2021年4月1日のリブログ。

--

1979年4月1日から始まった私の教育実践の1つの原点だったかもしれません。

昨日に続き、「花子とアン」を見て、若い頃を思い出して感涙しました。

教職2年目、昭和55(1980)年の秋でした。

 

当時、居住地では小学校14校が競う駅伝大会が、市街地を走って行われていました。現在は、交通安全の観点から警察の指導があり、西部地区の公園内を周回する大会となっています。もう30年近くなるでしょうか。

 

駅伝大会の打ち合わせが当時の所属校であり、各校の体育主任が集まりました。所属校と隣接校の2校が当番校だったのです。

各校の体育主任の中に、2年後、同じ年に転勤して同僚となり、数十年来の付き合いとなる、私より3年先輩の男性教師がいました。

 

先輩の当時の勤務校は、農村学区にある私の所属校よりも、さらに山の中にある、全校児童が数十人という、きわめて小規模な小学校でした。複式学級(複数の学年の児童が同じ学級で学ぶ教育)でした。

駅伝の打ち合わせが終わった後、2年目教員の私を気遣い、いろいろと相談に乗ってくれました。そのときに聞いた話を、本日「花子とアン」を見ていて思い出し、思わず涙が出ました。

 

私は、居住地の中央地区の小中学校・高校で育ち、私の父(故人)も、原発事故で全国的に非難を浴びた、あの会社の居住地の営業所に勤務していましたから、1馬力ながら(母は専業主婦で)生活レベルは、まあ、中流と思っていました。

先輩の家庭も、父親は県立高校の管理職でしたから、それなりの生活水準だったと思います。

 

そういうわけで、私は先輩と雑談する中で、学区に貧富の差が大きいことに驚いたことを話し、日々の教育にも配慮が必要であることを語りました。

すると先輩は、ある話をしてくれました。

 

先輩は、朝、立哨当番(正門前で、登校する児童に挨拶運動をする)をしていたとき、何かをこぼさないように四角いものを大事そうに両手でかかえ、ゆっくりゆっくり歩いてくる生徒がいたそうです。

 

先輩は「8時になってしまうぞ!急ぎなさい」と声をかけると、生徒は恥ずかしそうに箱のようなものを隠そうとしたそうです。

先輩が、それは何かと糺しますと、アルマイト製の弁当箱だったそうです。

当時は給食が始まっていない地区もあり、先輩の学校も弁当をもって登校していたようです。

 

生徒が大事そうに両手でかかえていた四角いアルマイトの中には、麦飯に朝の味噌汁をかけただけの弁当が入っていたそうです。

かけたみそ汁がこぼれないように、そろりそろりと歩いてきたとのことです。

 

先輩はかわいそうで涙が出そうになったと言っていました。私もその話を聞いて、泣きそうになりました。

当時の先輩の勤務校では、全校児童の半数は下駄ばきで、着てくるものも野良仕事のボロボロの作業着だったようです。

 

明治・大正の話ではなく、昭和55(1980)年ころの話です。

現在も子どもの貧困が話題になりますが、ほんの40数年前にも貧困はあったのです。

 

本日の「花子とアン」に出て来る、貧困の女の子や当時の子供たちの様子を見ていて、思い出した話です。テレビ画面を見ながら、涙をぬぐっていました。