とかく〝シロアリ〟などと揶揄され、国民から非難を浴びる官僚。
しかし世界一優秀・有能な役人ともいわれる日本の官僚の中には、確固たる信念をもって国家・国民のために仕えた方もいる(いた?)のです。
拙ブログでは、国民の命を守るべく奮闘しながら76年前の6月26日に命を落とされた2人の官僚を特別増刊号にてご紹介致します。
まず1人目は、
あきら
島 田 叡 氏
本土の方にはあまり馴染みのない名前だと思いますが、おそらく沖縄県民なら知らぬ人はいないはず。
終戦間際、アメリカ軍上陸時の沖縄県知事を務めた方でした。
島田氏は沖縄の出身ではなく、1901(明治34)年に神戸市の開業医の長男として生まれました。
東京帝大法科に進んだ秀才であり、また野球部・ラグビー部を掛け持ちで活躍したという、まさに文武両道の見本たる人物。
卒業後内務省に入省したエリート・・・だったのですが、己の信念を曲げず世渡り上手ではなかったため、同期の中では出世が一番遅かったとか。
主に警察畑を歩んだ彼が大阪府内務部長だった1945(昭和20)年、当時の沖縄県知事が盛んに東京出張を繰り返した挙句、出張中に香川県知事への辞令が。
その後任として、島田氏に白羽の矢が立ったのです。
要は逃げ出した前任者の後釜として、アメリカ軍上陸間近の沖縄の責任ポストを押し付けられた形。
誰が考えても貧乏クジの辞令・・・奥様はじめ周囲が猛反対する中、島田氏は
「オレが行かなんだら、誰かが行かなきゃならんだろうが。
断ったらオレは卑怯者として外も歩けなくなる。
沖縄軍司令官の牛島さんから赴任を望まれた・・・男として、名指しされて断るわけにはいかん。」
そう言って、再び本土の土を踏まぬ覚悟を決め、日本刀と青酸カリを手に単身沖縄へ。
前任の県知事ばかりか内政部長や那覇市長・学校長・県職員らが次々と逃げ出す中、島田知事は同年1月31日に赴任するや、分散していた職員を県庁に集めて活動を開始。
県民を島北部や県外に疎開させると同時に、酒・たばこの配給を増やし村芝居を復活させるなど、県民の気持ちを和ませるよう心を砕きました。
また自らアメリカ空軍の網の目をかいくぐって台湾に飛び米を買い付けるなど、食料の確保に東奔西走。
こういった献身的な行動に、沖縄県民も県外者だった島田知事に深い信頼を置くようになったといいます。
同年3月に空襲が始まると県庁を那覇から首里に移転。
以後転々と場所を替えて地下壕で指揮を執り、陸軍が首里撤退を決定した時は、「軍がここで玉砕しなければ、北部に疎開した住民が戦闘の巻き添えになる」と反対したとか。
しかし戦局悪化は如何ともし難く、6月9日県職員・警察官に 「どうか命を永らえて欲しい」 と訓示し、解散を命令。
6月23日には牛島満軍司令官・長勇(ちょういさむ)参謀長が自刃。
同行していた新聞記者から投降を勧められた島田知事は、
「君、一県の長官として僕が生きて帰るわけにいくかね。
沖縄の人がどれだけ死んでいるか知っているだろう。」
と敢然と言い放ったといいます。
そして6月26日に地下壕を出た後、消息不明に。
翌27日ピストルで自決した亡骸を見たという証言もありますが、未だに島田知事の遺体は確認されていません。
現在でも、夏の高校野球・沖縄県大会の優勝校には『島田杯』 が授与されているとのこと。
県民のために死を覚悟して最期まで職責を全うした〝官僚の鑑〟のご冥福をお祈りすると共に、現在霞が関に務める官僚が島田知事の生き様を見習うことを切に願う次第です。