今日は、アメリカの産んだシンデレラ・ボーイとも言うべき天才ピアニスト
ヴァン・クライバーン
Van Cliburn
の命日・没後10周年にあたります。
クライバーンは1934年にルイジアナ州で生まれました。
3歳からリスト直系の弟子だった母親からピアノを習い始めた彼は、翌年には既に公衆の前で演奏したという、まさに神童。
6歳で家族と共にテキサス州に転居した彼は12歳の時に同州のコンクールで優勝し、ヒューストン交響楽団と協演しています。
そんな彼を一躍国家的ヒーローにしたのは、現在最も世界的権威のある 『チャイフスキー国際音楽コンクール』 (↓)でした。
東西冷戦の真っ只中だった1958年・・・つまり私の生まれた昭和33年から始まったこのコンクールは、当時のソビエトがロケット開発競争だけでなく、文化的な優位性を西側諸国に誇示する目的で開催されたもの。
しかし皮肉にもその第1回大会で、当時23歳だったクライバーンが見事な演奏で観客を魅了したのです。
ジュリアード音楽院でロシア人教師ロージナ・レーヴィナ女史に師事していた彼のチャイコフスキーやラフマニノフの独特な解釈による演奏は、審査員だったソビエトの世界的ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(↓)がクライバーンにのみ満点の25点を、他の演奏者に0点をつけるという暴挙(?)に出た程、他の演奏者を圧倒していたといいます。
当時のソ連・フルシチョフ書記長も太っ腹で、アメリカの青年を優勝させることに同意・・・これがその後の米ソ関係にも好影響を及ぼしたと言われるほど、センセーショナルな優勝でした。
帰国した彼を待っていたのは、アメリカ国民の熱烈な出迎え。
空港にはアイゼンハワー大統領自らが出迎え、紙吹雪の舞うバレードには群衆が殺到。
後に月面着陸を果たしたアポロ11号の宇宙飛行士に勝るとも劣らぬ熱狂ぶりだったとか。
ブロードウェイでのパレード(1958年)
また同年に発売された彼の演奏するチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のレコードは、ビルボードのポップアルバムチャートで7週連続1位を獲得し、クラシック音楽としては唯一無二の驚異的な販売記録を達成。
その後もラフマニノフ、ベートーヴェンなどのピアノ協奏曲を立て続けに録音・リリースし、まさアメリカを代表するピアニストとしての名声を確立しました。
とは言え、私自身にはクライバーンの演奏を殆ど聴いた記憶がありません。
何故なら、あまりの人気ぶりに練習をする間もなく世界各地の演奏旅行に引っ張り回されたことで彼は徐々に消耗、たびたび休養を余儀なくされ、通常ならこれから・・・という44歳で、引退してしまったから。
私がレコードを集め始めた頃には、殆ど演奏活動をしていなかったのです。
まるで甲子園の優勝投手が親善試合に引っ張りだこになった挙げ句、肩を壊すように・・・今でいう〝燃え尽き症候群〟を患ってしまったのかもしれませんネ。
しかし演奏はしなくなったものの、彼は音楽界に大きな足跡を残しました。
それはチャイコフスキー・コンクールに優勝した彼の名を冠して1962年から始まった、『ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール』。
概ね4年に一度開催される同コンクールは多くのスポンサーが支え多額の賞金が出されること、また優勝者には3年間のツアー契約が結ばれるという、演奏者には破格の待遇が約束されているのです。
そして同大会が日本国内でにわかに注目されたのは、2009年大会で盲目のピアニスト・辻井伸行さんが優勝した時。
私が生前のクライヴァーンを見たのは、奇しくも表彰式で辻井さんの首にメダルをかけ、彼を抱きしめる姿が最期。
その後彼は進行性のガンに侵され、闘病の甲斐なく2013年2月27日に78歳で天に召されました。
東西冷戦中に生まれたヒーローとして、トルーマン大統領以降のすべての米大統領の前で演奏を披露した名ピアニストのご冥福を、彼がチャイコフスキー国際コンクールで優勝した当時の演奏を聴きつつ、祈りたいと思います。(↓)
余談ですが、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの優勝者は、その後あまり活躍できない・・・というジンクスがあるそうな。😰
破格の契約で気持ちが緩んでしまうのか、はたまた彼同様に多忙を極めることで燃え尽きてしまうからなのか?
日本が誇る辻井伸行さんがそうならぬよう、クライバーンには天国からしっかり見守って欲しいものです。