~78、79~95、96~110、111~134 (7)
五号1~16、17~32、33~45、46~61、62~72、73~88 (6)
六号1~16、17~31、32~54、55~74、75~87、88~103、104~117、118~134 (8)
七号1~14、15~34、35~56、57~73、74~88、89~111 (6)
八号1~20、21~33、34~50、51~69、70~88 (5)
九号1~12、13~32、33~47、48~64 (4)
十号1~18、19~40、41~56、57~70、71~86、87~104 (6)
十一号1~16、17~32、33~50、51~64、65~80 (5)
十二号1~13、14~30、31~46、47~61、62~84、85~104、105~122、123~135、136~156、157~169、170~182 (11)
十三号1~20、21~40、41~58、59~72、73~90、91~103、104~120 (7)
十四号1~16、17~28、29~47、48~64、65~78、79~92 (6)
十五号1~17、18~33、34~47、48~56、57~71、72~90 (6)
十六号1~16、17~36、37~55、56~67、68~79 (5)
十七号1~20、21~33、34~48、49~63、64~75 (5)
()内の数字は区切りの数、全部で103区切りとなります。

 

 きょうは第一号の4区切りを掲載します。

 おふでさきのテキストは、煩雑になるので、今回割愛しました。「おふでさき」本を左手に持ちながら本文を読み進めて頂くのがよろしいかと思います。

 それでは、さっそくはじめましょう。

 

#「おふでさきを読む」第一号 (1)~(4)

《一号1~20、21~38、39~57、58~74 (4)》

 

■(1)きょうのおふでさき《第一号1~20》 

 第十七号おふでさきを、きょうから読み続けることにします。まずは大まかな文脈をとらえていきます。詳しい解説より、その場の注目するワンポイントを指摘して方向を示してみようと思っています。

 このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする     一号3


 おふでさき第一号の冒頭のお歌八首は、みかぐらうたの「よろづよ八首」の内容と重なる点は有名です。両者の関係は、製作年からいうとおふでさきは明治二年執筆で、みかぐらうたの「よろづよ八首」は翌年明治三年に教えられたと言われています。おふでさきは和歌ですから、五七五七七・三十一字で、「よろづよ八首」は、五七五七五・二十九字で2字少ないので、意味内容を変えないで、おてふりの地歌として歌いやすく、踊りやすいように形を整えられて、おふでさき執筆の翌年に十二下りてをどりの最初の部分(「だし」(出だし)と言われる・『天理教事典』第三版)に追加された、と考えられているのです。
 3のお歌に該当する「よろづよ八首」は「このたびはかみがおもてへあらハれて なにかいさいをときゝかす」となっています。

 もう一点。きょうのおふでさきの第一号のこのお歌(3)は第十七号71「これから先は悟りばかりや」と呼応して話されていることにも注目です。
 第十七号最後の結びのところで、
 いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
  これからさきハさとりばかりや    十七号71
と語られていました。
 おふでさきが執筆される目的は「よろづ委細の元のいんねん」(6)を説き聞かして、「かぐらづとめ」や「てをどり」、すなわちおつとめを教えて(10)、人と世界の心を勇ませ(7)、「もののりゅうけ」も勇む(12、13)ようになる。そこにおふでさき執筆の目的がある。「見えたから説いてかかるのは世界なみ、見えない先から説いておく」(18)にあるわけです。


■(2)きょうのおふでさき《第一号21~38》

 このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ     一号21


 21~23は、おふでさきの何たるかを、そしておふでさきの由来を誌された箇所として有名です。すなわち、口では言えない(22)からふでさきの歌で知らせる(23)という話です。
 おふでさきに誌されている話題は、口に出して言えないものがある。おやさまが口に出して言うとそれはそのまま成って来る、実現してしまう。人間には不都合が生じるから、ふでさきに誌して注意を喚起される、知らせるのである。口に出さずに筆に誌して歌で知らせる、それを読んで悟りなさい、さんげ(反省)しなさい、と言われます。おふでさきはなぜ書かれたかその理由はそこにあるのです。
 それ故におふでさきに書かれてある事柄は、教祖伝でも触れられていない事例もあります。たとえば秀司先生の内縁の妻だったおちゑさんの話題はその一例でしょう。それは「違いあるなら歌で知らす」(23)ので口で語られなかったからなのです。
 21~28は29以下「やしきの掃除」の前置きの話となっています。これから世界だすけの準備、段取りとしてやしきの掃除をすきやかに仕立ててみせる(29)と言われています。おそらく前述のおちゑさんの問題なのでしょう。詳しくは『おふでさき註釈』に述べられています。口には出さず、秀司先生に筆先でつたえられたのでしょう。秀司先生の足の悩みが病でないこと、神の立腹が積もり重なり今日に至っていること、「あくじがのかんゆへ」(32・33)のことである。この悪事をのけたら秀司先生の足の悩みもすきやかとなり(37)、世界だすけのふしんの準備を進めていくばかりである(38)と述べられました。


■(3)きょうのおふでさき《第一号39~57》

 このさきハみちにたとへてはなしする
  どこの事ともさらにゆハんで     一号46


『おふでさき註釈』によると、正月三十日と日を切って、おちゑさんとその子(秀司先生の庶子・音次郎)を実家に帰すのも神の心からである(39)。周りの者もそしてまた当人・おちゑさんも、一体何をされるのかと思うであろうが、先のことを何も知らないからそう思うのである(40)。41、42のお歌から、おちゑさんが親神の言われることを疑い、おやさまの話を嘘だと言っていた(42)ようである。しかしおやさまの話は「千に一つも」違う事がない(43)。そのように、おやさまが話されたように当人の心通りに成って来るから、それを見て「得心せよ」(44)と言われました。
 世界には道の次第もいろいろにある(45)と話題を「せかい」に変えて、「道にたとえて」の有名なお歌が続いています。これは秀司先生に対する、あるいはそれを受けて、この道(神一条の道・50)を通る者へのおさとしです。艱難辛苦と試練の道を通り越したならば往還の道・本道に出られるとの話になります。『天理教教典』ではおやさま五十年のひながたを述べたものとしてこのお歌が引用されています。
 さらに「うち」から「せかい」(51)に話を転じられ、元初りから今日までの長い道中には、さまざまな生き方があって、宗教の原点とも言える「あしき」(悪)の問題を「こころのほこり」の観点から取りあげられました。心をしずめて思案して、後で後悔せぬよう、ほこりの心づかいに注意をはらうよう促されて、「たしかなる詣り所が見えてきた」(56)から「得心」をせよ。これからの長い道中みちすがらを説いて聞かすから「とくと思案」(57)をするようにと、言われた。(ほこりと詣り所の話は第十六号1~16参照)


■(4)きょうのおふでさき《第一号58~74》

 にち/\に心つくしたそのゑハ
  あとのしはいをよろづまかせる      一号67


「内を治める」という話を急き込まれています(58)「この子供二年三年仕込もうと」いうのは、以前から話題にされていた秀司先生の庶子・お秀さん(当時17歳)のことです。花嫁修業をさせてとの思いがあっても、それは悪事まじりであるから将来に禍根を残すことになる。親神には寿命のないことが分かっているから、「神の手離れ」出直しを予言されたのである。親神としてはいったん引き取って(出直させて)もう一度生まれ変わらせてやろうとの思惑(三号109「四年以前に迎え取り」「はやく見せたい」)のようです。お秀さんは明治三年に出直され、そして・七号67・68に誌されているように、明治十年、後に結婚されるまつゑ様の子・たまへ様として生まれ変わられたのです。
 話は秀司先生の将来について、「わが身にはもう五十やと思えども、神の目には先がある」(63)と仰せられ、人生五十年と言われた当時にあって、「今年より六十年はしかと請け合う」、つまり百十歳までの命を保証されて、「これからは心を入れ替えて悪事を払って若き女房」(65)を迎える、「神がもろてくる」と激励され、おやさまは平等寺村の小東家から、当時十九歳であったまつゑさまをもらい受けに直々出向かれ、話を纏められたのです(66)。そして「日々に心尽くした」その上で、いずれ秀司先生に「あとの支配をよろづまかせる」(67)と言われています。
 68は秀司先生の奥様のご生家小東家に対して仰ったことで、『おふでさき註釈』によるとまつゑ様の五人の姉妹兄弟(女二人、男三人)のうち二人は小東家の用事をさせ、残りの三人は「神のひきうけ」(68)とされた。
 とにかく親神が直接仲介されて、五十歳の男性と十九歳の間を取り持って、世界ではめったにあり得ない結婚へ導かれた(70)のですから、世界の人は「をかしが」って「嗤われる」(71)かも知れないが、神は「人の嗤いを楽しむ」(72)とまで言われ、このたびの縁談について「前生のいんねん寄せて守護する」「これは末代しかと治まる」と言われて、この号を締めくくっておられます。

 

2月11日(土)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(2)

 

■「きょうのおふでさき」 第2号のまとめ(2月11日)2026/02/07

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼第二号・(5)(6)(7) <2026/02/11>

《二号1~17、18~30、31~47 (3)》

 

■(5)きょうのおふでさき《第二号1~17》

 

 これからハをくハんみちをつけかける
  せかいの心みないさめるで       二号1

 

 第二号は、明治二年三月執筆で、内容的にも第一号(主として「うち」話でおつとめが中心話題)、第二号では「せかい」の話題ですが、第一号の続きのようです。
「往還道」をつけかけて、「せかいの心」を勇める(1)と誌されています。「往還道」は世界に向けておつとめ勤修ができるような広くて大きな道である。そうした道を歩む「刻限が来た」(2)と言われます。3はその刻限の具体的な例を「茶を摘んで」と誌されます。この時期「夏も近づく八十八夜」と歌われるころで茶摘みの時期です。茶摘みが終わって刈り取ってしまえば仕事が一段落する。そしてその後、人間が休んでいるときに神が働かれる、作物が成長する。「後に出るのはようきづとめ」である(3)。刻限をまって神が働き、上が勇むようになる(4)のである。
 日々に現れてくる病、痛みは「神の急き込み」「てびき」である(7)。手引きはおつとめの人衆を集めるためになされるもので、このたすけは今だけのものではなく、末代のこふきとなるのである(10)。この一連のプロセスを「めづらし事をみなしかける」(5)と言われたのである。
 11、12は病が手引きであることの具体例を語られた。辻忠作へのお話で、詳細は『おふでさき註釈』にある。
 13からは「表へ出る」という話で、おつとめを完成させて、それを勤修することで世界だすけへの歩みが進められる。その道は「他なるところ」からつけるのではなく、このおやしき・ぢばからつけるのである(14)。「神の打ち分け場所」(16)については『おふでさき註釈』に書かれているが、その教義的な意味合いはまだよく分からない。


■(6)きょうのおふでさき《第二号18~30》

 
これからハ高山いけいとびはいり
  いかなごもくもそふぢするなり      二号29


 往還道をぢば・おやしきから世界につけていくが、それにはまず「やしきの掃除」(18)が必要で、それによって「夢見たようにほこりが散る」(19)と言われ、その後に「よろづのたすけ一条」、すなわちおつとめを急き込んで、世界から「あしき」「いたみ」「病」をもって手引きをして「みちおせ」(道教え・道しるべ)をして、つとめに関わる人々を集めるから、親神のその思いを「みな思案せよ」「何と思てるか」(24)と言われた。
 そして25~30で、布教伝道の場面として「高山」についてふれられた。「高山の池に湧いた水」(25)を「神が入り込んで澄ます」(27)、「心静めて思案する」と「澄んだ水に変わってくる」(26)。そのように神が「いかなごもくも掃除する」(29)と言われています。
 つまり往還道を世界につけていくのに、まず「うち」において「やしきの掃除」をされ、続いて「せかい」に向けて「高山」(高いところ)に入り込んで、次々とその水を澄まして行く、掃除をすると説かれているのである(一号29・30参照)。


■(7)きょうのおふでさき《第二号31~47》

 このさきハからとにほんをハけるてな
  これハかりたらせかいをさまる     二号34


「からとにほん」の話をされるが、「何を言っても分かるはずがない」(31)と断られているから、「からとにほん」が意味するところは、日本と唐といった具体的な国、すぐに頭に浮かぶ地理的な位置関係、政治的な地域とは考えにくいだろう。その解釈は『おふでさき註釈』(二号47)にあるのでご覧ください。親神の世界たすけの計画からすると、「にほん」が根であり、「から」は枝葉となります。「からとにほんをわける」は、親神の世界だすけの秩序、位置関係を明確にして、本来の形に再統合することであり、それによって「これハかりたらせかいをさまる」(34)のである。
 今までは「上たる心がわからいで」「せかいなみ」と思っていた(35)が、「これからは神が体内に入り込んでわけてみせる」(36)、神が働いて、真実を分かるようにしてみせるのである。実際に布教伝道の場面で「高山に火と水とが見えてる」、すなわち親神が先回りをして働いている姿がだれの目にも見えるだろう(40)。これまで親神がおやさまを通していかな話も説いてある、その話が話の通りに見えてくるのである(41)。それが見えてきたらば「得心」せよ、と言わました。
 最後46・47で、高山で「にほんのもの」と「とふぢん」をわける、わからせるのも「はしら」(かんろだい・真柱)であり、「火と水」は親神の働きであって、それをもって「ハける」分からせる、わかるようにすると言われています。「十五日」(44)は旧暦で月の満ち欠けの節目の時期をさしており、親神の働かれる旬、時間をいわれています。

 

2月16日(月)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(3)

 

■「きょうのおふでさき」 第3号のまとめ(2月16日)2026/02/16

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼第三号・(8)~(15) <2026/02/16>

《三号1~14、15~27、28~41、42~58、59~76、77~91、92~112、113~127、128~149 (9)

 

■(8)きょうのおふでさき《第三号1~14》

 このたびハもんのうちよりたちものを
  はやくいそいでとりはらいせよ     三号1


「門の内より建物を取り払いせよ」について 『みちのとも』昭和3年11月20日号に関連する記事があります。その画像を掲示しておきます。当時のおやさきの様子が窺えます。

「やしきの掃除」について話されるなかで、この「門の内より」の話は、当時のおやしき内、つとめ場所の東側に掘っ立て小屋のような粗末な建物があって、明治初年ごろ秀司先生の妻子が住まわれていたようで、その建物を取り払って別の建物を建築するというものであったが、当時おやしきも余裕のある時代でなかったので、おやさまの意向に添おうとされていたが、なかなかできなかったようです。『みちのとも』誌のこの記事にあるように、おやさまとしてはご自身が住まわれれる建物と、神意を伝達される場所は分けて設える意向だったが、状況が厳しくてできななくなり、結局、明治16年に「御休息所」が出来るまで「中南の門屋」と呼ばれたここの処でおやさまがお住まいになられれて、そこで神意も取り次がれていたようです。
 「やしきの掃除」がすんだら、その後は神一条で心が勇むる(3)。世界の心が勇むようになればそれが「にほん」の治まりとなる(4)。その後は、「ふしぎあいづ」(5)が見えるようになる、心をすませて「しんのはしら」を入れると仰せられ、水にたとえて心すます話(8~14)をされ「これを悟ったら証拠だめし」(14)だと諭されました。

 

■(9)きょうのおふでさき《第三号15~27》


 はや/\とみへるはなしであるほどに
  これがたしかなしよこなるぞや     三号26

 

 この世人間を創造した元の神であるから、そのような神を知っているものはないのが当然です(15)。今日まで何も無かった混沌たる泥海のような世界から、親神の守護・働きで世界を、そして人間を育み育て上げてきた。今もその創造の最中にあって盛んな様相を呈している(16)。この度はその創造の働きをたすけの上に実現しようとしているが、それもこれまでに無いことを始め掛けようとしているのである(17)。そんなことができるのは「元拵えた神」であるからである(18)。
 たすけ一条の道をつけようとそのやまやまなる話を説こうとしている(19)が、「心をすまして(おやさまの話を信じて)聞くものがいないから」(20)説くに説けないのである(20)。すみやかに心を澄ませて聞くならば、その話を説き聞かす(21)。何もなしに心を澄ませて神の話を信じろと言っても難しいだろうから、「試し」をかけてある(22)。試しが実現するのを見れば、見えればそれが証拠となって、神の話が誠・真実であるとわかるだろう(26)。神の説く話はすべてこの道理、「証拠を見て信じる」という証拠信心の道なのである(27)。おやさまの話を信じて通るように諭されたのです。


■(10)きょうのおふでさき《第三号28~41》
 

 にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら     三号41


 28では人間世界の道理、「人の物を借りたら理が要る」「理を返済して、礼を言う」と語られ、それを神の世界に敷衍されながら話を進められ、結局「人間はみな神のかしもの」(41)であるという結論に導かれています。
 人間にはまずこの神の話が真実であることを受け入れて、それを信じて歩む決断を迫られますが、その間に、人間の心ちがいを知らせるという話が語られます。
「子の夜泣き」は「神の口説き」である(29)。この話はおさしづにも言及されています。
    さあ/\夜泣き、子が泣く、どんな事情も諭してある。よう聞け。何にも彼も神口説き、皆ふでさきにも知らしてある。(22・5・7)
「親々の心違いのないように思案を」(31)。「今さえ良くば」と思う心は間違いである(33)。それは「末の道筋が見えていないから」(34)である。「今の道を嘆かず先の本道」を楽しみに(37)「先の往還道」(36)を見て進めよ。「この世は神の身体であることを思案して(40)親神の「たすけ一条の心」に従っていれば「何も言わなくても親神はその心を受け取って守護をするのである。


■(11)きょうのおふでさき《第三号42~58》

 いまゝでハなによの事もせかいなみ
  これからわかるむねのうちより     三号43


 ここでは「たすけ一条」について説かれています。
 今年にはいままでだれも知らなかったような「めつらしい事」、おつとめでたすけるという話が背後にあるようです。それを進めていく(42)。「教祖伝」にも誌されているように、おやさまご自身が「をびやためし」でそれを見せて示されましたが、そのたすけは、これまで世間で行われてきた「拝み祈祷」「伺いを立てる」ような方法ではなく、「よろつの事」を説き聞かせて、その話に心を開いて、心の入れ替えをして「人たすけたらわが身たすかる」(47)という道である。「拝み祈祷」「伺いをたてる」は立教の時の修験者を仲介にしたやり取りを連想します。そういうものの抜本的な対応の上にこの道が始まっていることを示唆されています。
 これまでは高山が世界を思うように牛耳ってきたが、将来どうなるのかは、全く見えていないのである(48)。その上からたくさんの神の働きを担う用木をあつめているが、「いがみかがみ」があれば神の望みに叶うべくもない、用木になれない。そこで神が世界中の胸の掃除を行い、「内を治める真柱」を水を澄ませて早く入れる(56)。神が箒となって働くからそれを見てみよ(52)と言われた。神が掃除をしたら世界中の心が勇んで陽気づくめになり(54)るのであるが、現状では「高山のしんのはしら」は「とふじん」で、これが神の立腹であり、その残念な思いをみなは何と思っているのか、と憤られています(58)。


■(12)きょうのおふでさき《第三号59~76》

 これからハにんぢうそろをてつとめする
   これでたしかににほんをさまる     三号76


 一号29・30で「知りて話して話する」といわれていました。それで61でそれが「何の事やら」と話が実現していないから人に伝わらないことを指摘され、その理由を「これまではいかな話を説いても 日が来たらず見えていない」と説かれました。ところがこれからはもう「せへつう」(節、時節、時期)が到来したので、神が口に出して言えばそのまま見えてくる(63)。
「知りて話して話する」とはおさしづで「鏡やしき」と言われたもので、おやしきに神の思いを実現させて、それを見る人々に神の話が誠・真実であると映していくことによって、広く世界に教えが伝わるようになるというものです。世間からおやしきに映る姿を見せて神の話を弘めようとされたのです。そのためにはおやしきにいる人々の「胸の掃除」が必要でそれを「神がする」(64)と言われています。そして澄んだ水になったら、そこに「しんの柱」(真柱・かんろだい)をいれたならば、「末代しかと治まりがつく」(67)と諭されました。
 この話は、この世を始めた神が説いているのであるから、それを嘘だと思ってはならない(68)。今までも世界には「心学・古記」などと称して説かれていた「庶民の教養」の話であるが、けっして「元を知りたるもの」はない(69)。その元は、無い人間ない世界を拵えた親神の「泥海なかの道すがら」であるから、だれも知る筈のない世界です(70)。
 神の話は、無いこと(目に見えない世界)を説き聞かすのであるが、それは間違いのない真実の話である(72)。「十一に九がなくなりて…」の解釈はいろいろありますが、要は正月二十六日(明治二十年)と日を指定して、それを目標におつとめを完成させるとの神の思いが語られています。そしておつとめの人衆を揃えてかんろだいのおつとめが出来るようになればそのおつとめによって自由自在のたすけの証拠ができて、「にほん治まる」(76)のである。


■(13)きょうのおふでさき《第三号77~91》
 

 このちからにんけんハさとをもハれん
  神のちからやこれハかなわん      三号91

 

 これから何が起こってくるのかという将来への心配、不安は拭いきれない状況にありますが、すでに55で「なにもかも神がひきうけするからハ どんな事でもぢうよぢさを」と言われていました。そしてここでは「たすけ一条であるから」「こわみ」怖いことはなにもない。神のたすけ一条を止めるような事態に至れば、「人間わざ」とはおもえないような力で神の残念が現され「身に障りつく」(79)と言われた。
 これからはそのように「神の心」と「上の心」を引き合わせて力くらべ(83)をする。いかほどの剛的があれば出して見よ。真実の神が表に出ている(85)から、神の方には倍の力で(84)加勢をすると力強く宣言されています。
 この先は「にほん・神」が「から・上」をままにするからみな一れつは承知していよ(87)。木にたとえて言えば、「にほん・神」は根であり、「から・上」は枝であって、枝は折れる、根は小さいように思えども大地から養分を吸い上げて栄えるであろう(88)。その力を見れば恐れ入るだろう(90)。その力は人間業ではなく「神のちから」であるからこれに叶うはずがない(91)、と「にほん」の者(道を歩む者)を激励され、この道は神の力で推進されていることを改めて言い聞かされたのです。

 

■(14)きょうのおふでさき《第三号92~112》

 

 これからハいかなはなしもときをいて

  それみゑたならじうよぢざいや     三号112
 

 この世では多くの人がにぎわしく暮らしているが、その人々に「元」を詳しく知る者はだれもいない(92)、と言われてその「元」についての例を挙げられています。病の元は心違いの道にある(93)。「八つのほこり」の話は誰もが知っていて覚えている話なので、その最初の3つとあと2つの5種を代表的なほこりとして揚げられたのです(96)。そのほこりを払ってめずらしいたすけをする(98)。それは「病まず死なず弱りのない」たすけ(99)「百十五歳定命」と定めをつけたいとの仰せです(100)。
 101からは神は「ふしぎを現してたすけを急き込む」(104)、ふしぎと言われるのは、ほこりを払って掃除をしたて、「はしらをいれたら」(かんろだいを建てておつとめをしたら)「この世の定めがつく」(106)のである。当時、飯降伊蔵に命じて小型のかんろだい雛型を作らせておられたのでこの話をされたものと思われます。そして当時話題になっていたお秀さんは明治3年(「四年以前に」)迎え取られて(109)、このたびその者を「早くかやす」、生まれ変わらせる」(110)準備をされていると言われたのです。こうして話の通りに物事が成ってきて目に見えてきたら、その自由自在(112)の働きに、神の話に、みなも得心するであろう(107)。

 

■(15)きょうのおふでさき《第三号113~127》

 

 これからハせかいの心いさめかけ
  にほんをさめるもよふするぞや     三号114

 

「廿六日にはじめかける」と言われています。明治二十年正月二十六日からはじめかける(113)。何を? 一つは「世界の心を勇めかける」こと、今一つは「にほん治める模様をする」(114)のである。つまり世界に向けて布教伝道を展開し、内に対してはおつとめによってたすけを遂行する(114)というのです。
 さらにこれからは目に見えないことを先に話をする。「ないことばかり説いて」(116)その話が先に目に見えるように「成って来る」実現してくるからその話を聞いて思案せよ(119)と諭されています。ことばがなる(現れる)のである。ところが人々は「上のままだと思っている。しかしそれは違う、「神のままなり」(120)と断言され、これからは、高山に育っている木も谷底にある木もみんな同じ魂であり(125)、人間はみな神のかしものである。神が自由自在に働かれている事、世の中の成り立ちの順序を承知せねばならない(126)。「いちれつはわが身気をつけよ」とわが身に現れてくることに心を配って、神が何時にどこに働きに出られるか(127)その自由用の働きを知るべしだと警告されています。

 

■(16)きょうのおふでさき《第三号128~149》

 

 にち/\に神のはなしをたん/\と
  きいてたのしめこふきなるぞや     三号149

 

 用木を寄せて(128)「ていれ」(131)をして立派な「よふぼく」に育て上げる。自由自在の試しをするがそれはおつとめによるたすけであるから、「ほかなるとこ」、ぢば・おやしき以外の場所ではなされない(133)。そしてその「よふぼく」が自由自在の神の働きを見て、その話が真実であると分かる。「よふぼく」としてどのように働くことができるか、神様は何をよふぼくに求めておられるかを思案させることで、「試し治め」(134)であると言われた。
 その上で、135~137で、かしもの・かりものの教理を説かれます。「この世は神の体」(135)と「身の内よりのかりもの」(137)の話です。世界と身の内は親神の働きで成り立っており、ひとつに繋がっています。それを知らなければ「何もわからん」(137)。これからは高い山でもよふぼくを見出し、上下ともに心を勇ませる(142)。世界の心が勇むならば、もののりゅうけも勇んでくる(143)と諭された。
 145以降は、ほこりだらけの現状を箒をもって掃除して(145)、将来、「ごもく」のない広い道へと多くの人と共に連れ添って通ってもらいたい(146)。高山の説教を聞いて、真実の神の話を聞いて思案してみよ(148)神の話は聞いて楽しめ、それが「こふき」となるのである(149)。

 

2月24日(火)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(4)

 

■「きょうのおふでさき」 第4号のまとめ(2月24日)2026/02/24

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼第四号・(17)~(23) <2026/02/24>

《四号1~20、21~39、40~59、60~78、79~95、96~110、111~134 (7)》

 

■(17)きょうのおふでさき《第四号1~20》

 このさきハをふくハんみちがみへてある
  もふあこにあるこゝいきたなり     四号2

 

 お前たちは道の現状について何も分かっていない(1)が、神にはその先に往還道が見えてあるのであって、だんだんとそこに至るところである(2)。たとえば、五月五日には「お陰詣り」が始まり、夜昼知れんようになる(4)とか、六月には証拠守りをする(5)とか、おやしきに人が次第に集まってくる気配があり、さらにそれから普請を急き込んで忙しくなる(6)と予告めいた話もされています。神が働く時間・旬・刻限が迫っているという感じです。
 おさしづに「秋を合図と言うてある。年を明けたらお陰やと言うて居た。世上はころりと変わりて迫り来た。」(明治23・8・30)とか、「幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。」(明治27・7・26)と言われています。「楽しう理了い次第」はおふでさき十号16にある「田の修理終い次第」でしょう。人の働きが終わった後に神が働くことを言われたもの。
 7~20まではこれから見えてくる往還道への計画が語られています。まずおつとめによって示される「めずらしき道」「多くの人が集まって天のあたゑ」と言ってくる(12)。それはおつとめによって天からさづけられる「ぢきもつ」(かんろ)、「病まず死なず弱らず」の守護である。後に渡される「をびや許し」の御供もその類。そのためにおつとめの人衆をそれぞれの身に障りをつけて呼び集めて(13)おつとめの手を揃えられ、それが合図となって世界だすけが展開される(14)。
 15以降は世界に向けての布教伝道の話となる。神の心を上に見せる(15)、分からせる。「とふぢんころり」を待つ(17)とのこと。「うしさきみち」(18)とは牛の疫病。だから上に従うのをやめて神の言うところに寄り添うようにと示唆された。世界の心が勇むようになれば神の心も勇むのである(20)。

 

■(18)きょうのおふでさき《第四号21~39》

 

 にち/\によふきづとめのてがつけば
  神のたのしゆみいかほとの事      四号23

 

 この号ではおつとめと布教伝道の話がだんだんと説かれています。だんだんと見えてくるどのような道も楽しめよ(22)、陽気つとめの手がつけば「神の楽しみ」である(23)。神は身に障りをつけるのはいろいろな「神の用向き」があってのことで、その思惑を説けば心が勇んで、身の内もすずやかに(すっきりと)なる(28)。かぐらづとめを待ちかねる(29)のである。
 30からは世界に向けて布教伝道の話が展開される。この先は「からとにほんをわける」(33)、つまりからをにほんのものを使って、真実の神の話を教えて、わける、分からせる、分かるように働かれるのである。そうして神の残念が晴れれば、世界の心がみな勇む(35)。そうしてたすけていく。その後は「病まず死なず弱らず」の道に導く(37)。これから先はとにかく、みな教える(39)のである。


■(19)きょうのおふでさき《第四号40~59》

 

 どのよふなところの人がでゝきても
  みないんねんのものであるから     四号54


 親神は陽気ぐらしを目指すが、人間の現状はどうなのでしょう。「みなの心」と「内なるの心」、そのいずれも「神の心」と「大いなるちがい」、大きな隔たりがある(40)。「あすにち」、これからは「神のいぢよ」(一条、言い条・神の話)(41)につかねばならない(41)。神は心違いを「身の障り」をつけて「得心」させる(42)。とにかく神の思惑には深いものがあるのだが、「そばの者」はそれを知らず、何も見えていない。しかしこれが見えたら思案をさだめてもらいたい(45)。この道を早く知らそうと思うが、みなに悟りがないのが神の残念である(47)。
 どのような話でも神の言うことをしっかりと聞いて、神にもたれて陽気づとめの準備に勤しむのである。ここはわたしたちの信仰の基本的様態と言えるでしょう。順境の場面ではなく逆境の状況にあっても心を倒さず進む、その力こそ「真実に心勇んで思案して神にもたれて陽気づとめを」(49)と言われる所以です。神の話を聞いて神にもたれて陽気にくらす。単に事態をそのまま受け入れて「喜ぶ」だけにとどまらない前進する力強さが含まれています。この話は「こゑ一条の話」である(50)。肥のつとめについては『おふでさき註釈』参照。それは心の誠真実が効く(51)と言われています。
 神はよろず万般を教えて、「どこに隔てはさらにない」のである(53)。自分だけにどうしてこんな不都合な事が現れてくるのかと「隔て」を感じる場面はあるかも知れないが、それは自分への「神の用向き」があるからのことで、「みないんねんのものであるから」(54)と言われます。
 天保九年に親神がこの世に顕現されたのも元のいんねんがあって天降られたのです(55)。これからは「たすけ守護」をみな教えて、「からとにほんをわける」(57)道を急き込んで、これが分けたるならば、「よろづは神のまま」になる(59)との仰せです。


■(20)きょうのおふでさき《第四号60~78》


 つとめても初てをどりまたかぐら
  一寸のほそみちつけてあれども      四号74


「神の用向き」という思いがあって、それぞれにいんねんある人が引き寄せられる(60)。その人数は多いのでそのいんねんを見分けるのであるから、どこにも「隔て」はない、「あると思うな」(61)と言われています。親神にとっては「一れつみなわが子」(62)であるから誰もがかわいいので、心を尽くしきる(63)のである。その子供に何もかもを教えて表に出したいという神の急き込みを見よ(64)。親神の思いは「からをにほんの地にする」(66)ことにある。布教伝道をすることにある。その場で働く人が必要である。それ故にいんねんによって人を寄せて、神の思惑を仕込んで子どもを表に出していくという布教伝道の話をされた(66)。「子どもの出世」とは親神の思惑を知ってそれを人々に伝えていく。布教伝道のために表へ出て行くこと。
 日々に神の急き込みこの悩みを思案をしてたすけの段取りをしてくれ(68)。「うち」の者は「上」を思って「いづみいる」が怖みはない。神が請け合う(69)。今までと道が変わっているから、早く往還の道に出るように。それはいつのことかと思っているが、早く出てみよ、もう今のことである(71)。この道の変化は筆に知らせてあるから、早く心に悟りとるようにせよ(72)。これを悟ったら身の内の悩みはすずやかになる(73)。
 これまで教えてきたおつとめであるが、そのはじめはてをどりからであった。そしてその後にかぐらづとめを教えて「一寸の細道」をつけては来たが、草が繁って道がわからなくなっているから、早く本道をつける準備をしてもらいたい(76)。本道がついたら末は頼もしい陽気づくめの往還道となるだろう(77)。村方はたすけを急いている。早く思案をしてその準備をしてくれるよう(78)。


■(21)きょうのおふでさき《第四号79~95》

 いかほどにみゑたる事をゆうたとて
  もとをしらねばハかるめハなし      四号81


 第四号64で言われていた「子どもの出世」の内容が語られています。まずは、親神にとって世界中の人々はすべて「わが子」であるから、一れつハみなをやと思えよ(79)。無い人間ない世界を創造された「をや」(おやさま)が直々に話をしていることを承知するよう促されます。それが話が伝わる前提となるのです。その上で、世界中を対象に「表に出て」説教を説いて聞かせる(80)のである。
 その内容は、見えていることをいくら説いてもその元を知らねば話が分からず、伝わらない。「無いことばかり」を言っておいて、それが実現したらその話が真実・誠であるとあると神の話が相手に伝わる(82)ので、神にもたれて。表に出る準備をするように(83)と言われ(84)心をしずめてその話の「芯」を尋ねよ(84)。
 神の心は急いているが子どもの心はわかりない(86)。しかも「一寸の人」ではない、多くの胸の内の話であるからさらにわからせるのが容易でない(87)と言われる。今までは学問の世界の話では、人間の目に「見える」ことがその対象となっている。「見えない」ことは学問の対象にならなかった(88)。しかしこの先(神の世界)は「見えてないこと」「よろづの事」をみな説いておく。その代表例は、おつとめであり、「この世をはじめて未だ教えた事がない「たすけ道」(たすけの手段)である。おつとめによって、ものが言えない者でも、ものが言えるようにする。どんな難病もたすけるのである(91)。
 その上からおつとめの人衆を確実なものにとして、早くに手をつけよ(92)。そうすことによって世界を治めてたすけを推進いくのである(93)。この道が確かに見えてきたならば、病の根が切れてしまうだろう。真実の心次第ににどこでも、誰でもそのたすけに浴することができる(95)ようになるのである。


■(22)きょうのおふでさき《第四号96~110》

 

 からのぢをにほんぢいにしたならば
  これまつだいのいきどふりなり     四号103

 

「神の急き込み」について何も心配することはないと言われて、これまでと大きく道が変化すると宣言され(97)、口頭で告げるだけでは伝わらないが、しかし説かずにいたら分からないだろうから、神の思惑をだんだんと説くから聞いてくれ(100)と言われて、「からとにほん」の話を展開されます。
 この道を通り抜けたらその先は「からの地」を「にほんの地」にしてある(102)。世界に対してこれまで以上に積極的に働きかけて布教伝道をして教えを広げて行くとの見通しのようです。明治七年からおやさまは赤衣をお召しになり、自らが月日の社であることを人々に強く訴えられました。布教伝道によって教えが世界にどんどんと広めようとされた。そうなったら「末代の生き通り」(103)であると。
 この世を治める「上」がおり、天からこの世のすべてを統べ支配し、守護する「神」がおられる。しかし「上」は「神」の心がわからないので、それを「上下ともに」分ける(107)と言われます。神は目に見えない話を聞かせて将来その話がその通りに見えてくる、実現して成程と分かるようにする(105)「わけてみせる」のである。それは内も世界も隔てなく「胸の掃除」をする(108)。「山いかゝりて」(三号53)ほこりの掃除をするのである(110)。

 

■(23)きょうのおふでさき《第四号111~134》

 

 これからわ高山にてもたにそこも
  もとはじまりをゆうてきかする     四号121

 

 親神はこれまで上に対して何もかも教えたことはない(111)。このたびは「よろづ」のことを上に対してまずは「知らせて」おこう(112)と思う。そうしたらみな寄り合って話する機会があったらならば、その中に神の話を思案するものも現れてこよう(113)。そうしてこの道が上に通じるようになったならば神の自由用自在の働き(たすけ)を直に現す(115)。
 これまでこの世を始めた神の自由自在の働きを見せたことはない(116)。この話を聞いて一れつは思案せよ。何かが見えてくるであろう。「六月を見よ」。みな現れてくる(119)。具体的に何をさしてこう言われたのかは書かれていないが、教祖伝に誌されている明治七年旧暦十月のある日おやさまから仲田儀三郎、松尾市兵衞に対して「大和神社に行き、どういう神か尋ねておいで」と言われ、出向かれたことが発端となったいわゆる「大和神社のふし」さらには「山村御殿のふし」を言われたのだろう。
 今までは「高山は、自分は高山の指導者であると威張っている。谷底にあっては無知な高山に従属していずんでいる(120)。これからは高山にも谷底のものにも、「にほんのもの」から親神の真実の話・この世人間の元初りの話を言うて聞かせる(121)。「この世の元初りは泥の海、その中よりもどじょうばかり…」(122~125)この話は世界たすけの真実の話であり、親神の深い思惑があるのである(127)。
 いままでは「にほん」が「から」に従ってきたが、神はそれを残念に思っている(128)。そのかやしとして神が働く。だれも真似はできないだろう(129)。どれほどの剛的でも神が退くのであるから適うまい(130)。何にても神が自由自在の働きをする(131)。これからはよろづのことをみな説き聞かす。心違いのないようにせよ(134)と諭された。

 

 

3月1日(日)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(5)

 

■「きょうのおふでさき」 第5号のまとめ(3月1日)2026/03/01

 

■おふでさきの区切り《省略》

 

▼第五号・(24)~(29) <2026/02/24>

《五号1~16、17~32、33~45、46~61、62~72、73~88 (6)》

 

■(24)きょうのおふでさき《第五号1~16》

 一やしきをなじくらしているうちに
  神もほとけもあるとをもへよ      五号5

 

「心違いのないようにせよ」(四号134)とあったので、それに関連した話をこの号の最初に語られた。今までは「牛馬に墜ちる」という話は耳にしているだろうが、その先がどうなるかを知られることはないだろう(1)このたびは来生のことをこの世から知らせるから身上に現れてくることを見てよく思案をするように。つまり出直しの時の姿から来生がどのような境遇に生まれ変わるのかが分かるという意味ではなく、身上の障りを見れば来生でどうなるかというわが身のいんねんが分かるようになるという謂のようです(2)。
 どれほどわが身を思っても、神の立腹にはかなわない(3)、それぞれを神が見分けをするのである(4)。同じひとつの屋敷内に暮らしていても「神も仏もあると思えよ」。これは「神のように拝み救われる者、(仏)ほっとけとほっておかれる者」(5)(諸井慶一郎「おふでさき通読」)という意味に理解できます。
 これについては、『増野鼓雪選集 第一巻 講壇より』に以下のような話が載っています。そこから「神も仏も」の意味を知ることができます。

 …正しい道を通ろうと思っても、因縁に打ち克つ力がなければ、自然に善くないことをしてしまう。だから神様は、同じやしきの中にも神もあれば仏もある、とおっしゃった。
 仏とは、このお道ができたから、もう要らんので放っておけということで、役に立たぬ人ということである。あの人は仏のような人であるといえば、いい人だということで、又一面から、ぬけて居るということになる。
神のような人というのは、子供のような心の人をいう。教祖は子供がくると、『小さい神様がきた』とおっしゃったことがある。子供というものは欲気のない、うぶなもので、物をかくしても見えるようにかくしている。又腹一ばい物を食えば、その上欲しいとは言わない。ところが大人になると、腹一ばい食ってもまだ、その上に懐に入れて持って帰るのである。子供のように欲気を離れておれば神様と同じことである。(19ページ)

 神は立腹のかやしをするのでこれを見ていかなものでも得心せよ。善と悪とが分かるようにする(6)。この話を一れつハ思案せよ。同じ心のものは一人としていない(7)。親子であっても夫婦であっても、兄弟でも銘々に心はちがうのです(8)。
 世界中どこのものでも、内も世界もだれでも心のほこりが身に障りとなって現れてくる(9)。それ故に身の内の悩むことを思案して、神にもたれる心を思案せよ(10)。どのような難しいことを言ったとしても、とにかく神の自由自在の働き(たすけ)をはやく見せたい。いままでその自由自在の働き(たすけ)を知っているものはだれもいない(12)。これからはどれほど難しい病であっても、心次第に直らないということはない。真実の心を神が受け取ったならば、いかな自由自在のたすけをしてみせる(14)。そばのものはこの話を早く悟れよ。この話を聞いて悟りがつけば、どのようなことでもみなこの道理である(16)。

 

■(25)きょうのおふでさき 《第五号17~32》

 

 にほんにもこふきがでけた事ならば
  なんでもからをまゝにするなり      五号32

 

 にほんにこふきを拵えて世界に弘める道、これまでは急かずに進めてきたが、これからはその道を急き込んで進めていく(17)。しかもそれは「世界なみ」のものではなく末代のこふきの始まりとなるのである(18)。おつとめの人衆については各人の身の内に障りをつけて知らせる(19)。その身上への知らせ、障り、手引き、意見、また神の立腹のあらわれをみな各人で思案してみよ(20)。それはみなはなんと思って聞いているか、親神は子どもかわいいあまりに口説いていることである。その上からどのような意見、、立腹を現してもそれをたすけないということはない(22)。神の立腹もわが子への意見と思うてみれば、かわいいと思う上からのことである(23)。思案をして心を定めてついてこい、将来には頼もしい道がある(24)。
 今までは心づかいに違いがあっても、その日が来ていなかったので見許してきた。しかしこのたびは掃除をするから承知してくれ(26)。それだけ神の深い思惑があるから(27)。掃除せねば神のむねの真実を分からせることができないのである(28)。この真実の心が芯から分かるようになったなら、元初りのおつとめの手をつける(29)。
 近道も欲も高慢もないように、ただ一条の本道にでてもらいたい(30)それがにほんのこふきとなるのである(31)。にほんにもこふきができたことならば、からをままにする、たすけ、支配をするのである(32)。

 

■(26)きょうのおふでさき 《第五号33~45》

 

 ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ
  こゝろのまことこれがしんぢつ      五号44


 世界たすけはおつとめと布教伝道(からとにほん・高山)によって展開されるが、ここでは布教伝道について述べられる。この世をはじめてからの真実はまだいままで言ったことがない(33)。言わずにいたら伝わらない(34)から言って聞かせるから心をしずめてしっかりと聞いてもらいたい(35)。
 今までは「ほふ」(法、法術)があってそれに拠り所を求めていたが、「ほふ」は効くものではない(36)。それはたとえて言えば枝先の話であって、これから先は根本を教える。それを先の道を楽しむように(38)。その「ほふ」も実はこの世始めた神がなしているものなのである(39)。神が人間の真実を受け取って働くのである。これからはそれに代わって「こふき」を拵えてそれを拠り所にして神が働く(40)。「からやにほん」と言っているがこれから先は「にほん」ばかりである(41)。「にほん」が元、根であり、「から」は枝先であって、先を見ていよ、枝先は折れるものである(42)。どのようなことも元(根本)を知ることが大切である(43)。法術といっても法がえらいのではなく、心の誠が真実(術)なのである(44)


■(27)きょうのおふでさき 《第五号46~61》


 このさきハどのよな事もしんじつを
  をしへてをいた事であるなら       五号47


 心の誠が真の実(術)=こふきのことであると言われてその話をさらに展開されています。それからは真の実(術)=こふきによって、すなわち神の働きによって自由自在をしてみせる(48)。神がその働きをしかけたら世界一れつの人間の心が澄み切る(49)。すなわち真実であると信じられるようになるのである。
 その神の働きは「かやし」であって、神が真実を受け取り次第かやしをするのである。たとえ道のり千里もへだがりがあってもみなかえしをする(51)。受け取り次第かやしをする(52)。善悪共にかえす(53・54)。善きことも言う、悪きを思ってもそのまますぐにかえす(54)。この神の働きが見えてきたならどんな者でも心が澄み切って信じられるようになる(55)。
 きょうの日は何も見えてないが、八月にはみな見えてくる(56)。高い山から往還の道がついてくる(57)。この道をつけようと準備をしているが、傍のものは何も知らずに(58)。このところに呼びに来るのも出てくるのも神の思惑があるからのことである(59)。これは世界なみのことと考えているが、世界なみではなく、めずらしい道ができてくるのである(61)。


■(28)きょうのおふでさき 《第五号62~72》


 このねへをしんぢつほりた事ならば
  ま事たのもしみちになるのに       五号66


 世界にない「何かめずらしい道」があることを示唆されてきのうおふでさきは終わっていました。きょうはその示唆された「めずらしい道」真実の根を掘る道、根を掘の掘り方を教えると言われています(65)そしてその真実の根を掘ったならば頼もしい道になり、上下ともに心が勇むと仰ってます(66・67)。
 だんだんとにほんには知らんことはないようにする(69)。何もかも世界中へ教えたいという神の思惑が深くある(70)のに、世界は神の言うことを何か「危なき事」のように扱っている(71)。当時の明治政府は国家神道の枠組みで天理教を取り締まろうとしているので、そうした意向とと親神の真実のたすけの思いの間には隔絶感がある。それ故に、大いなる神の言うことに「危なき事」があるはずがない、という思いが吐露されているのです(72)。

■(29)きょうのおふでさき 《第五号73~88》

 

 この心すむしわかりた事ならば
  そのまゝみゑる事であるなり       五号77

 

 これからは世界一れつを勇める模様をすると言われ、そのために神の思惑を説き聞かすと前回のところで書かれていました。よろづの事を言っているがそれが伝わらず「わかりたるなし」の状況である(73)。そこでこれからはまず、胸の内を「すます模様」をしてくれ(74)と言われた。神の話がわかるには心がすんでいないといけない。「心がすむ」は、神の話が「信じられる」ということです。だから「わが心より真実をみよ」と言われます。「すんでわかりた」ならば、詳しい説明しなくてもそのまま「見える」のである。つまり「わかる」のである。
 日々の神の真実の働きを知るものはない(78)。そこで神はめずらしい自由自在の働きを「して見せる」(79)。どれも神がすることなすことである(80)。これまではどのようなことも知れなかったが、ちょっと「細い道筋が」見えかけた。その道を先へだんだん進めたら「ほんみち」が見えてくる(82)。これまでの通って来た道は「からもにほん」もわからなかったが、この先は「にほん」すなわち神の教えを体して布教伝道にたずさわるものが「から」に負けることはない(84)。
 神はこの世の元初りの根を掘らそうとしている。力があれば掘りきってみよ(85)。どのようなものも「根を掘った(にほんの)者にはかなうものなしである(86)。布教伝道の場面では、口で言うこと、心で思うことをそのままに神がそれを受け取って「かやし」をする。神が退くからそれが手引きとなって相手の心がすむ、信じられるようになる。そのことをみな承知していよ(88)。こうして第五号が締めくくられています。