小さな巨人 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、20世紀の最終四半世紀に支那の資本主義化という政策転換に着手した最高指導者、

 

 鄧 小 平 

 

の命日、日本領に言えば二十七回忌にあたります。

     

 

1904年に四川省広安県で生まれた彼は、生家が地主で裕福だったこともあり、16歳でフランスに留学。 

しかし現地では生活資金に困り、一時休学して職を転々としながら食い繋ぐ苦労を味わったそうです。

 

この留学中の1922年、中国少年共産党に入党。 

フランス政府にマークされるようになるとモスクワに転居し、現地の大学で共産主義を学びます。

 

1927年に帰国した後は毛沢東路線に従い、地方県の書記に。

反対勢力によって失脚させられますが、1935年に周恩来の助力で復権。

 

その後は着々と昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選出されましたが、文革後に毛沢東と対立して再び失脚。 

 

その後も復権・失脚を繰り返し、都合3度も失脚したにも拘わらず不死鳥のように復活。 

1978年に来日して新日鉄・トヨタ自動車など各地の工場を視察した直後、改革開放路線へと大掛かりな政策転換を図ります。

 

1989年に起きた天安門事件の際には武力による弾圧を指示したといわれていますが、経済面では改革路線を支持し発展の基礎を築きました。

 

自ら英・サッチャー首相と文書を交わした香港返還が実現する数ヶ月前の、1997年2月19日に92歳の生涯を閉じた彼の遺灰は、本人の遺志により支那の領海に散骨されました。

 

身長150cmという小柄な身体で紅衛兵による暴行・拷問に耐え、3度も復権するエネルギーがどこから湧き上がってきたのか?・・・本当に不思議です。

 

そして私が個人的に最も印象に残っているのは、彼が1978年に来日した際、真っ先にロッキード事件で訴追された田中角栄氏を訪問した時のこと。

   

 

「なぜ刑事被告人となった元首相に会いに行くのか?」

と問われた彼が、

 

「我々は井戸を掘った人の恩を決して忘れない。」

 

とコメントした場面でした。

 

支那の政治姿勢に関しては受け入れ難いものがありますが、この言葉には何度となく挫折を経験した彼の人間性と、器の大きさを感じます。

と同時に、当時から問題化していた尖閣諸島の領有問題に関して
「一時棚上げに」と結論を先延ばしにして、ジリジリと間合いを詰めてくる狡猾さも・・・。

現代日本の政治家が束になっても敵わない強かな政治家だったと言えましょうか。



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