ボクシング・ファンでこの方の名を知らなければ、モグリと言われるでしょうネ。
今日は、日本人として初めて世界チャンピオンとなった
白井 義男 選手
の命日・没後20周年にあたります。
白井選手は、関東大震災直後の1923(大正12)年に現在の東京都荒川区三河島で生まれました。
フライ級の選手になった彼は小柄で、元WBC世界フライ級チャンピオン・内藤大助選手同様、いじめられっ子だったとか。
しかし小学校5年生の時、いじめを訴えた担任教師に 「男だったら闘ってみろ」 とけしかけられ、放課後に決闘。
相手をひっくり返したことで自信を付けた彼は、以後様々なスポーツをするように。
(その決闘したいじめっ子とは以後仲良しになったそうな・・・。)
そんな彼をボクシングの世界に誘う出来事が、小学校6年生の時に起こります。
学校前の広場にサーカスがやってきて、その余興の一つにカンガルーとのボクシング対決があり、友人にけしかけられて白井少年が戦ったのです。
結果的にカンガルーが白井少年の急所を打って反則負けだったそうですが、カンガルーの強さに圧倒された彼は、ボクシングにのめり込むように。
1943年、20歳の時に近所のボクシング・ジムに入門した彼は、なんとその2週間後にデビュー戦を行い、中堅選手を1ラウンドでKOすると、以後8戦全勝。
しかし、時代が白井選手の進撃を止めてしまいます。
それは・・・大東亜戦争。
戦況の悪化に伴い、ボクシング興行自体が行われなくなり、彼自身も1944年に海軍へ。
飛行機整備を担当し、硫黄島の基地に向かう予定だったのですが、その時既に大型輸送機が不足し始めており、彼の硫黄島行きは中止になったことで、戦死を免れました。
終戦後練習を再開したものの、厳しい軍人生活と栄養不足によって持病の腰痛が悪化し、また2年半のブランクもあって、ボクサーとしての選手生命は危機的状況にあり、本人も引退を考えたとか。
しかしここで、運命の出会いが・・・。
ジムに出入りしていたGHQ職員で生物学・栄養学者アルビン・ロバート・カーン教授が彼の才能に気づき、自ら白井選手の指導を買って出たのです。
カーン博士から徹底的な健康管理を施されてスピードとスタミナをつけると共に、当時ピストン堀口選手のラッシュに代表されるように攻撃一辺倒だった日本ボクシング界の風潮から脱却。
ディフェンスを固め相手に打たせずに打つというアウトボクシング・スタイルを身に着けた白井選手は、見事復活して連戦連勝。
1949年1月に花田陽一郎選手を5ラウンドKOで下し日本フライ級チャンピオンになると、更に日本バンタム級タイトル戦にも勝利し2階級制覇。
いよいよノンタイトル戦で1勝1敗だった世界チャンピオン、フィリピンのダド・マリノ選手と決着をつけるべく、1952年5月19日に世界タイトルマッチが行われる後楽園球場特設リングに上がりました。
4万人の大観衆の前で、彼は15ラウンドの激闘の末に判定勝ちを収め、日本人初の世界チャンピオンになったのです。
現在のボクシング界はスーパーとかジュニアとかがついて17階級もあり、かつ団体も5つありますが、当時はたったの8階級で団体はWBAひとつ。
そのチャンピオンベルトの価値は、現在より遥かに高いものでした。
※お時間のある方は、その試合の模様をこちらでご覧ください。(↓)
この歴史的快挙は、まだ敗戦のショックから立ち上がれなかった日
本人に、大きな希望と自信を与えてくれました。
以後マリノとの4回目の対戦を含め、1954年にアルゼンチンのパスカル・ペレス選手に敗れるまで4度世界タイトルマッチを防衛。
翌年5月に同選手と再戦して敗れ引退しましたが、この時のリターンマッチのテレビ視聴率は瞬間最高で96.1%という日本歴代最高記録をマーク。
如何に国民の注目を集めていたかが分かります。
最終戦績58戦48勝(20KO)8敗2分を残して引退した彼は、カーン博士の教えを守ってボクシングビジネスには殆ど手を染めず、解説などに活動を留めました。
一方でその後も日本に住み続け認知症になったカーン博士の面倒を、奥さんと共に見続けたそうです。
その白井さんが80歳で肺炎によりこの世を去ったのは、2003(平成15)年12月26日のこと。
日本ボクシング界近代化の先鞭をつけ、国民を勇気づけてくれた名ボクサーのご冥福を、あらためてお祈り致します。