学校の授業で、この政治家・・・というより社会運動家の名前を教わった記憶のある方は多いでしょう。
今日は、その日本初の公害事件といわれる 『足尾鉱毒事件』 の解決を訴え続けた
田中 正造
の命日にあたります。
正造は1841(天保12)年に、名主・田中富蔵の長男として現在の栃木県佐野市に生まれました。
父親の跡を継いで名主となった彼は、その頃から領主に対し村民らと共に政治的な要求を行っており、明治維新直前の1868年に投獄された前歴が。
翌年釈放された彼は、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となりましたが、ここでも上司殺害の容疑者として逮捕・投獄されています。
これは冤罪だったようですが、やはり逮捕された背景には彼の性格や言動が当時の上役にたちに反感を持たれていたことがあったそうな。
釈放後郷里に戻り、隣村の造り酒屋の番頭を務めていた正造が区会議員として政界入りしたのは、1878年。
創刊された栃木新聞(現・下野新聞)の編集長となって国会の設立を訴えた彼は、1880年に栃木県会議員となり1882年に結党された立憲改進党に入党。
しかしここでも県令(現在の知事)・三浦通庸と対立、加波山事件に関係したとして1885年にまたしても逮捕されてしまいます。
翌年県令が異動によって栃木県を去ると年末に釈放され、一転して県議会議長に。
そして彼の念願であった国会設立に伴う第1回衆議院議員総選挙が1890年に行われた際は、栃木3区から出馬し見事当選。
そしてちょうどその頃から冒頭の 『足尾鉱毒事件』 が表面化しました。
現在栃木県日光市足尾地区にあった足尾銅山は、江戸時代前期をピークとして銅を算出していましたがやがて下火なり、幕末には殆ど閉山状態になっていました。
ところが明治維新後民間に払い下げられ古河市兵衛が経営するようになると、1885年までに大鉱脈が発見され、年間生産量数千トンという日本はもとより東アジア最大の銅山として復活。
銅は当時の日本における主要輸出品だったことから、採掘・生産が急がれたのですが・・・当然、その反動として排煙や鉱毒ガスによって銅山周辺の木々は枯れて禿山となり、排水に溶け込んだ鉱毒が近くを流れる渡良瀬川に溶け込み、洪水による氾濫でその毒素が栃木・群馬で稲の立ち枯れなどの被害を引き起こすように。
足尾銅山跡地
現場を視察し、1891年と1896年に正造は帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行いましたが、1897年には農民による鉱毒反対運動が激化し、東京に陳情団が押しかけるようになりました。
そして1900年2月、東京に陳情に向かおうとする農民と、それを抑えようとする警官隊が群馬県内で衝突し流血の惨事となり、農民多数が逮捕されてしまいます。(川俣事件)
その2日後と4日後に正造は国会で後世に残る大演説を行いましたが、時の山縣有朋総理は 「質問の意味が分からない」 として答弁を拒否。
それどころか、逆にこの年川俣事件の公判を傍聴中にあくびをしたことを咎められ、官吏侮辱罪に問われ裁判にかけられてしまいます。
そして翌1901年10月にそれまで6回当選を重ねた衆議院議員を辞職し各地で鉱毒被害と救済を訴える演説を行っていた正造は、同年12月10日・・・帝国議会開院式から皇居に戻る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件の直訴を行いました。
しかし途中で警備の警官に取り押さえられたため、書状を明治天皇に手渡すことは出来ませんでしたが、予め妻に離縁状を送った覚悟の直訴をしたおかげで当該事件は全国的に知れ渡ることに。
直訴した直後の正造
そして当時天皇に対する直訴は死罪と決まっていましたが、政府は「単に狂人が馬車の前によろめいただけ」として不問に。
しかしその代わりに・・・と言うべきか、彼は前述のあくびをした官吏侮辱罪で有罪とされ、40日間収監されましたが。
その後も貯水池問題や土地の強制買収に反対する運動を続けた彼は、支援者らへの挨拶回り(資金集め)をしていた途中、今から111年前の1913(大正2)年8月2日に支援者の自宅で倒れ、その約1ヶ月後の9月4日に71歳でこの世を去りました。
亡くなる前年の正造
財産は全て反対運動に使い果たし、亡くなった時は無一文だったそうですが、彼の葬儀には数万人が参列したとか。
彼こそは、まさに国民ファーストの社会運動家だったと言えましょう。
国会であくびどころか居眠りをしていたり、裏金作りに勤しむ国会議員は、彼の爪の垢を煎じて飲むべきでは?😠
※足尾銅山が閉鎖されたのは、正造の死後70年以上経った1973年の事でした。