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今月のテーマ《楽しみの種》

#4月《楽しみの種》

No.63<立毛作るも同じ事>
No.64<道の花>
No.65<道楽しむ>
No.66<通った中に道ある>

 

No.63<立毛作るも同じこと>
【本 文】

紋型無い処から、今日の道という。嘘はあろうまい、農家の立毛作るも同じ事、何ぼの楽しみとも分からん。(32・2・2)
【解 説】

 このおことばのすぐ前の一節に「日々尽し果たした者は、成る処から、育てゝやらにゃならん。成るだけの世話せにゃならん。めん/\の物分けてやれば、落ちる例しは無い。」とあります。先に道を歩んでたすける力のあるものは、後から「尽し果たし」て困っているものをしっかりと育てる、世話取りをするようにと諭されています。
 当時、お道は、安堵事件や前橋事件のような内憂、布教者は、内務省訓令によって警察の取り締りが強化され、官憲による干渉も容赦なく行われた外患で、真実の信仰者を選りすぐるためにふるいにかけられた、そんな状況でありました。そんななかであったからこそ、確固たる信仰を維持していくことの大切さをおさしづでは諭されています。
 教祖が歩まれた道は、「紋型無い処から」始められ今日のような道になってきたのです。その道の姿を見れば、教祖の話が真実であって、嘘ではないことはよく分かるはずです。
 種を蒔いて作物を作る農家のように、農作物の収穫を大きな楽しみに修理丹精することが大切です。「立毛」は「たちげ」「りつもう」と読みます。「田畑で生育中の農作物」のことです。
 それぞれがもっているものや力を分け合って、出し合って、互いにたすけあい、心を尽くし合って丹精すれば、道の途上で落伍する者もいないし、落ちこぼれることもないでしょう。それは教祖ご自身が歩んでお示し下さったところです。

 

No.64<道の花>
【本 文】

元々西も東も北南も、何にも分からん中から出けた、なか/\の道やで。茨路とも崖路とも細路とも言う、容易ならんこの道である程に。今の道は今一時に成った道やあろうまい。この心しっかり治めて事情掛かるが、道の花とも言う。(32・6・6)
【解 説】

 一派独立請願運動はこのころより始まって、明治41年に認可されるまで約10年の長き要しました。このおことばは、「本部員教会長一同打ち揃い出席の上」その心構えを諭されたものです。
 教祖お一人からはじまったこの道です。混沌とした泥海のなかから人間が創られたように、この道のはじめも「西も東も北南も、何にも分からん」無秩序な混沌としたありさまであった、と言われています。そのさまを道にたとえて教えられました。おふでさきには、
    やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら(一号47)
    まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり(48)
    ほそみちをだん/\こせばをふみちや これがたしかなほんみちである(49)
と誌されて、
    このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事(50)
と結ばれています。
 おさしづは、「茨路とも崖路とも細路とも言う、容易ならんこの道である程に」とあり、今日の盛大な道の姿はけっして「今一時に成った」のではない。何事も道を付けるのは容易でない。一派独立もそうした教祖の歩まれた道に心寄せて、その精神をもって「事情に掛かる」がよいと指示されているのです。信仰生活の途上で出会うさまざまな困難・苦難はみな「道の花」である、と諭されています。きれいな花は、見る人の心をなごませ、そして先に結実して心の糧となるのです。

 

No.65<道楽しむ>
【本 文】

楽の道は通りよい。さあ、しんどいなあと言うて、一服して、寒いで火を焚いて、まあ一服々々というようになったら、何思ったて、彼を思ったて、どれだけ焦ったて、どうしたて、明らか道楽しむ事出け難くい/\。(34・3・7)

【解 説】
「一服」は薬・茶・タバコなどを一回のむこと。転じて、ちょっとのあいだ休むこと。
 教祖お一人からはじまったこの道だが、だんだんと大きくなってくると、ここまで来たらもう大丈夫というような心になりやすいものです。「しんどい」(辛い)と言って一服、厳寒の折なら寒いからと火を焚いて「まあ一服」というようになったなら、「何思ったて、彼を思ったて、どれだけ焦ったて、どうしたて」神様の働きを見せてもらえなくなります。働きを見せて頂けないとなれば、道を楽しむことが出来ない、出来にくいと言われているのです。
 おさしづは、この後、さらに「どんな事及ぶも、道からという心無けにゃならん。外へ力入れて居ては、薄うなる」と続いています。やっていることがお道と直接関わりないことでも、神様の心をもって、お道の精神で、取り組むことが大事です。世界の人にたすかってもらいたいという気持ちをもって、優しい心で携わるよう諭されたものと思います。「外へ力入れていていては」、すわなちお道の以外のところに心を寄せていては、道を楽しむことはできにくい。神様の働きが薄くなると警告されたのです。
 このおことばをいただかれた永尾よしゑは、本席様の長女。「しんどいなあと言うて、一服」されるような方では決してなかったと思います。『稿本天理教教祖伝逸話篇』(一一一・朝、起こされるのと)に、次のような教祖のお話が記されています。
「蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」
「道楽しむ」とはまさにそのようなあり方ではないでしょうか。

 

No.66<通った中に道ある>

【本 文】

この道艱難苦労の道も通りたやろう。通りたならこそ、この道が出て来たのや。澄んだ事出来て来るは神さんの守護や、神の守護やと言う。通った中に道ある。真の心以て出来て来る。皆大抵やない。山坂をも道を付けたら楽々の道も運ばれるやろう。(26・12・16)

【解 説】

 親神様が教祖をやしろにしてこの世の表にお現れにあり、五十年の長きにわたってこの道をつけられ、艱難苦労を乗り越えて今日の盛大な道が実現しました。そうした教祖の道を親神様の視点からご覧になって説かれたのがこのおさしづであると思います。
 おことばは、教祖がつけられたその道をともに歩むわたしたちへのおさとし、と受けとめることができるでしょう。
 教祖がこの道を、艱難苦労のこの道を通られたように、この道を慕って歩むよふぼくにも艱難苦労の道があったでありましょう。しかしその道を通ったならこそ、今日の道が出来てきたのです。親神様のお話を胸に治めて、清水のように澄んだ心にならせていただくとき、その心通りに物事が成就します。物事が成ってくるのは親神様の働き、ご守護によるのです。
    あすにちハどふゆうみちをみるやらな しんの心があらわれてくる 十二号177
 人間の心通りに親神様が働かれて現し、胸の掃除をして、たすけると言われています。おことばでは、「真の心以て出来て来る」とあります。この心が現れてきたら、「皆大抵」なことではないが、その道がどれほど険しい山坂であっても、いったん道がつけば「楽々」と運べるのです。先に通った者がいるこの道であるからこそ容易に歩めるのです。