私に限らず昭和世代のゴルファーは、あのシーンを鮮明に憶えているはず。
今からちょうど40年前の今日・1983(昭和58)年2月13日(※現地時間)、ワイアラエCCで開催されていたハワイアン・オープン最終日・・・悲願であったUSPGAツアーの日本人初制覇が実現!
優勝トロフィーを手にしたのは、日本プロゴルフ界の第一人者、
青 木 功 プロ
でした。 しかも最終18番ホールでミラクルショットを放っての大逆転劇は、今や伝説にすらなっています。
1978年にイギリスで開催された世界マッチプレー選手権で優勝し、1980年の全米オープンでは帝王ジャック・ニクラウスと4日間同組で回り優勝争いを演じた末に僅差の2位となってその名を世界に知らしめた青木プロ。
その彼がこのハワイアンオープンに参戦した時は40歳。
しかも当時、調子はあまり良くなかったといいます。
それでも優勝争いを演じた青木プロは最終日最終組でスタート。
しかし前の組で回っていたアメリカのジャック・レナー選手が最終18番をバーディーを奪い19アンダーの単独トップでフィニッシュ。
これに対して青木プロは17番を終わって18アンダー。
最終ロングホールをバーディーで上がってプレーオフ、パーなら逆転負けという状況でしたが、青木選手はティーショットを大きく曲げ、セカンドは左ラフへと大ピンチ。
こりゃあ良くてもプレーオフ、逆転負けの可能性大・・・と多くの日本人は思ったはず。
ところが残り128ヤードをピッチングウェッジで打ったサードショットは、何とワンバウンドして直接カップイン!
キャディーをしていた巨漢のブライアンは 「あのショット、実はハーフトップしていた」 と後日語っていましたが・・・まずはそのミラクルショットを、ご覧ください。(↓ 10秒~)
このミラクル・ショットは、アメリカのゴルフ専門誌が選んだ歴代スーパーショットランキングで堂々の2位。
(※ちなみに1位は、1987年マスターズのプレーオフでラリー・マイズが11番ホールで放ったチップインバーディー。)
この時に使ったピッチングウェッジは、現在世界ゴルフ殿堂に展示されています。
余談ですが、翌日青木選手自身が同じ場所から同じクラブで何度打ってもバンカーにつかまり、グリーンに届かなかったそうな。
いわゆるアドレナリンがもたらした奇跡だった、とも言えましょうか。
このドラマチックな優勝で青木プロは世界的ゴルファーとして押しも押されもせぬ存在となり、バブル経済の隆盛と共にやってきた日本のゴルフブームに火をつけた、といってもいいでしょう。
数年後、私自身が〝ハワイアンオープン観戦&プレー・ツアー〟を企画してハワイに行き、青木選手がミラクルショットを放った18番ホールの左ラフ地点に足を運んでこの時の映像を頭の中でビデオ再生しながら、ひとり悦に入ったものです。😅
さて、先にホールアウトして青木選手の第2打がラフに入ったことを知り、自分の勝利をほぼ確信しながら余裕の表情でスコアカードをチェックしていたジャック・レナー選手。
しかし青木選手のミラクルショットを知った瞬間、一転して頭を抱えたシーンも印象的(↑動画の20秒過ぎ)でしたが、涙を流して悔しがった彼は、翌年同じハワイアン・オープンに出場し17アンダーで優勝。
これもまたプロのブライドを見せつける、見事なリベンジでした。
これ以降米ゴルフツアーで勝利を収めた日本人選手は、40年間で丸山茂樹プロ(3勝)と今田竜二プロ(1勝)、そして昨年同じ大会(ソニー・オープンに改称)でプレーオフの末やはりイーグルで逆転優勝(↓)し現在も活躍中の松山英樹選手が最多の8勝。
そんな思いを抱きながら、お時間のある方はPGAが制作した青木選手から松山選手に至る日本人選手の歴史と、今後の若手選手の活躍を期待する動画をご覧ください。(↓)