2023年6月13日のリブログ。

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「石灯籠」読了する。

森山源五郎孝盛(たかもり)は喜寿を迎えた祝の宴を開いてもらった。百名ほど集まったらしい。34歳で跡目を継いで数十年。娘のおりさに婿をもらった。森山与一郎盛年(もりとし)という。旧姓は土方といい、田沼意次と縁戚になるらしい。

天明四(1784)年、源五郎は小普請組頭(こぶしんぐみがしら)で、友人宅の歌会の席に出席していた。夜五つ半(21時)に半鐘が響いた。

避難する一団とそれを護衛するような武士が駆け抜けるのをみた。

後日、出仕した源五郎は、田沼意次が火事の日のことで、いたく感心しているという話を耳にした。

御徒頭(おかちがしら)に任命されたばかりの長谷川平蔵宣以(のぶため)が火事の日に田沼屋敷を突然訪れ、田沼家の奥向にいる者たちを先導し、下屋敷まで避難させ、菓子(高価な銘菓 鈴木越後の羊羹)をタイミングよく届けさせて、妻女や侍女たちが大喜びで食べたとのことで、平蔵は夕食まで手配していたらしい。

源五郎は、避難誘導して食事の世話をした武士が、かつて「本所の銕」と呼ばれていた面白い旗本であることを聞かされていた。

その旗本は長谷川平蔵といい、源五郎の考える武士たるもののあり方とは、あまりに違うので苦々しく思っていた。

源五郎はなかなか出世しないが、謹厳実直な武士であり、平蔵より八つ年上だったが、平蔵が田沼意次の寵愛を受け、自分より早く出世していたので、なおさら癪に障ったのだろう。

それでいて、娘婿の与一郎が田沼の縁戚であることを生かして立身出世を謀っていたのだった。そのため、なにかにつけて、付け届けやもてなしなどで十両・二十両は飛ぶように出ていった。

その甲斐あって源五郎が小普請組頭(こぶしんぐみがしら)に任ぜられたのは47歳で、関係者への礼金に250両使った。その時平蔵は機転で田沼意次に気に入られ、御先手弓頭(おさきてゆみがしら=源五郎より役職は上位)に抜擢されていた。

田沼意次が失脚して、源五郎は色めき立った。源五郎の仕事に対する意見書が松平定信の眼に留まり、御徒頭(おかちがしら)を拝命し、のちに目付まで栄進を果たす。

そんなとき、平蔵が銭相場を操作して400両儲けたという噂を耳にする。源五郎は火盗改の役宅へ出向いた。目付として平蔵の不備と落ち度を探そうとしたのだろう。

平蔵は人足寄場を視察に行って不在だったが、担当与力の中山為の丞(ためのじょう)が理路整然と嘘隠しもなく説明する。

源五郎は帳簿を検(あらた)めるが帳簿も正確であった。源五郎は後ろめたい気持ちで、火盗改の役宅から逃げるように帰る。

源五郎は御徒目付組頭(おかちめつけくみがしら)に、数ヶ月に渡り平蔵の行状を探らせた。

平蔵の見事な采配を知った源五郎は、田沼の失脚で出世の見込みを失った平蔵が、世間を味方につけるより他に道がないのだろうと思った。

ある日、源五郎は、江戸城の廊下で平蔵から中山与力の無礼を詫びられて、冷や汗をかいた。平蔵は物静かで釈然とした男であって、源五郎はおのれの心に戸惑った。それは、いらだちとも憤り(いきどおり)とも違った。

源五郎は、ある日、松平定信に呼び出され、長谷川平蔵の行状や人となりを尋ねられた。源五郎は平蔵を「小賢しい(こざかしい)男」と断じ、見聞きしたことを定信に伝えた。

松平定信は「源五郎の話を聞いていると、平蔵は、なかなかの器量と認めざるを得ない」と言う。源五郎は、はっと眼をしばたいた。

定信は平蔵を認めていたのだ。

源五郎は、自分の喜寿の祝いの席で出された鈴木越後の羊羹が、平蔵の贈り物だったと知る。源五郎はそれを知って嬉しそうだった。

娘婿の与一郎は、義父 源五郎が平蔵の父親の面影を平蔵に重ねたと思った。

平蔵と源五郎(かつては火盗改長官)の火盗改の仕事のやり方は真逆だった。源五郎は平蔵を認めて褒める。それを聞いた与一郎は、源五郎も平蔵に劣らずに実績をあげたとフォローする。

源五郎は羊羹をうまそうに食べる。その夜から20年近く前に平蔵は死去している。

源五郎と与一郎は庭の石灯籠を見ていた。