雨ニモマケズ | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

表題だけで、もうお分かりですょネ。

今日は、日本を代表する詩人・童話作家である


 宮沢 賢治 


の命日・・・没後90周年にあたります。

 

    

 

賢治は1896(明治29)年、明治三陸地震が起きた2ヶ月後に現在の岩手県花巻市に生まれました。

父・政次郎が質屋を営んでいたため、農民が冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売る姿を見て育ったことが、後の人格形成・作風に少なからず影響があったといわれています。

10年前に花巻市で発見された小学校時代の学籍簿によると、5,6年次は体格は「強」で皆勤賞、成績も10教科すべてに「甲」だったそうですから、まさに文武両道。


旧制盛岡中学を卒業後、1915年に首席で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に進学し、地質調査研究を行う傍ら、仲間と同人誌 『アザリア』 を創刊し短歌・小文を発表。


1918年に徴兵検査を受け第二乙種合格となったため兵役は課されませんでしたが、この年肋膜炎を罹患。

医師の診断を受けた彼は、友人に「あと15年はもつまい」と語ったそうですが、その予見は結果的に当たってしまうことに。

 

     

 

死期を予感したためか終生独身を通し、上京して国粋主義の法華宗教団・国柱会に入信するなどした彼の作風に大きく影を落としたのは、妹・トシの病死でした。


1926(大正15)年に農学校を依願退職、羅須地人協会を設立して農民芸術を説いた賢治でしたが、翌年警察の聴取を受けたため活動を停止。

更にその翌年急性肺炎を発症し、以後2年間自宅療養。

 

その後一時的に回復したものの、1933(昭和8)年9月21日・・・急性肺炎により37歳の若さでこの世を去りました。


意外にも生前に刊行された詩集は、『春と修羅』(1924年)のみ。


親交のあった詩人・草野心平の尽力により多くの作品が刊行されたことにより、彼の名声は没後に高まりました。


私自身が初めて読んだ宮澤作品は、確か教科書に載っていた 『セロ弾きのゴーシュ』 だったと思いますが、それ以降に読んだ 『銀河鉄道の夜』・『風の又三郎』・『よだかの星』 等では、その独特の視点というか宇宙観が印象に残りました。

おそらくその解釈は、読む人によってかなり違うような気もしますが・・・最後に、表題とした 『雨ニモマケズ』 を現代語表記で掲載致します。

 

      雨にも負けず          

      風にも負けず
      雪にも夏の暑さにも負けぬ  

      丈夫なからだをもち
      慾はなく  

      決して怒らず   

      いつも静かに笑っている
      一日に玄米四合と       

      味噌と少しの野菜を食べ
      あらゆることを         

      自分を勘定に入れずに
      よく見聞きし分かり       

      そして忘れず
      野原の松の林の陰の  

      小さな萱ぶきの小屋にいて
      東に病気の子供あれば  

      行って看病してやり
      西に疲れた母あれば    

      行ってその稲の束を負い
      南に死にそうな人あれば  

      行ってこわがらなくてもいいといい
      北に喧嘩や訴訟があれば

      つまらないからやめろといい
      日照り(※原文は〝ひどり〟)の時は涙を流し

      寒さの夏はおろおろ歩き
      みんなにでくのぼーと呼ばれ

      褒められもせず  

      苦にもされず
      そういうものに  

      わたしはなりたい

 

子供の頃には気づきませんでしたが・・・今改めて読み返すと、この詩には仏教思想が色濃く反映されている気がします。

 

命日の今日、冥福を祈ると共にあらためて〝賢治ワールド〟に触れてみては如何でしょうか? 


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