1923年に始まり、モナコ・グランプリ、インディ500と並ぶ世界3大自動車レースに一つに数えられ、世界中の自動車メーカーが名誉をかけて凌ぎを削る
ル・マン24時間耐久レース
歴史と伝統あるこの大会には、栄光と共に暗い過去も。
今からちょうど70年前の今日・1955年6月11日午後4時にスタートした第23回大会は、その約2時間半後に自動車レース史上最悪の事故に見舞われてしまいました。
同大会はジャガー(英)・フェラーリ(伊)・メルセデスベンツ(独)の3大ワークスの対決が注目されていましたが、事故は彼らが絡んだものでした。
フェラーリのエース、エウジェニオ・カステロッティと熾烈な首位争いをしていたジャガー車を操るマイク・ホーソーンが、周回遅れのオースチン車を抜いた直後にピットインするため急減速。
抜かれたオースチン車が追突を避けようとして左へ進路変更したところに後方から迫ってきたピエール・ルヴェーが運転するメルセデスベンツ車が乗り上げる形で衝突。
ベンツ車は空中に飛び上がってしまいます。(↓)
この直後左側のスタンド側壁に衝突したベンツ車は空中分解。
バラバラになった車体からエンジンやスプリングなどの部品が観客の頭上を襲い、車体は炎上。
逃げ惑う観客と燃え上がる炎・・・現場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
※事故の映像を、こちらでご覧いただけます。(↓)
ドライバーのルヴェーを含めレーススタッフ・観客合計86名が死亡、負傷者200名以上という大惨事になったのです。
事故に巻き込まれたメルセデスベンツ車
しかし観客が一斉に帰路に着くと救急車の走行に支障をきたすと判断した主催者側は、レースを続行。
優勝したのは、皮肉にも事故のきっかけを作ったジャガーで、優勝トロフィーを受け取ったのはホーソーンでした。
事故原因については、亡くなったルヴェーが49歳だったため運動神経の衰えを指摘されるなど数々の仮説が唱えられましたが、5ヶ月の調査の末に査問委員会が出した結論は大会主催者及びレースドライバー・チームいずれにも過失なし、というもの。
しかし事故現場であったホームストレッチは車3台ほどの幅しかなく、しかも緩やかに右にカーブしていました。
コースが完成したのは自動車の最高時速が100kmの時代。
この日、事故が起きた瞬間のレーシングカーの速度は時速175km・・・コースが自動車の技術進歩に追いついていなかったことは明白でした。
そしてこの事故は、レース界に様々な波紋を広げることに。
後日開催予定だったスペイン・西独のグランプリレースは中止。
仏・伊でも政府の許可が出るまでレースは開催できず、スイスではレース自体が禁止されました。
また事故の当事者だったメルセデス・ベンツ社はこの後30年にわたってレースから撤退。
更にはベンツ車のすぐ後ろを走っていて事故の一部始終を目撃した名ドライバーのファン・マヌエル・ファンジオは、翌年以降2度とル・マンには出場しませんでした。
そして3年半後、人々はこの事故の因縁を感じることに・・・。
このレースで優勝したホーソーンは、1958年にF1チャンピオンの座に輝き、栄光に包まれたまま引退を表明。
しかしその3ヶ月後、彼は愛車ジャガーを運転中に前の車を追い越した直後にスピン。
時速150kmという猛スピートで公道を走っていたジャガーは立ち木にぶつかって大破し、彼は死亡してしまいます。
その時追い越した車が、メルセデス・ベンツでした。😨
それは、単なる偶然だったのか?
それともルヴェーやベンツの怨念だったのか?
神のみぞ知るところですが・・・皆さんの判断は、如何に?



