
この間、標題の本を購入、すぐ読みました。おもしろかったので報告します。
書評は、産経新聞に西尾幹二氏が要領よくその主張を書いてます。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140406/bks14040608550007-n2.htm
ご自身のブログ(西尾幹二のインターネット日録)にも掲載されています。ちなみに、このブログ、わたしが愛用しているもの(WordPress)と同じ、たまたまですがトップページの写真も同じです。WordPressのデフォルトまま使ってます。
欧米人の日本に対する誤解や偏見がこのようにして醸成され、それがまた中国の日本たたきの論拠になっているのですから、まことに罪深いと思います。
その根っこの部分は、新田均氏が『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所・2003年刊)で展開した国家神道論と相通じています。

以前に書いたその本の解題を掲示します。西尾氏の書評と照らしてお読み下さい。
新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP研究所刊・2003年)の解題
●大教宣布運動
明治初期、列強に対抗して独立を維持するために、国家との一体感、国民としての一体感、そして国家への忠誠心を国民全体が抱くようになることが急務であると考えられた。そこで「国民意識」形成運動が政府主導で展開されたが、それは神道を主とし、仏教・儒教を従とする形をとった。明治5年(1872)から8年(1875)にかけてのことである。教化に従事した神職・僧侶らは「教導職」と呼ばれ、教化の綱領として「敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事」「天理人道ヲ明ニスヘキ事」「皇上を奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」という三カ条(三条教則)が与えられて、これに従って説教を行った。
ところが、神仏教導職合同の「教化研究機関」兼「説教施設」として設けられた大教院(たいきょういん)という場所で騒動が持ち上がった。政府は芝増上寺に設置された大教院に祭壇を設け、そこに造化三神(ぞうかさんじん・古事記に冒頭に登場する天之御中主神<あめのみなかぬしのかみ>、高御産巣日神<たかみすびのかみ>、神産巣日神<かみむすびのかみ>)と天照大神<あまてらすおおみかみ>を祀り、その礼拝を僧侶にも強制した。このため、神を拝まずを教義とする浄土真宗が反発して、大教院から離れて独自に布教することを要求して運動を起こしたのである。これを「大教院分離運動」という。この騒動は1年半あまり続いたが、結局、真宗の主張が認められ、真宗独自布教が許されたばかりか、大教院も解体されて、神仏合同布教そのものが中止されてしまった。(真宗以外の仏教各宗は必ずしも合同布教に異議を唱えていなかった)。
この騒動直前に、当時浄土真宗本願寺派(西本願寺)の指導的立場にあった島地が起草し、門主の大谷光尊の名で太政大臣三条実美に提出した興味深い文書が残っている。そこには、「皇室を尊奉する以上はその祖先である天照大神をも敬崇するのは当然であるが、造化三神などいうものは神道家が考え出した宗教説で、一人で二つの宗教を信じることはできないから、真宗としてはとうてい認められない」と書かれている。
明治十年代の一般国民にどう説かれていたか。数多く残されている「三条教則」の解説書からそれを推し量れる。そうすると、天皇を天照大神の子孫、すなわち「神孫(しんそん)」「神胤(しんいん)」「神裔(しんえい)」とする説明が多い。中には「神孫」だから「現人神」と「称し奉る」としている例がいくつか見られる。
他方で「国民も神の子孫である」と解説している例が多いことは注目に値する。こうした例から考えると天皇「神孫」論においては、天皇と国民の区別は、天照大神の子孫であるか、その他の神の子であるかにあるのであって、「天皇も国民も共に神の子孫」であるという点では変わりがない。したがって、この議論においては、神の子孫である「神格」は、天皇に絶対性を与える者とはなり得なかった。この論、国民「神孫論」は明治20年代以降も、民間で出版されたさまざまな「教育勅語」の解説書に引き続き、しかも度々登場している。
●大教院解体後
神道事務局に出雲派と伊勢派にわかれて内紛がおこって、その結果、神道家に自由な布教を許しておいたのでは、神道界の内紛が繰り返される可能性があり、そうなると国家が祀る神々の権威が失墜しかねないという危惧の声があちこちからおこったので、政府は、明治15年1月、上級神主が布教や葬儀を行うことを禁止するという措置をとり、この影響で、神道界は祭祀に従事する神社神道と布教や葬儀に従事する教派神道とに分化していくことになった。
●現人神」の創作者-加藤玄智
昭和の「現人神」論に通じる思想の先駆けとなった人物は、浄土真宗の信仰を持ち、東京帝国大学で宗教学を教えていた加藤玄智である。彼は、日露戦争以降の神道を研究する外国人が現れてきたのに刺激されて神道研究を初め、その成果を明治45年に『我が国国体思想の本義』と題して刊行した。
この本の中で彼はまず東京帝国大学名誉教授で日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンが明治44年に発表した「新宗教の発明」という論文を取りあげて、「外国人研究者には日本の真相が十分にわからないために、誤解がひろがる恐れがあり、したがって日本人自身が有りのままの日本を外国に伝える必要がある」とその執筆動機を語っている。加藤が問題にした論文においてチェンバレンは、日本人の天皇崇拝などというものは、欧化主義の流行によって国民の愛国心が失われることを恐れた政府が、明治20年代以降に生み出した新しい宗教運動にすぎないと断じている(『日本事物誌1』平凡社東洋文庫、所収)。
これに対して加藤は、天皇崇拝の由来の古さを指摘し、宗教学的視点からその意義を解説して、チェンバレンの議論を非難しているのだが、その中に、これまでの論者に見られなかった議論が登場してきている。加藤はまず、「日本人は皆神の子」「天皇陛下は殊に秀でて神の御子孫」という従来の説を一応肯定しつつも、「否代々の天皇陛下は、一方から申しますれば、天神の神胤、即ち神の子と申すことが出来ますけれども、亦他方からは、陛下のことを明神(あきつかみ)とも亦現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身であるといふことであります」(『我が国体思想の本義』)と、「神孫」論と「現人神」論との区別を提唱した。そして、古来天皇は「至尊(しそん)」「主上(しゅじょう)」「上御一人(かみごいちにん)」と呼ばれており、ここから「明らかにバイブルにおける神の地位を日本では天皇陛下が取り給ふて居つた」と言い、「日本に於きましては天皇陛下に対し奉る時は我々臣民は絶対的服従でありますが、西洋に於きましては、歴史的に神に対して絶対的服従を要求されて居ることになつて居ります」と主張する。
絶対神的天皇論の登場である。彼は、この日本人の精神のあり方を「天皇教」と呼び、「西洋にあっては即ち神、日本にあっては天皇陛下、西洋にあっては宗教上の信仰、日本にあっては忠孝一本、西洋にあっては基督教、日本にあっては天皇教」という対応図式を提起している。
加藤はこれ以降多くの著書を通じて、この考えを国内に広めていった。そればかりでなく、英文の著書も刊行して海外へも宣伝した。特に彼の議論が大東亜戦争中のアメリカのもっとも辛辣な神道の批判家であって、アメリカ人の通説的な神道観を形成したと言われるD・C・ホルトムは、加藤の影響強く受けた人物だったからである。ホルトムはその著書“Modern Japan and Shinto Nationalism”(1943年)の中で、加藤を「近代委神道復興の解説者としてもっともよく知られている」人物であると紹介した上で、加藤の説を次のように引用している。「博士は『中国人の中で天と上帝が占める地位、あるはユダヤ人の中でエホヴアの神が占める地位は、日本では古くから天皇が持っておられた』と述べ、また『天皇は昔から「あつき神」(眼に見える神)、「あらひと神」(人間の姿をした神」および「あらみ神」(人間の姿をした大神)と呼ばれて来た』といつている」(深澤長太郎訳『日本と天皇と神道』)このホルトムの著述の影響は、アメリカ国内にとどまらず、敗戦後の日本にも及んでいる。
加藤のこの論をして、日本人は人間を絶対神と同一視するとんでもない民族だとの驚きをまじえた嫌悪感を西洋人の間に広めてしまったようだ。加藤は今日では忘れ去られてしまった学者の一人なのだが、一学者の主張が日米関係に及ぼした影響の大きさを思うとき、私は学問という営みの重大さに粛然たる思いを禁じ得ない。
●上杉慎吉の天皇絶対論 東大教授。憲法学者。
●「八紘一宇」の提唱者-田中智学。明治後半から昭和にかえて活躍した在家の日蓮主義者。
こうしてみると、不思議なことに、加藤玄智といい、田中智学といい、絶対的な「現人神」論の背景には強烈な仏教信仰の存在が見え隠れしている。
この後、この考え方が政府の公文書の反映されるところに行き着くには、いくつかの曲折があるが、それについては新田氏の著書にまかせることにする。
●「国家神道」
「国家神道」という用語は、「戦後の人口に膾炙する」ようになったもので、戦前にはそんなに使われる言葉ではなかった。たまに用いられる場合でも、「国家管理された神社神道」を指す、言い換えれば「神社神道が国家管理されている状態」のことをいう、範囲の狭い用語にすぎなかった。「この国家神道」観を転換して、「巨大なイデオロギー装置たる国家神道」という見方を提唱したのが加藤だった。
●大正8年2月 『我が国体と神道』 日本人にとって天皇は、ユダヤ人における「ヤーヴェ」や支那人における「天」に相当し、この天皇に対する忠誠心は一種の宗教であるとして、それを「天皇教」と呼ぶとの主張を繰り返し、これこそ「神道の極意にして、神道の真髄中核」であるとした。
●大正11年5月 『神道の宗教学的神研究』
●昭和元年 “A STUDY OF SHINTO,The Religion of the Japanese Nation” 神道をまず、宗派神道(いわゆる教派神道)と国家的神道に分類し、さらに国家的神道を神社神道と国体神道とに区分している。神社神道が神道の儀式や神社において表現されているのに対して、国体神道は日本人の国家組織や歴史と不可分の関係にある倫理的教えや道徳的教説から成り、明治23年に明治天皇によって渙発された「教育勅語」の中に公式に表現され、それが今日全国学校で教えられている」と述べた。ここにおいて、「日本には現人神信仰を注入するために神社神道と学校教育とを結合した巨大なイデオロギー装置としての『国家神道』が存在している」という「国家神道」像が登場したのである。
●昭和10年9月 『神道の宗教発達史的研究』 「征司の方面に於いても、この国体神道の精神で我国の政治は行はれてをるのである」と主張した。
●昭和10年10月 『神道の再認識』でさらにエスカレートする。単に人間としての天皇を尊敬するだけで、現人神としての側面を認めない宗教は、仏教も、キリスト教も、イスラム教でも、すての日本の国体に合わないものとして、「全然之が日本の国内の布教を禁止すべき」だと提唱するに至る。
しかし加藤の考えていた国体神道なるものは実在するものではなく現象の奥に内在する理念、彼がかく現れるべきものとして想定した理想状態にすぎなかった。天皇や高祖高宗を現人神として絶対的に崇拝すべきだとする教育など、明治以来この方行われていなかったのである。一神教的天皇観の提唱者は加藤自身であったのだから、それ以前に行われるはずがないのである。
●幻想の媒介者-D・C・ホルトム
加藤玄智によって言い出され、ホルトムによって昭和十年代の諸々の言説を取り込んで明治以来の来歴を有する「現実」として認識された「国家神道」が、戦後日本人の知識人たちの意識を呪縛するようになったきっかけは、占領軍が昭和20年12月15日に発したいわゆる「神道指令」であった。
それによるとGHQは、神話に由来する神聖な天皇・国民・国土という思想が侵略戦争イデオロギーとして悪用されたのが国家神道イデオロギーであり、このイデオロギーを国家管理された神社と教育を通じて国民に注入する装置が存在し、それが「国家神道」だった、と考えていたのである。
●国家神道「幻想」の拡大者-藤谷俊雄
昭和34年6月 『日本宗教史講座』第一巻(三一書房)で「国家神道の形成」とう章を設けて解説した。
●虚像の完成者-村上重良
昭和45年11月 『国家神道』(岩波新書) 「国家神道は、民族宗教としての神社神道を、二十世紀なかばにいたる固定化した、時代錯誤の国教制度であった」
●憲法学会への宣教者-宮沢俊義
昭和46年12月 『憲法Ⅱ(新版)』(有斐閣) 「明治憲法は、神権天皇制をその根本義とし、その当然の結果として、天皇の祖先を神々として崇める宗教-神社または惟神道(かんながらのみち)-を、ほかの宗教と同じに扱うことを好まなかった。このとに、明治憲法の基本理念とされた天皇崇拝精神的基盤を固めるために、天皇の神格の根拠としての神社に対して、国教的性格を与えることを必要と考えた。こうして国家神道が成立した。…そして、一般国人に対しても、神社参拝を強制し、ことに官公吏に対しては、公の儀式として行われる神社的儀式に参列する義務を負わせた。/明治憲法が信教の自由を定めたことと、かように神社を国教的に扱うこととは、明らかに矛盾する。この点をどう説明するか。当時の政府は、『神社は宗教にあらず』という説明で、その矛盾を解消しようとした。
こうして宮沢は、明治初期から「現人神」教育が徹底されていたのだと、戦後の法学者に向かって解説してみせたのである。無言の内に、彼はそれを自らが時代の体験者であるという、戦後世代には疑義を呈しがたい高みから論じている。この戦後憲法界の大御所の教説が、拳法界・司法界にどれほど大きな禍根を残したかは、昭和52年、津市地鎮祭事件の最高裁や、平成4年、愛媛県知事玉串料等奉納事件の高裁の判決文に明らかである。
●神社参拝は法的に強制されたか
「現人神」信仰という虚像
国民個人に対する「法的強制」などなかった
●強制された「事実」とは?
「国家的な神社」などほとんどなかった
●「神社非宗教」論とは何だったのか
国家神道による宗教弾圧の現実は、国家神道というべきものではなく、むしろ啓蒙的科学合理主義である。それは啓蒙的科学合理主義の宗教弾圧でも称すべきものであった。
国家神道あるところに浄土真宗あり!
新田氏の所論はこのように展開されていています。そうした「幻想の媒介者」としてD・C・ホルトムをあげて、高橋氏の主張と軌を一にしている点が注目されます。