2月16日(月)「きょうのおふでさき」アーカイブ版(3)
■「きょうのおふでさき」 第3号のまとめ (2月16日) 2026/02/16
■おふでさきの区切り《省略》
▼第三号・(8)~(15) <2026/02/16>
《三号1~14、15~27、28~41、42~58、59~76、77~91、92~112、113~127、128~149 (9)
■(8)きょうのおふでさき《第三号1~14》
このたびハもんのうちよりたちものを
はやくいそいでとりはらいせよ 三号1
「門の内より建物を取り払いせよ」について 『みちのとも』昭和3年11月20日号 に関連する記事があります。その画像を掲示しておきます。当時のおやさきの様子が窺えます。
「やしきの掃除」について話されるなかで、この「門の内より」の話は、当時のおやしき内、つとめ場所の東側に掘っ立て小屋のような粗末な建物があって、明治初年ごろ秀司先生の妻子が住まわれていたようで、その建物を取り払って別の建物を建築するというものであったが、当時おやしきも余裕のある時代でなかったので、おやさまの意向に添おうとされていたが、なかなかできなかったようです。『みちのとも』誌のこの記事にあるように、おやさまとしてはご自身が住まわれれる建物と、神意を伝達される場所は分けて設える意向だったが、状況が厳しくてできななくなり、結局、明治16年に「御休息所」が出来るまで「中南の門屋」と呼ばれたここの処でおやさまがお住まいになられれて、そこで神意も取り次がれていたようです。
「やしきの掃除」がすんだら、その後は神一条で心が勇むる(3)。世界の心が勇むようになればそれが「にほん」の治まりとなる(4)。その後は、「ふしぎあいづ」(5)が見えるようになる、心をすませて「しんのはしら」を入れると仰せられ、水にたとえて心すます話(8~14)をされ「これを悟ったら証拠だめし」(14)だと諭されました。
■(9)きょうのおふでさき《第三号15~27》
はや/\とみへるはなしであるほどに
これがたしかなしよこなるぞや 三号26
この世人間を創造した元の神であるから、そのような神を知っているものはないのが当然です(15)。今日まで何も無かった混沌たる泥海のような世界から、親神の守護・働きで世界を、そして人間を育み育て上げてきた。今もその創造の最中にあって盛んな様相を呈している(16)。この度はその創造の働きをたすけの上に実現しようとしているが、それもこれまでに無いことを始め掛けようとしているのである(17)。そんなことができるのは「元拵えた神」であるからである(18)。
たすけ一条の道をつけようとそのやまやまなる話を説こうとしている(19)が、「心をすまして(おやさまの話を信じて)聞くものがいないから」(20)説くに説けないのである(20)。すみやかに心を澄ませて聞くならば、その話を説き聞かす(21)。何もなしに心を澄ませて神の話を信じろと言っても難しいだろうから、「試し」をかけてある(22)。試しが実現するのを見れば、見えればそれが証拠となって、神の話が誠・真実であるとわかるだろう(26)。神の説く話はすべてこの道理、「証拠を見て信じる」という証拠信心の道なのである(27)。おやさまの話を信じて通るように諭されたのです。
■(10)きょうのおふでさき《第三号28~41》
にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら 三号41
28では人間世界の道理、「人の物を借りたら理が要る」「理を返済して、礼を言う」と語られ、それを神の世界に敷衍されながら話を進められ、結局「人間はみな神のかしもの」(41)であるという結論に導かれています。
人間にはまずこの神の話が真実であることを受け入れて、それを信じて歩む決断を迫られますが、その間に、人間の心ちがいを知らせるという話が語られます。
「子の夜泣き」は「神の口説き」である(29)。この話はおさしづにも言及されています。
さあ/\夜泣き、子が泣く、どんな事情も諭してある。よう聞け。何にも彼も神口説き、皆ふでさきにも知らしてある。(22・5・7)
「親々の心違いのないように思案を」(31)。「今さえ良くば」と思う心は間違いである(33)。それは「末の道筋が見えていないから」(34)である。「今の道を嘆かず先の本道」を楽しみに(37)「先の往還道」(36)を見て進めよ。「この世は神の身体であることを思案して(40)親神の「たすけ一条の心」に従っていれば「何も言わなくても親神はその心を受け取って守護をするのである。
■(11)きょうのおふでさき《第三号42~58》
いまゝでハなによの事もせかいなみ
これからわかるむねのうちより 三号43
ここでは「たすけ一条」について説かれています。
今年にはいままでだれも知らなかったような「めつらしい事」、おつとめでたすけるという話が背後にあるようです。それを進めていく(42)。「教祖伝」にも誌されているように、おやさまご自身が「をびやためし」でそれを見せて示されましたが、そのたすけは、これまで世間で行われてきた「拝み祈祷」「伺いを立てる」ような方法ではなく、「よろつの事」を説き聞かせて、その話に心を開いて、心の入れ替えをして「人たすけたらわが身たすかる」(47)という道である。「拝み祈祷」「伺いをたてる」は立教の時の修験者を仲介にしたやり取りを連想します。そういうものの抜本的な対応の上にこの道が始まっていることを示唆されています。
これまでは高山が世界を思うように牛耳ってきたが、将来どうなるのかは、全く見えていないのである(48)。その上からたくさんの神の働きを担う用木をあつめているが、「いがみかがみ」があれば神の望みに叶うべくもない、用木になれない。そこで神が世界中の胸の掃除を行い、「内を治める真柱」を水を澄ませて早く入れる(56)。神が箒となって働くからそれを見てみよ(52)と言われた。神が掃除をしたら世界中の心が勇んで陽気づくめになり(54)るのであるが、現状では「高山のしんのはしら」は「とふじん」で、これが神の立腹であり、その残念な思いをみなは何と思っているのか、と憤られています(58)。
■(12)きょうのおふでさき《第三号59~76》
これからハにんぢうそろをてつとめする
これでたしかににほんをさまる 三号76
一号29・30で「知りて話して話する」といわれていました。それで61でそれが「何の事やら」と話が実現していないから人に伝わらないことを指摘され、その理由を「これまではいかな話を説いても 日が来たらず見えていない」と説かれました。ところがこれからはもう「せへつう」(節、時節、時期)が到来したので、神が口に出して言えばそのまま見えてくる(63)。
「知りて話して話する」とはおさしづで「鏡やしき」と言われたもので、おやしきに神の思いを実現させて、それを見る人々に神の話が誠・真実であると映していくことによって、広く世界に教えが伝わるようになるというものです。世間からおやしきに映る姿を見せて神の話を弘めようとされたのです。そのためにはおやしきにいる人々の「胸の掃除」が必要でそれを「神がする」(64)と言われています。そして澄んだ水になったら、そこに「しんの柱」(真柱・かんろだい)をいれたならば、「末代しかと治まりがつく」(67)と諭されました。
この話は、この世を始めた神が説いているのであるから、それを嘘だと思ってはならない(68)。今までも世界には「心学・古記」などと称して説かれていた「庶民の教養」の話であるが、けっして「元を知りたるもの」はない(69)。その元は、無い人間ない世界を拵えた親神の「泥海なかの道すがら」であるから、だれも知る筈のない世界です(70)。
神の話は、無いこと(目に見えない世界)を説き聞かすのであるが、それは間違いのない真実の話である(72)。「十一に九がなくなりて…」の解釈はいろいろありますが、要は正月二十六日(明治二十年)と日を指定して、それを目標におつとめを完成させるとの神の思いが語られています。そしておつとめの人衆を揃えてかんろだいのおつとめが出来るようになればそのおつとめによって自由自在のたすけの証拠ができて、「にほん治まる」(76)のである。
■(13)きょうのおふでさき《第三号77~91》
このちからにんけんハさとをもハれん
神のちからやこれハかなわん 三号91
これから何が起こってくるのかという将来への心配、不安は拭いきれない状況にありますが、すでに55で「なにもかも神がひきうけするからハ どんな事でもぢうよぢさを」と言われていました。そしてここでは「たすけ一条であるから」「こわみ」怖いことはなにもない。神のたすけ一条を止めるような事態に至れば、「人間わざ」とはおもえないような力で神の残念が現され「身に障りつく」(79)と言われた。
これからはそのように「神の心」と「上の心」を引き合わせて力くらべ(83)をする。いかほどの剛的があれば出して見よ。真実の神が表に出ている(85)から、神の方には倍の力で(84)加勢をすると力強く宣言されています。
この先は「にほん・神」が「から・上」をままにするからみな一れつは承知していよ(87)。木にたとえて言えば、「にほん・神」は根であり、「から・上」は枝であって、枝は折れる、根は小さいように思えども大地から養分を吸い上げて栄えるであろう(88)。その力を見れば恐れ入るだろう(90)。その力は人間業ではなく「神のちから」であるからこれに叶うはずがない(91)、と「にほん」の者(道を歩む者)を激励され、この道は神の力で推進されていることを改めて言い聞かされたのです。
■(14)きょうのおふでさき《第三号92~112》
これからハいかなはなしもときをいて
それみゑたならじうよぢざいや 三号112
この世では多くの人がにぎわしく暮らしているが、その人々に「元」を詳しく知る者はだれもいない(92)、と言われてその「元」についての例を挙げられています。病の元は心違いの道にある(93)。「八つのほこり」の話は誰もが知っていて覚えている話なので、その最初の3つとあと2つの5種を代表的なほこりとして揚げられたのです(96)。そのほこりを払ってめずらしいたすけをする(98)。それは「病まず死なず弱りのない」たすけ(99)「百十五歳定命」と定めをつけたいとの仰せです(100)。
101からは神は「ふしぎを現してたすけを急き込む」(104)、ふしぎと言われるのは、ほこりを払って掃除をしたて、「はしらをいれたら」(かんろだいを建てておつとめをしたら)「この世の定めがつく」(106)のである。当時、飯降伊蔵に命じて小型のかんろだい雛型を作らせておられたのでこの話をされたものと思われます。そして当時話題になっていたお秀さんは明治3年(「四年以前に」)迎え取られて(109)、このたびその者を「早くかやす」、生まれ変わらせる」(110)準備をされていると言われたのです。こうして話の通りに物事が成ってきて目に見えてきたら、その自由自在(112)の働きに、神の話に、みなも得心するであろう(107)。
■(15)きょうのおふでさき《第三号113~127》
これからハせかいの心いさめかけ
にほんをさめるもよふするぞや 三号114
「廿六日にはじめかける」と言われています。明治二十年正月二十六日からはじめかける(113)。何を? 一つは「世界の心を勇めかける」こと、今一つは「にほん治める模様をする」(114)のである。つまり世界に向けて布教伝道を展開し、内に対してはおつとめによってたすけを遂行する(114)というのです。
さらにこれからは目に見えないことを先に話をする。「ないことばかり説いて」(116)その話が先に目に見えるように「成って来る」実現してくるからその話を聞いて思案せよ(119)と諭されています。ことばがなる(現れる)のである。ところが人々は「上のままだと思っている。しかしそれは違う、「神のままなり」(120)と断言され、これからは、高山に育っている木も谷底にある木もみんな同じ魂であり(125)、人間はみな神のかしものである。神が自由自在に働かれている事、世の中の成り立ちの順序を承知せねばならない(126)。「いちれつはわが身気をつけよ」とわが身に現れてくることに心を配って、神が何時にどこに働きに出られるか(127)その自由用の働きを知るべしだと警告されてい ます。
■(16)きょうのおふでさき《第三号128~149》
にち/\に神のはなしをたん/\と
きいてたのしめこふきなるぞや 三号149
用木を寄せて(128)「ていれ」(131)をして立派な「よふぼく」に育て上げる。自由自在の試しをするがそれはおつとめによるたすけであるから、「ほかなるとこ」、ぢば・おやしき以外の場所ではなされない(133)。そしてその「よふぼく」が自由自在の神の働きを見て、その話が真実であると分かる。「よふぼく」としてどのように働くことができるか、神様は何をよふぼくに求めておられるかを思案させることで、「試し治め」(134)であると言われた。
その上で、135~137で、かしもの・かりものの教理を説かれます。「この世は神の体」(135)と「身の内よりのかりもの」(137)の話です。世界と身の内は親神の働きで成り立っており、ひとつに繋がっています。それを知らなければ「何もわからん」(137)。これからは高い山でもよふぼくを見出し、上下ともに心を勇ませる(142)。世界の心が勇むならば、もののりゅうけも勇んでくる(143)と諭された。
145以降は、ほこりだらけの現状を箒をもって掃除して(145)、将来、「ごもく」のない広い道へと多くの人と共に連れ添って通ってもらいたい(146)。高山の説教を聞いて、真実の神の話を聞いて思案してみよ(148)神の話は聞いて楽しめ、それが「こふき」となるのである(149)。
■きょうの自炊本
☆きょうの誕生日の花と花言葉(NHKラジオ深夜便) は「 レンテンローズ」「丈夫」 です。