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今月のテーマ《ひながたの道》

#5月《ひながたの道》

No.67<ひながたの道>
No.68<五十年の間の道を手本に>
No.69<細い道を通り来た故>
No.70<何処から見ても成程や>

 

No.67<ひながたの道>
【本 文】

難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。(22・11・7)
【解 説】

 このおことばは、教祖のひながたによって三年千日の年祭の歩みをすすめることを仰せになった有名なおさしづの一節です。
 教祖が歩まれた五十年の道は、ひながたの道です。
「ひながた」は、雛形、雛型で、「①実物をかたどって小さく作ったもの。模型。あるいは「②物の手本、様式、書式」(『広辞苑』)の意。教祖が歩まれた五十年の道全体が陽気ぐらしのひながたであるとともに、教祖の歩まれた具体的な歩みのひとつひとつもひながたであると教えられています。
「紋型」の紋は、模様や定められた家のしるし(家紋)のこと。その型が紋型です。「紋型ない」は、形の基礎、拠り所となる原型がないことです。人間が親神によって創造された泥海も「紋型ないところ」と形容されています。
 おことばは、紋型と雛型を照らし合わせて説明されているのです。親神様が人間を拵えたときのように紋型ないところから物事を始めよ、とは仰ってはいません。おやさまの歩みの中に「皆ひとつ/\のひながたの道がある」から、教祖が歩まれた道のなかに、各人がそれぞれ対応した型を見いだしてほしい、との仰せです。
 教祖が歩まれた道に具体的な型が見いだし、またその道全体としても人間の歩むべき陽気ぐらしの型なのです。そのようなひながたがあるのに、その道を通れないというようなことではどうもならん、と諭されれているのです。
 それぞれがもっているものや力を分け合って、出し合って、互いにたすけあい、心を尽くし合って丹精すれば、道の途上で落伍する者もいないし、落ちこぼれることもないでしょう。それは教祖ご自身が歩んでお示し下さったところです。

 

No.68<五十年の間の道を手本に>
【本 文】

聞き難くい事を聞かねばならん事もあり、又不自由な日もあり、又有難い日もあり、どのような道も皆々五十年の間の道を手本にしてくれねばならんで。(20・陰暦5・-)
【解 説】

 どのような道を歩むかはそれぞれ各人の心の自由にゆだねられています。肝心なのは、親神様の思いに叶った真実の心にならせていただくことです。
 おさづけの理を拝戴したときいただくおかきさげに「難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん、言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」と記されています。
 お道では「どうせこうせ」と具体的な行いを指示するのではなくて、各人がこれがしたい、あれがしたいというところを各々自分で選んで進むのです。その中には、「聞き難くい事を聞かねばならん事」もあるし、不自由をせねばならないこともあるでしょう。逆にありがたいと実感できることもあります。どのようなことも、そのとき教祖の五十年の道を手本にしてほしいと諭されます。真実の心のひながたが教祖の五十年の道に示されているから、それを手本に自らが歩む道を悟りとるようにとの思召です。

教祖が五十年の長い間、身を以て示されたひながたこそ、我々道の子が陽気ぐらしへと進むたゞ一条の道であって、このひながたの道を措いて外に道はない。教祖が、いかなる中をも陽気に勇んで通られた、確かな足跡があればこそ、我々人間は、心安く、どのような身上事情の中からも、勇んで立ち上る事が出来る。
 教祖こそ、ひながたの親である。(『稿本天理教教祖伝』第九章)

と教えられるのです。

 

No.69<細い道を通り来た故>
【本 文】

細道は通りよい、往還通り難くい。何を言うと思う。往還通り難くいという理聞き分けたら、三日の間や。なれども、これまで細い道を通り来た故、大き道に成るのやで。(22・11・7)

【解 説】

 往還道とは、大勢の人が行き来できる広くて歩きやすい、楽に歩める道です。逆に細道は一人しか通れないような狭い細い道で、足を踏み外す危険がともないます、歩むのに苦しく難儀不自由な道です。往還道は通り易く、細身は通りにくいと考えるのが普通です。ところが、おことばは「細道は通りよい、往還通り難くい」と諭されています。
 往還道は、広い道であるから道を踏み外す心配はありません。しかし、人は広い道を歩むとき、安心しきって、油断をするのでかえって踏み外すものです。また多くの人が歩むから、真実の心が相互のほこりで濁ることが多い。仲違いが生じることもあります。細道は一人が真実の心をもって、注意をはらって通るから、かえって怪我することもすくないもの。
 今、そのような理由から信仰的に「通り難い」往還道より、細くとも真実の心、澄んだ心で教祖の歩まれた細道を通ることの大切さを言われているのであります。
 教祖が細道を通られたからこそ、今日の「大き道」になったことを忘れてはなりません。来るべき教祖五年祭に向けて、信仰の上から往還道を歩むのではなく、教祖が通られた誠真実の細道を通るように指図されたのがこのおことばであります。
 教祖年祭に向けてのこの旬にこそ、苦しくとも、真実の心で難儀不自由な細道を、教祖が通られたわずか「三日の間」の細道を通れとの思召が示されれているのです。

 

No.70<何処から見ても成程や>

【本 文】

ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。(22・11・7)

【解 説】

 ひながたの話は、おさしづ時代(明治20年以降)に初めて教えられたものではないと思います。おそらく教祖御在世中から仰せになっておられたのではないでしょうか。このおことば「ひながたなおせばどうもなろうまい」(かつて教えておいたひながたの教えを仕舞い込んで、棚上げしていてはどうにもならぬ)とあるのはその裏付けのように思えます。
 神様の話だけを聞いてもらって、この道の教えを人に「成程」と納得してもらうのは、むずかしいかも知れません。しかし教祖が通られたひながたが語られることによって、この道の教え(教理)に生命が吹き込まれます。人に、いきいきと実感をもたらすように思うのです。
 それをおことばは、「これをよう聞き分け、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや」と言われたのではないでしょうか。
 ひながたが説かれることによって、教え(教理)を「わがこと」として受け入れる素地が生まれます。教祖は天保9年に月日のやしろにお定まりになって以来、「世界一れつをたすける」という親神様の思召を実現するため、50年の長い時間をかけて、苦難の道を歩まれ、明治20年にお姿を隠されてからも存命の働きをもって、今も私たちを導き励まされているのです。教祖の道具衆と言われるよふぼくたるものは、その「一れつ子供をたすけたい」との教祖の心を「わが心」としてひながたの道を通らせてもらいたいものです。