個人的には、この方ほど波乱万丈というか数奇な人生を歩まれた医師はいないのではないか? と思っています。 今日は、その
日野原 重明 先生
の命日・七回忌にあたります。
日野原先生は、1911(明治44)年に現在の山口県山口市で生まれました。
父親が牧師であり母親もキリスト教徒だったことから7歳の時に洗礼を受けた彼は、父親の赴任先の関係で大分から神戸へと転居。
旧制第三高等学校から京都帝国大学医学部に現役で合格するも、在学中に結核を患い、1年ほど休学。
1937年に卒業後、同大付属病院で2年間副手として研修を受けた後、1941年に聖路加国際病院の内科医に。
※この際、「東京は東大閥がある」という周囲の反対を押し切って上京したそうですが、結果的に聖路加には学閥がなかったそうな。
1942年に教会の日曜学校で教師をしていた静子さんと結婚。
1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官するも、急性腎臓炎のため入院・除隊。
終戦後の1951年に聖路加国威病院内科医長に就任すると、1958年には現在の形式に近い内科的検査(人間ドック)を考案・実施し、これが急速に全国に広まりました。
留学後同病院院長補佐、国際基督教大学教授などを歴任し、脳梗塞で倒れた石橋湛山首相の主治医を務めた日野原先生がまず最初に巻き込まれたのが、『よど号ハイジャック事件』。
この日福岡で行われる日本内科学会総会へ出席のためによど号に搭乗して事件に遭遇した日野原先生は、犯行グループが 「この飛行機は我々がハイジャックした」 と声明しても多くの日本人は「ハイジャック」の意味を知らなかった中で手を挙げ、
「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」
と説明した、というエピソードを残しています。
医師として体調不良に陥った人質を犯人の要請で面倒を見た後、事件発生4日後に金浦空港で解放されましたが、この事件に遭遇したことで、
「自分が多くの人々に支えられてきたことを実感し、与えられた命をこれからは誰かのために捧げようと決心した。」
と、それまで内科医としての名声を求める生き方を止める程、人生観を大きく変えるキッカケになったとか。
そして1992年には無給で聖路加国際病院院長に就任すると、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を建設。
通常時の機能に対してロビーや礼拝堂施設が広大過ぎると批判をされましたが、その先見の明が証明されたのが3年後の1995年にに起きた地下鉄サリン事件でした。
この時の日野原院長の英断が、被害を最小限に留めたことは、こちらの過去記事でご紹介しています。(↓)
その後も医学界だけでなく幅広くかつ精力的に講演・執筆活動を続けられ、2001年に出版した『生きかた上手』は、120万部以上の大ベストセラーに。
そしてそれまでの功績を評価され、2005年には文化勲章を受章。
90歳を超えてなおスケジュールは2,3年時まで一杯という現役として活躍される日野原先生は、まさにシルバー世代にとって希望の星でありました。
しかしさすがに100歳を過ぎてからは心房細動が発見されるなど体調を崩すようになり、遂に2017(平成29)年7月18日、105歳で大往生を遂げられました。
今宵は久しぶりに生前先生が「自分の葬儀の時に流して欲しい」 と仰っていたほどお気に入りだったフェーレのレクイエムに耳を傾けつつ、 『生き方上手』 のページをめくりながらご冥福をお祈りしようと思います。
※お時間のある方は、こちらでお聴きください。(↓)