創業大正十五年 蓼科 親湯温泉
知と自然に囲まれた大人の寛ぎおこもり宿。
渓流沿い5つの絶景露天風呂と個室レストランで堪能する蓼科山の幸。
3万冊蔵書ラウンジの知的な空間で寛ぎ、ハイダウェイステイ(秘境のおこもり旅)を愉しむ。
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蓼科の正統な歴史と 文化を守り続ける、 蓼科親湯温泉。
蓼科親湯温泉は、
開湯400年とも1200年とも言われる温泉。
戦国時代には、武田信玄が隠し湯として利用したと伝えられ、 大正、昭和には多くの文人、歌人が温泉保養で蓼科親湯温泉に来館。
戦時中には帝国海軍の傷病院として 負傷した兵士の療養施設になっていた。
当時あった温泉プールはオリンピック選手が夏場以外でも練習できる貴重なプールとして利用されていた歴史があります。親湯温泉の歴史は古く、時代によって多くの方々に様々な形で愛されてきた温泉。
ゆかりのある文人たち
野菊の墓で有名な伊藤左千夫(さちお)、蓼科をとても気に入った伊藤左千夫は、明治42年「蓼科山歌」10首を蓼科親湯温泉で詠みます。そして、この10首は篠原志都児に与えられ茅野市有形文化財に指定(このうち2首は当館の裏山に歌碑として設置されている)
その後、伊藤左千夫を中心にこの地で歌会が開催されるようになり、左千夫を通じて多くの文人歌人がこの蓼科の地を知ることとなり蓼科親湯温泉は文人歌人達の梁山泊やトキワ荘、いわゆるインキュベーター(孵化装置)となった。
蓼科の出湯の谷間末遠く雪の御岳今日さやに見ゆ 篠原志都児
信濃には八十の郡山ありといえど女の神山の蓼科われは
伊藤左千夫
島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明、高浜虚子、柳原白蓮をはじめとした多くの文人歌人達が蓼科親湯温泉の歌や俳句を残し、太宰治が新婚旅行で蓼科親湯温泉を選んだのもこの様な素地があったからなのかもしれません。
世界的な映画監督小津安二郎監督が、蓼科に別荘を持ち創作に勤しんだことは有名な話であり、小津監督の日記を集めた“蓼科日記抄”には蓼科親湯温泉の記述が17箇所にも及んでいます。
その後の蓼科は、多くの文化人や知識人が別荘を構えるようになり、避暑地として全国的に有名になってゆきました。全ては、篠原志都児が伊藤左千夫を蓼科親湯温泉に連れてきたことから始まったのです。よって、蓼科親湯温泉は、篠原志都児、伊藤左千夫、平福百穂の作品を中心に展示。
〜 創業大正十五年
蓼科親湯温泉 四代目
柳澤幸輝 〜
太宰 治
1909〜1948
波乱の人生を送った 無頼派の小説家
柳原 白蓮
1885〜1967
蓼科に別荘を所有、 「大正三美人」と称された
美貌の歌人
瀬戸内 寂聴
1922〜
幅広い活動をする 天台宗の尼僧・小説家
伊藤 左千夫
1864〜1913
蓼科を愛した代表的な歌人
土屋 文明
1890〜1990
諏訪市で教師を務め 歌集『ふゆくさ』を著した歌人
島木 赤彦
1876〜1926
諏訪市に生まれた アララギ派の歌人
斎藤 茂吉
1883〜1953
蓼科の詩を詠んだ 「アララギ」の中心人物である歌人
高浜 虚子
1874〜1959
戦時中、浅間山麓の小諸に 疎開した俳人