今日は、戦時中は旧日本陸軍で、戦後は大企業で、そして晩年は政界で・・・まさに〝昭和の参謀〟として活躍し、山崎豊子さんの長編小説 『不毛地帯』 の主人公のモデル(の一人)といわれている
瀬島 龍三 氏
の命日・十七回忌にあたります。
1911(明治44)年に富山県の農家の三男として生まれた瀬島氏は陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進み次席で、そして陸軍大学校を首席で卒業し、それぞれに天皇陛下から軍刀を賜ったという秀才。
1939年に第4師団参謀として満州に赴任、その翌年大本営陸軍部作戦課に配属され軍中枢に長く身を置き、1945年7月関東軍参謀に任命され満州へ赴任。
そこで終戦を迎えた瀬島氏は現地に残りソ連軍との停戦交渉を行った後11年に及ぶシベリア抑留生活を送り1956年に帰国。
その2年後、伊藤忠商事に入社することに。
同社は、創業者・伊藤忠兵衛氏の、「かつて国家の総力を傾けて養成した陸海軍の参謀の中から優れた人材を選び出し、その能力を企業に応用しよう」 という考えを踏襲しており、それに沿って瀬島氏を三顧の礼を持って迎えようとしました。
何度となく断り続けた瀬島氏はその情熱に負け、履歴書を提出したそうですが、その際に
1.小生を面接・首実検の後、不採用というような恥辱はご容赦
願いたい。
2.抑留中言論の自由を奪われた故、それを束縛せざる ことを
お願いする。
3.算盤・筆記はもとより、商業知識は皆無にして且つ不向き
なることを御了承頂きたい。
という 〝御願之儀〟を書き添えたそうですから、まさに大物。
入社3年目で業務部長に抜擢されると、その後軍人時代のコネを生かして防衛庁への防衛システム導入に成果を上げ常務-専務-副社長-副会長-会長を歴任、一繊維商社だった伊藤忠を総合商社へと成長させます。
1981年に同社相談役となった後、1981~87年に第二次臨調・新行革審の委員を務め、人脈を生かして日韓関係の改善にも尽力。
2007(平成19)年9月4日、3ヶ月前に先立たれた奥様の後を追うように、老衰にて逝去・・・95歳で大往生を遂げました。
瀬島氏に関しては戦後の政財界での活躍を称賛する人がいる一方で、陸軍時代の責任回避やソ連側証人として極東軍事裁判に出廷したことなどから同国のスパイ疑惑などを指摘・批判する向きも。
その核心部分について、瀬島氏自身の口から語られることは遂にありませんでした。
前述の山崎豊子さんが直接瀬島氏から取材した際にも、シベリア抑留当初のソ連軍との密約説については頑として回答を拒否されたといいます。
表だった活動はしない、責任は取らない、そして真相は語らない・・・これはまさに官僚の生き様そのもの、だと言えましょうか。
瀬島氏自身の筆による回想録 『幾山河』 も過去に出版されましたが、今日は第三者による検証本を皆様にご紹介致しましょう。
『瀬島龍三-参謀の昭和史』
(保坂正康・著 文春文庫・刊)
台湾沖航空戦の検証を願う電報を彼が握りつぶした結果、大本営がレイテ沖海戦に突入したことで、連合艦隊は実質的に壊滅・・・約3千人もの兵士の命を奪う結果になったそうですが、瀬島氏はその責任を負って後任者のように自決すべきだったのか?
しかし一方で彼が生きていたことにより、戦後日本の政財界にとって大きなプラス面もあったのでは?
その是非は、本書を通じ軍・財・政界を生き抜いた瀬島氏の功罪を見極めた上で、皆様の判断にお任せしたいと思います。