永久保存 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

全陸地の11.5%を占め、世界最大の国土面積を誇るロシア。

現在は大統領制の共和国家ですが、かつて帝政を布いていた同国に於いて世界で初めて社会主義革命(ロシア革命)を成功に導いた立役者といえば

 

 ウラジーミル・イリイチ・レーニン

 

今日は、この革命家にしてソ連共産党・初代指導者の命日・没後
100周年にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

レーニンは、1870年に現在のウリヤノフスクに生まれました。

父親が優れた物理学者・教育者として皇帝から評価され貴族に列せられた地元の名士だったにもかかわらず、奴隷や貧困などの階級問題を重視していたことに大きな影響を受けます。


幼少の頃から神童と言われる程成績優秀で中高等学校では全学科全学年を通じて首席で通し、卒業時には金メダルを授与され、カザン大学に進学してラテン語・ギリシャ語を学んでいた彼ですが、その在学中立て続けに不幸に見舞われます。


1886年に敬愛する父親が脳内出血で急死。
 

その翌年、兄が皇帝暗殺計画に加担したとして絞首刑になり、姉も同様の罪に問われ追放処分に。

また彼自身もマルクスの著作に触れ反政府主義に傾倒、学生運動に加わり警察に拘束されたことで大学も退学処分に。


その後論文が高い評価を受けサンクトペテルブルク大学に入学すると、またしてもトップの成績を収めますが、革命家の道を志す彼は1895年に労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を組織。


しかし当局に逮捕・投獄され、1897年にシベリア流刑。

3年後に刑期を終えるとスイスに亡命します。


その後著作などを執筆していた彼は、1905年に起きた 『血の日曜日事件』 以降、ブルジョワジーを除くプロレタリアートと農民の同盟による革命戦略を主張。

 

更に第一次大戦が勃発すると、これを革命に利用しようと画策。

 

1917年に2月革命が起きると、彼はドイツ政府の支援を受けてロシアに帰国。
 

同年の10月革命を指導し翌11月には国家権力が軍事革命委員会に移行する声明、また地主の土地没収を発表。

 

臨時政府として人民委員会議が設立され、レーニンは初代議長に選任されました。

 

権力を握った彼はブルジョア新聞社を閉鎖し、非常委員会(チェーカー)を組織して反政府派の弾圧を始めます。

 

当然のことながら彼に対する反発は強まり、1918年には銃撃を受けて負傷。

 

その後もコミンテルンの創設やロシア正教を弾圧するなど、着々と共産党の地盤を固めていったものの、1922年には何度か発作に襲われたため公務から遠ざかり、翌年には脳卒中を発症して言語・運動障害を併発。

権限はスターリンに委譲され、1924年1月20日に4度目の発作に襲われた翌21日、53歳でその生涯を終えました。


レーニンの政治家としての評価はさておき、私が元葬儀屋として興味があるのが、彼の死後。

 

彼の遺体は保存処理を施され、モスクワに造られた 『レーニン廟』 で永久展示されています。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

この処置を〝エンバーミング〟というのですが、遺体の臓器を摘出し特殊な防腐剤を注入して保存するもの。

火葬を行う日本ではそれほど事例はありませんが、土葬をする欧米では一般的に行われている施術なのです。

 

1年半毎に薬液の交換など定期的に保存処置が取られているそうですが・・・実はエリツィン時代以降、政府は何度か遺体の展示を止めて埋葬しようという計画が持ち上がったのだとか。

 

しかしそのたびに国内から猛反対の声が巻き起こり、実行には至っていません。

既に彼の作り上げたソビエト連邦は崩壊して久しいのですが、ロシア国民は未だに共産党政権時代に強い思い入れがあるようです。

 

果たしてレーニンの遺体は、いつまでソ連のシンボルとして展示され続けるのやら?

もしかしたら、プーチンが土葬させて自分が取って代わるつもり?😱

 

 

          人気ブログランキング