1998年私は北京の大学に留学をしてしていた。

その際、アメリカ人の留学生が中国拳法を習いたいという事で私も半ば強制的に参加して、少し経った頃の話だ。

「お前は八極拳を学んでおいたほうがいい」

老師がそう言ったとき、僕は思った。「八極拳?なにそれ?太極拳のこと?」と。だって、中国にいるのに、その拳法を聞いたことがなかったのだ。僕だけじゃない。当時、中国人の友人に聞いても「八極拳?それって何かのゲームの技?」という反応だった。八極拳は、超がつくほどのマイナー拳法だったのだ。

しかし、老師はニヤリと笑い、公園の地面に指で「八極拳」と書いた。**その文字が妙に堂々としていたのが不気味だった。**まるで「これは知る者だけが知っている秘密の拳法だ」とでも言いたげな雰囲気だ。

翌朝、僕はその「知る者だけが知っている」八極拳を学ぶために、北京の公園へ向かった。朝の空気は少しひんやりしていて、木々の間から光が差し込んでいた。いつものようにおじいさんたちが太極拳をしている。でも、僕の目的はそれじゃない。僕は謎の拳法、八極拳を学びに来たのだ。

指定された場所に行くと、老師の知人である「師父」が待っていた。白いシャツを着て、すでにお茶を飲んでいる。まるで「まずは心を落ち着かせよ」と言わんばかりの風格だ。

ここから色々あったが、要約するとまずは

「まずは震脚(しんきゃく)だ」と彼は言った。地面を踏み込むことで力を生み出す技らしい。

「そんなの簡単だろ」と思った僕は、適当に地面を踏み込んでみた。

……何も起こらない。

「もっと踏め」と師父が言う。

仕方なく、もう一度強く踏み込む。やはりなにも起こらなかった。

次に「靠撃(こうげき)」という技を教わることになった。肩を相手にぶつける技らしい。「肩なんかで攻撃できるのか?」と疑問を抱いたが、師父が実際に木へ軽く肩をぶつけるのを見た瞬間、その疑念は消え去った。

木が震えた。

「いやいや、これもう物理法則、破壊してない?」と思いながら、自分も試してみる。しかし、僕がやるとただの「強めの体当たり」になってしまう。師父の肩はまるで鍛え抜かれた鉄の塊のようだった。

そして、ここからが問題だった。「じゃあ、実戦形式でやってみようか」と師父が言ったのだ。

その瞬間、僕の脳が「お前、今すぐ帰れ」と全力で警告してきた。いや、待て。まだ八極拳を始めてから15分しか経っていないのに、もう実戦?これは何のスピードラン?

師父が構えた瞬間、「これ当たったら終わる」と本能が言う。しかし、せっかくだし少しは戦いたい。震脚で踏み込み、肩当てを試みる。しかし——

次の瞬間、僕は空を舞っていた。

思いっきり近距離でアメフトのフルタックルを喰らったような感覚だった。いや、これ実際のところ「スポーツ」じゃなくて「戦闘」だろ?

地面に転がりながら、「俺、まだ生きてる?」と確認する。師父は涼しい顔で言った。「八極拳、面白いだろ?」

面白いかどうかよりも、僕は悟った。「八極拳は、人間が扱うものではなく、兵器である」と。これは映画のアクションではない。本物の戦場で生まれた「敵を確実に沈める拳法」なのだ。アメフトの選手がフィールドでぶつかるその衝撃を、ゼロ距離で食らうことになる。そりゃ吹っ飛ぶわ。

結局、その日、一時間ほど八極拳の訓練を体験した。しかし、帰り道では腕も足も**「頼むから今日だけは休ませてくれ」**と言わんばかりに悲鳴を上げていた。

そして、老師の言葉を思い出す。「お前は八極拳を学んでおいたほうがいい」

その意味が、ようやくわかった気がした。
八極拳とは、ただの武術ではなく、体を鍛え、心を鍛え、己を知るためのものだったのだ。

でも、今の僕に言わせてもらうなら、こうだ。

「いや、でももっとソフトな方法で知りたかったよ」

北京の公園の朝にて。1998年秋の朝