間 諜 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

もしあなたが会社々長だったとして、信頼する秘書がライバル会社から放たれた産業スパイだったら、相当なショックですょネ。

しかし、今からちょうど50年前・・・それを遥かに上回るとんでもないスパイ事件がドイツで露見しました。 

 

そのスパイの名は、

 ギュンター・ギヨーム

      Günter Guillaume

 

何と彼は、ドイツ連邦共和国(西独)の首相ヴィリー・ブラントの秘書に成りすましていたドイツ民主共和国(東独)のスパイだったのです。

ギヨームは1927年に音楽家の息子としてベルリンで生まれました。

終戦間際ナチに入党しドイツ空軍に所属していましたが、終戦後はベルリンで写真家に。

そして1950年から東ベルリンで 『人民と世界』 社の編集員となりましたが、その直後から6年間、彼は東独の国家保安省(シュタージ)にスカウトされ、西独潜入の訓練を受けました。

1951年に同じ訓練を受けていたクリステル・ボームと結婚すると、その翌年にはドイツ社会主義統一党(SED)に入党。(2人の間には後に一男が誕生)


訓練を終えた2人は、身分を隠して亡命を装い西独・フランクフルトに移住して喫茶店を経営。

翌1957年に西独のドイツ社会民主党に入党すると、クリステルは同党ヘッセン州南部地区事務所の秘書になり、ギヨームは1964年から党の指導員としてフランクフルトの党事務局長に就任すると、1968年にはフランクフルト市議会議員に当選。

翌年のドイツ連邦議会選挙では地元の候補者ゲオルク・レーバー候補を応援して高得票を獲得、組織運営の手腕を高く評価されます。

レーバーの推薦で彼は連邦首相府の経済・財政・社会政策担当秘書となりヴィリー・ブラント首相の信頼を得ると、1972年には彼から個人秘書に抜擢されます。

ブラント首相は以前西ベルリン市長であり、ギヨームのベルリン訛りがお気に入りだったことも功奏したのでしょうが、彼は首尾よく西独首相の極秘文書や会議議事録、果ては個人情報まで入手できる立場を手に入れました。

 

     

        ブラント首相(左)とギヨーム

 

しかし1973年、西独の防諜機関はギヨーム夫妻にスパイの疑いでマークを開始。

が、敵もさるもの・・・中々シッポを出しません。

ブラント首相の耳には、同年5月にはゲンシャー内相を通じてギヨームのスパイ疑惑が入っていたのですが、何故か彼はギヨームを解任せず。

 

そればかりかブラントは疑惑を耳打ちされた後も妻の祖国ノルウェーでの休暇にギヨーム一家を同行させています。

しかし1974年4月24日、ギヨーム夫妻は自宅で逮捕。 

 

(実際にはその他の要件も重なっていたようですが)この責任を取る形で、ブラント首相は5月7日に辞任に追い込まれました。

 

ギヨームは、逮捕された際、


「私は東ドイツ国家人民軍の士官であり、国家保安局の職員でもある。 士官に対する敬意を払いたまえ!」

と言い放ったとか。

大変誇り高い台詞ですが、これが後の裁判で数少ないスパイ容疑の証拠として採用されたそうですから、皮肉と言えば皮肉。


翌年ギヨームには国家反逆罪で懲役13年、妻クリステルには同8年の刑が下されました。

     

             ギヨーム夫妻

 

しかし1981年、東西ドイツのスパイ交換により彼等は東ドイツに帰国すると、夫妻はカール・マルクス勲章を授与され英雄扱い。

ギヨームは国家保安省大佐に、クリステルは同中佐に昇進。


ところが仕事と私生活は別・・・ギヨームは帰国直後からシュタージで働く15歳年下の看護婦エルケと不倫関係になり、クリステルとは1981年に離婚。

そして5年後に、エルケと再婚しました。

英雄だけでなく、スパイも色を好むってことでしょうか。
007も顔負けですネ。


彼は1995年に腎臓がんにより68歳でこの世を去りました。

そして裏切られた形のブラント首相は、後に自伝の中で、

「自分は東独との関係改善を目指して努力していたのに、まさか相手が裏切るとは思わなかった。」

と記しています。

だとしたら、東独は結果的に自らの手で西独との距離を遠ざけてしまったことに・・・もしギヨームがスパイとしての潜入に失敗していたら、ベルリンの壁は、もっと早く壊されていたのかも。

それにつけても、現在スパイ防止法が無く各国の工作員が好き勝手に動き回り、多くの政治家がハニトラに引っかかっているお人好し日本は、大丈夫なのでしょうか?
😰

 

 

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