そうせい  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

日本史の中ではあまり注目されませんが、今日は江戸幕府第12代将軍

               いえよし
 徳川 家慶

の命日・没後170周年にあたります。

 

    

 

家慶は1793(寛政5)年に第11代将軍・徳川家斉の次男(※母は側室の香琳院)として江戸城で生まれました。

 

長兄・竹千代が早世したため早くから将軍継嗣となりましたが、父・家斉が50年にわたり将軍職を務めたため、家慶が引き継いだのは1837年・45歳の時でした。

そのためか、家慶については〝凡庸〟という評価があり、趣味に没頭して幕政に疎く、家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのみだったことから〝そうせい様〟と渾名されたとか。

しかしそれは、父・家斉が将軍職を譲った後も大御所として実権を握っており、そう答えるしかなかったとも。

その辺りは、家康-秀忠(↓)-家光の人間関係と同じだったのかもしれません。

 

 

その(不仲であったとされる)家斉の死後は、その腹心を一掃して水野忠邦を登用し、天保の改革を実行。

しかし、『蛮社の獄』 を引き起こすなどして、改革は2年で頓挫。

 ※蛮社の獄・水野忠邦に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

すると今度は、水野の後任として弱冠24歳の阿部正弘(↓)を大抜擢。

 

 

それなりに人財の登用をしましたが、彼の不運(?)は、日本が国際情勢の渦に大きく巻き込まれる時期に将軍であったこと。

それは、1853(嘉永6)年6月3日の〝黒船来航〟(↓)。

 

 

幕閣が対応に追われる中、その19日後の6月22日に突然この世を去りました。

死因については熱中症による心不全と言われていますが、一説にはペリーが幕府に白旗を送ったことを正弘から聞いて卒倒し、翌日に亡くなったとも。

身長約154cmと小柄だった〝そうせい様〟にとって、この時代の激変はあまりに負担が大きかったのかもしれません。

家慶の急逝によって急遽第13代将軍となったのが、四男・家定。

しかし家慶は、自分の後継として病弱な家定ではなく、正室・浄観院の甥にあたる一橋慶喜(↓)を考えていたとか。

 

 

ご存知の通り、彼は結果的に徳川幕府最期の第15代将軍になる訳ですが、もし家慶の希望通り13代将軍になっていたら日本の歴史は少なからず変わっていたかもしれませんネ。

 

 

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