2015年10月23日のリブログ。
講談社の一冊本が書庫の中の手の届かないところにあるのでKindleにある電子書籍を写真に貼った。
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佐藤一斎 著 久須本文雄 全訳注 『言志四録』 解題より
「三 著者 (一) 略伝」
(一) 略伝
佐藤一斎は江戸の人で、名は坦たん、字は大道、通称は捨蔵、一斎はその号にして、ほかに愛日楼とも老吾軒ともいう。曾祖父広義(号周軒)は儒学をもって美濃岩村藩の家老となり、祖父信全・父信由(号文永)も藩政を執とった。父は蒔田氏を娶めとって二男二女があり、その次男が一斎で、安永元年(一七七二)十月江戸浜町の藩邸に生まれる。幼時より読書を好み、十二歳頃すでに成人の如くで、嶄然ざんぜん頭角を現わし、天下第一等の人物になろうと志していた。
寛政二年(一七九〇)、彼年十九にして藩の士籍に上り近侍となる。この頃から、のちに林家(林羅山に始まる江戸幕府の儒官の家)の養子となって述斎(一七六八 ─ 一八四一)と号した岩村藩主松平能登守の第三子と共に学び、兄弟の如く親しく交わった。二十一歳の時、士籍を脱して大阪に赴き、暦学者の間はざま大業(号長涯、一七五六 ─ 一八一六)の家に寄寓し、その紹介によって碩儒せきじゅ中井竹山(大阪朱子学派、一七三〇 ─ 一八〇四)に学び、さらに京都に赴いて儒者皆川淇園きえん(一七三四 ─ 一八〇七)にも会して見聞を広めた。寛政五年(一七九三)、二十二歳にして江戸に帰り、大学頭林簡順(名は信敬、一七九三歿)の門に入って、はじめて儒をもって身を立てる。間もなく簡順が歿して、述斎が後継者となり大学頭となるに及んで、改めて師弟の礼を執ったが、旧事の如く共に励んだ。寛政十二年(一八〇〇)、二十九歳の時、肥前(長崎県)の平戸候の招きにより赴きて経書を講じた。文化二年(一八〇五)、三十四才の時に林家の塾長となり、多くの学生の教育につとめた。
文政九年(一八二六)、五十五歳の時、岩村候の老臣に列して国事に尽くした。天保十二年(一八四一)、七十歳の時、述斎七十四歳をもって歿したので、抜擢されて昌平黌しょうへいこう(江戸幕府の儒学を主とした学校)の儒官となる。彼の学歴は益々高く、世は泰山北斗と称して景仰けいぎょうしない者はなかった。その四月には特旨をもって易を将軍家慶いえよしの前で講じた。諸大名が彼を招いて講説を請うもの数十家に及んだ。この頃より国事ようやく多端となり、彼は大学頭(唐名で祭酒という)を助けて外交の文書を作り、幕府の需に応じて時務策を上たてまつるなど、国政上大いに裨益ひえきする所があった。彼は遂に安政六年(一八五九)九月二十四日、八十八歳にて昌平黌の官舎で没し、麻布六本木の深広寺(墓は存するが、肖像画と自筆の六曲屏風は焼失)に葬る。一斎は詩文の才を兼ね備えた碩儒であるが、また熱心な教育家でもあった。
佐藤一斎の略伝を読み、いろいろなことが頭を過よぎった。
・栴檀せんだんは双葉より芳かんばし
・子どもの頃から読書好き
子どもに本を与える適時性(たいみんぐ)は確かに「ある」
・二十一歳の時、士籍を脱して大阪に赴き
学問への興味が止まなかったのだろうか
事情を知りたい
・歴学者の間はざま大業、碩儒せきじゅ中井竹山、儒者皆川淇園きえん
逢うべき先達には必ず逢うことになるのだなぁ
・一個人の博識で終わらず、藩政にも力を揮ふるった
やはり、大人物だったのだなぁ
・人を育てる教育者でもあった
学ぶべきところは山ほどある
『言志四録』の本編の前に、解題があり、書名の由来、内容、著者について、本編を深く読むのに必要な背景を学べるという本書は、大部ではあるが、頑丈な装幀で長年の読書に耐える、まさに座右の書である。
今回の「三 著者 (一) 略伝」にも難しい言葉がたくさん登場した。
やはり、解題の読了後に、「私家版しかばん辞書」をブログにまとめようと思った。
つづく
