貼るのをやめた日”〜そして彼は滑った〜
彼はその日、静かに決意した。
「……もう、貼らない」
銃を愛する者にとって、グリップテープとは信仰であり、矜持であり、沼である。だが彼は、その長き信仰生活にピリオドを打つ覚悟をしたのだ。理由は単純明快――貼りすぎて、もう何が何だか分からなくなったからである。
グリップがまるで瓦版のようになっていた
かつて彼のグロックは、スマートで控えめなスリムなボディだった。だが今となっては、ゴツゴツと突起物だらけ。握るたびに「アウチ!」と声を漏らし、時に指を負傷し、家族からは「お父さん、銃にサボテン飼ってるの?」と聞かれる始末。
レール部分にも貼り、スライドの上にも貼り、マガジンバンパーの底にまで貼っていた。結果として、撃つより先に皮膚が負けるという新たな現象を生み出していた。
ある日のことである。彼はレンジに赴き、リロード練習中に親指の第一関節をグリップテープで削った。出血しながらも実戦のため…」と自分を励まし続けたが、隣で撃っていた青年が一言、「うちの犬もそんな傷してました」と呟いた瞬間、彼の中で何かが崩れた。
そして「貼らない日」がやってきた
その朝、彼はすべての銃からグリップテープを剥がした。ピンセットとシール剥がしを駆使し、時に涙をこらえながら。途中で「やっぱり親指の付け根だけは残そうかな…」と誘惑が頭をよぎるも、「…否ッ!」と己に喝を入れ、全剥がし断行を遂行した。
裸になった銃は、思いのほかシンプルで、どこか懐かしい。ちょうど思春期の息子が髭を剃って少年に戻ったかのような…いや、違う、違うな、牛丼から紅ショウガを全部取り除いたような寂しさだ。
だが彼は、その潔さに酔いしれていた。
「もう迷わない。俺は、素のグリップでいく」
彼はその夜、焼き鳥屋で同好の士に告白した。「貼るの、やめたんだよ」静まり返るテーブル。「えっ」と箸が止まる。「大丈夫?」と心配される。「何があったの?」と詰め寄られる。誰も彼の決断を肯定しなかった。
“滑り”との壮絶な戦い
そして運命の試射日。あいにく天候は雨。屋外レンジは地面が泥だらけ、湿気が銃にもまとわりつく。
彼は構える。そう、裸のグロックを。トリガーに指をかける。そして撃つ――
ズルッ。
「あれっ?」
思ったより後退が激しく、手がすっぽ抜ける。セカンドショット、**ズルッ。**サードショット、ズルズルッ。
「俺、バター握ってる?」
心がざわつく。照準どころじゃない。手汗、雨、金属。全部滑る。滑って滑って滑りまくる。最終的にはスライド操作で親指を肉離れするに至った。
「あのとき貼ってさえいれば……!」
だが彼のプライドが叫ぶ。「もう、戻れない……戻るわけには……!」
家族の無言の圧
その夜、彼は再び銃を分解して磨いていた。すると娘が言った。
「なんで最近、銃のトゲトゲなくなったの?」
彼は苦笑して答えた。
「大人になったんだよ。お父さんは」
妻は何も言わなかった。ただ黙って、彼の手元を見つめていた。
数日後、風呂場に貼られた**「お父さんへ:せめて一枚だけでもいいと思います」**というメモ。添えられたのはグリップテープの切れ端。娘の字だった。
結局、貼った
翌朝。彼は一本のテープを取り出し、トリガーガードの裏にだけそっと貼った。
見えない場所。だが確かにそこにある、ささやかな“滑り止め”。
彼はようやく悟ったのだ。
「人間には、滑らないための“どこか”が必要なんだ」
そして今
今日も彼は撃つ。滑らないように。過剰に貼らず、過剰に信じず、適度に対処しながら。
撃ち終えたあと、マグウェルを撫でてニヤッと笑う。
「おまえ、もうサボテンじゃないな」
そんな彼の目に、時折うっすらと光るものがある。
それは汗か、涙か、滑り止めの残りカスか――
真実は、誰にも分からない。
もしもあなたのグリップが“やたらとトゲトゲ”してきたなら、それは“やりすぎ”の兆候かもしれない。手遅れになる前に、一度問いかけてみてほしい。
「おれ、滑りたくないだけだったよな?」
貼る自由もあれば、貼らない勇気もある。
――でもやっぱり、ちょっとだけ貼っとこか。