おそらく日本国内で最も年間の演奏回数が多いと思われる・・・しかもそれが年末に集中している交響曲といえば、ベートーヴェン作曲の
交響曲第9番 『合唱つき』
そう、いわゆる〝第九〟でしょう。
この作品がウィーンで初演されたのが、今からちょうど200年前の今日・1824年5月7日のことでした。
日本ではイギリス船が日本近海に出没し、翌年には江戸幕府が 『外国船打払令』を出した頃のこと。
ベートーヴェンに関しては、こちらの過去記事をお読みいただくとして・・・。(↓)
彼は22歳の時に有名な第4楽章のシラーの詩 『歓喜に寄す』 を読んで大いに感動し、その時からこの詩に曲をつける構想をずっと温めていたようです。
まだ交響曲第1番も作曲していない頃のことでした。
その約30年後、全く耳が聞こえない中でこの大作を完成させたベートーヴェンは、この日の初演会場となったケルンスナー・トーア劇場のステージに総指揮者としてステージに立ったのです。
しかし既に聴力を失っていた彼がまともに指揮など出来るわけはなし。
最初の出だしを合図した以外、オーケストラの団員は全員本当の指揮者・ウムラウフを見ており、ベートーヴェンはただ一心不乱に体を動かしていただけ。
それでも、この初演は大成功!
万雷の拍手に会場は包まれましたが、それが全く聞こえないベートーベンは聴衆に背を向け、立ち尽くしたまま・・・。
それを見かねたアルト歌手・ウンガーが彼の手を取ってクルリと聴衆の方を向かせた、というエピソードはよく知られています。
しかしその後は、合唱が挿入されるなど当時としてはあまりに斬新な曲であったため演奏は敬遠されたそうで、再び脚光を浴びるようになったのはワーグナーによるロマン派的解釈が認知されるようになったから。
ちなみに日本での初演は、1918(大正7)年6月1日。
徳島県・坂東収容所においてのドイツ人捕虜らによる全曲演奏とされています。
(※2006年公開の映画 『バルトの楽園』 は、このエピソードを元に制作されました。)
ところで、日本では〝第九〟が年末に集中して演奏されるのは何故なのか?
それは1937(昭和12)年、ローゼンシュトックが新交響楽団 (※N響の前身) の音楽監督に就任した際、「ドイツでは第九を大晦日に演奏している」 と紹介したことが発端だとか。
そして終戦間もない1940年代後半、収入が乏しい日本交響楽団(※N響の旧称)が楽団員の年末の生活を支えるため、大編成で合唱団も参加でき、また当時確実に集客が望めた数少ない楽曲だったこの大曲を年末に演奏し、これがやがて定例化した・・・といわれています。
(※戦時中に学徒出陣の壮行で12月に第4楽章が演奏されたことを受け、戦後になって戦没学生へのレクイエムとして年末の演奏が恒例になった、という説も。)
お時間のある方は、私が中学生時代レコードがすり減るほど聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏(1962年盤)をお聴きください。(↓)
一般的には第4楽章が有名(↑43:00~)ですが、私は40歳を過ぎた辺りから、第3楽章の〝アダージョ〟(26:35~)を聴くと、ついつい涙腺が緩むようになりました。
さて、この演奏を聴いて7ヶ月後の年末に生演奏を聴きたくなった方、あるいはもっとこの大曲を深堀りしてみたくなった方のために、『第九』に関する著書をご紹介させていただきます。
『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』
(中川右介・著 幻冬舎新書)
同著には、前述した初演のエピソード以外に数多の裏話が満載。
そのうちのいくつかをご紹介すると・・・
◆結果的にウィーンでの初演になかったが、その会場決定までにはロンドンやベルリンなど他候補地との紆余曲折があった。
◆女性独唱バートについては、初演前にベートーヴェンの自宅を表敬訪問した美人歌手2人を指名。
しかしその時彼は聴力がなく、彼女らの声を聴けなかったから実力より顔で選んだ?😅
◆ベートーヴェンはかなり財政的に逼迫しており、初演を急いだ。しかし結果的に初演は成功したもののあまり儲からず、2度目のコンサートは赤字…大きく目論見が崩れた。
◆『第九』の演奏を1日2回、入れ替えなしで同じ観客の前で演奏した事例がある。
◆当時の演奏会は大曲を何曲も演奏したため1回4~5時間もかかった。 第九は唯でさえ長かったので、時にはメインの第4楽章を省略したことが・・・。
もし現代で第4楽章を省略したら、観客は絶対に「金返せ!」って怒るでしょうネ。
今はドル箱の『第九』も、当初は儲からなかった・・・そして当時は現代のような著作権・印税なんてものはありませんでしたから、ベートーヴェンの懐具合もかなり苦しかったはず。
そこで彼が編み出した新たな収入源とは・・・あっ、このくらいにしておきましょう。
後は本書をお読みください。😁