プロ野球ファンならば、〝三原マジック〟という言葉をどこかで耳にしたことがあるでしょう。
今日は歴代最多タイ・5球団の監督を務め、日本野球連盟2リーグ分裂前、更に分裂後のセ・パ両リーグ加盟球団での日本シリーズ3種類の優勝を唯一達成し、監督として3,248試合出場の日本プロ野球最多記録を持つ球界のレジェンド、
おさむ
西鉄ライオンズ監督時代
三原さんは1911(明治44)年に現在の香川県多度郡まんのう町に生まれました。
大地主の子として何不自由なく育ち、野球に没頭。
高松中学時代に第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場し、準決勝まで進出。
その後早稲田大学に進学し、1年生から二塁手として活躍。
1931年春季の早慶戦で、後にプロ球界でもライバルとなる水原茂投手を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残しました。
しかし学生結婚したことから野球部を退部し大学を中退、社会人野球の全大阪でプレーした後、1934年6月にプロ契約選手第1号として大日本東京野球倶楽部(後の読売巨人軍)に入団。
あの沢村投手の巨人入団にも一役買いました。
しかし戦時中のため翌年に入営のため退団、戦地で大腿部貫通銃創の大ケガするなどし、1938年に審判とのトラブルに巻き込まれる形で引退・退団するまでの現役期間は短いものでした。
引退後は報知新聞の記者となるものの、再び応召。
終戦後は読売新聞社の運動部記者として勤務するも、1947年9月に成績不振だった読売巨人軍の総監督に就任。
翌シーズンは前年5位から2位に躍進させると、1949年には試合中に相手チームの南海の選手を殴打する〝三原ポカリ事件〟を起こして一時期出場停止処分を受けたものの、巨人軍は戦後初の優勝を果たしました。
しかし同年シーズン途中に(大学時代からのライバル)水原茂選手がシベリア抑留から帰国し、ファンや選手から水原選手のプレーを期待する声が高まったものの、三原監督が起用しなかったことでチーム内から批判が噴出。
シーズン終了後に巨人軍の選手たちが水原を監督に擁立しようと三原排斥騒動を起こしたため、球団は〝総監督・三原、監督・水原〟という窮余の人事を発表。
(実際には選手の排斥運動よりも読売新聞社内の力学でそうなったようですが。)
しかし実質的な指揮権は水原監督が掌握し、三原総監督は肩書のみ・・・退屈しのぎに碁を打つ日々を過ごしたとか。
そんな名将を球界が放っておくはすもなく、その後西鉄(1951~59年)、大洋(1960~67年)、近鉄(1968~70年)、ヤクルト(1971~73年)と監督を歴任。
特に1958年の西鉄時代には、水原監督率いる巨人相手に日本シリーズ史上初の3連敗からの4連勝を成し遂げ、連投でチームを優勝に導いた稲尾投手を 〝神様、仏様、稲尾様〟 と奉ったエピソードは、若い方でも耳にしたことがあるはず。
三 原 水 原
また就任前年まで6年連続リーグ最下位だった大洋を、就任1年目でいきなり優勝させた手腕はさすが。
選手の調子やツキを見逃さない慧眼の持ち主で、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出。
おそらくそのモチベーションとなったのは、自分を冷遇した巨人に対する怨念・復讐心ではなかったか? と私には思えるのですが。
その人心掌握術の一端を、以前拙ブログでもご紹介しました。(↓)
またアテ馬(偵察メンバー)やワンポイントリリーフなどの現代でも導入されている様々な戦術を駆使し、(現代では禁止されている)サイン盗みを行うなど〝魔術師〟の異名を取ったことは有名。
その策士・采配ぶりを知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。
『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』
(立石泰則・著 文藝春秋・刊)
監督業から引退後日本ハムファイターズの球団社長をも務め、1981年に野球殿堂入りを果たした三原さんが糖尿病の悪化による心不全のため72歳でこの世を去ったのは、1984(昭和59)年2月6日のことでした。
もし現在のプロ野球界に三原監督がおられたら、どんな采配をするのか、是非観てみたいもの・・・そんな思いを巡らせつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。