スティーブスティーブ・マックィーンが颯爽とオートバイを乗り回すなど、有名俳優が大挙出演してドイツ軍を翻弄する映画 『大脱走』・・・の話ではありません。
今から79年前の今日、映画の規模を遥かに上回る世界史上最大・1,000名以上の日本人捕虜が収容所からの脱走を試みた
カウラ事件
が起きたことを、皆さんはご存じでしょうか?
場所は、オーストラリア。
観光地として名高いシドニーから約250km西に位置するカウラという町。
太平洋戦争で日本がオーストラリアと戦争で敵対していた事を知らず、「えっ?」 と驚く若い方もいらっしゃるでしょうネ。
当時のカウラ第12戦争捕虜収容所には、南方戦線で捕らえられた日本人約1,000名を含めイタリア人、インドネシア人など約4,000人が収容されていました。
オーストラリア軍はジュネーブ条約に基づき捕虜に十分な食事を与え、かつ日本人には野球・相撲・麻雀を許可するなど、待遇は良好だったとのこと。
当時のカウラ捕虜収容所
にも関わらず、なぜ日本兵たちは集団脱走を画策したのか?
その根底には、日本軍が兵士や国民に叩き込んだ戦陣訓、
『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』
があった、といわれています。
※戦陣訓に関する過去記事は、こちら。
日本兵の約8割が、捕虜になったことを知られ日本に残した家族が差別を受けないように偽名を使った、という事実からもそれが伺えます。 (実際、家族が非国民扱いされた例があったとか。)
捕虜の人数が増えたため、別の収容所に移送する計画があることを知った日本人捕虜は、大脱走を決行すべきか否か、ちぎったトイレットペーパーを使い○×で多数決を取ります。 すなわち
「○」・・・脱走に賛成 → 戦陣訓に倣い、死を選ぶ
「×」・・・脱走に反対 → 生きることを選択
結果は8割が 「○」、つまり彼らの多くは不名誉な生き恥を晒すより、死を選んだのです。
1944(昭和19)年8月5日・・・南半球では真冬の午前2時頃、ラッパの音を合図に日本兵400名以上が一斉に脱走を決行。
しかし当夜は満月で明るく、尚且つ脱走した日本兵が手にした武器は食事で使用していたナイフ・フォークや野球のバット程度。
対するオーストラリア軍は機関銃などの重装備・・・到底太刀打ちできる状況ではありませんでした。
結局、脱走に成功した捕虜はゼロ。
日本兵の死者231名、うち首謀者を含む31名は自決して果てました。
つまり、約1/4の捕虜が〝本懐〟を遂げた・・・というわけです。
これに対し、オーストラリア兵の死者は、僅か4名でした。
この事件はオーストラリアでは知らぬ者がいない程有名だそうですが、肝心の日本では殆ど知られていません。
それもそのはず、日本軍大本営ではこの事実を把握していたものの一切公表せず、また戦後どの教科書にも記載されていないのですから・・・。
いみじくも日本の国家体質を物語っていますネ。
この史実を皆さんにも知っていただき、かつ次世代の若者に伝えるためにも、当時捕虜だった方の証言を元に、その姪御さん・中園ミホさんが脚本を書いたドラマ、
『あの日、僕らの命は
トイレットペーパーよりも軽かった』
の鑑賞をお勧めします。
普段はコメディータッチの役が多い大泉洋さんのシリアスな演技が出色。
日本人が命がけでトライした〝世紀の大脱走〟は、戦争の悲惨さと思想教育の怖さを物語る悲劇だった・・・それを、このドラマのラストシーンが教えてくれます。