カミソリ | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

最近の外務大臣や外務省のヘタレぶりに、落胆したり怒っている国民は多いはず。

しかしそんな日本にも、かつては欧米諸国と互角以上に渡り合った政治家がいたのです。

今日は、その中の一人、

 陸奥 宗光

の命日・没後125周年にあたります。

      

 

1844(天保15)年に紀州藩士・伊達宗広の六男として生まれた彼は、8歳の時に父親が藩内構想に敗れて失脚し10年間にわたり幽閉されたため、家族は苦しい生活を強いられました。

 

父親の影響で尊王攘夷思想を持つようになった彼は、15歳の時に江戸に出て律令学者・水元成美に師事。

ここで坂本龍馬や桂小五郎・伊藤博文らと交友を持つようになったことが、その後の彼の運命を決しました。

特に坂本龍馬(↓)とは互いにその力量を認め合い、彼の誘いに乗って共に勝海舟の主宰する海軍伝習所に入所したり、彼の勧めで伊達姓を捨て陸奥姓に改めます。

その後龍馬の立ち上げた亀山社中(海援隊)を支え、彼が近江屋で暗殺されるとその復讐のため海援隊の仲間と共に新選組隊士らを襲撃(天満屋事件)するほどの親密な仲でした。

 

そんな彼は明治維新後、岩倉具視の推挙によって外国事務局御用係となり、アメリカとの甲鉄艦受け渡し交渉をまとめるなど手腕を発揮。

その後兵庫県知事・神奈川県令・地租改正局長などを歴任するも、薩長藩閥の強い明治政府に嫌気して官職を辞し、和歌山に帰郷。

1877(明治10)年の西南戦争の際に政府転覆を謀った土佐立志社の関係者と連絡を取っていたことが発覚し投獄されましたが、6年後に特赦で出獄するとそれまで彼の処遇に尽力していた伊藤博文(↓)の勧めでヨーロッパへ留学。

 

 

当地で議会制民主主義や内閣制度を学んだ彼は、1886(明治19)年に帰国し外務省に出仕すると、同年には駐米公使兼駐メキシコ公使として渡米し、日本初の平等条約となる 『日墨修好通商条約』 締結に成功。

 

その後第一次山縣内閣の農商務大臣に就任した彼は、第1回衆院選に和歌山県第1区から出馬し当選。

1892年に第2次伊藤内閣の外務大臣に就任すると、2年後には日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功すると、米・独・仏・伊とも同様に条約改正を果たしました。

また1894年から勃発した日清戦争では英・露との中立化に成功し、日本に有利な下関条約を締結して首尾よく終戦に持ち込むなど、〝陸奥外交〟は高く評価されました。

しかし既に肺結核を患っており、三国干渉(↓)の交渉指揮を病床で執っていた宗光は、1896年に外務大臣を辞任。

 

 

大磯やハワイで療養生活を送ったものの、翌1897(明治30)年8月24日に54歳の若さでこの世を去ったのです。

 

これだけの実績を残した宗光ですが、山岡鉄舟や乃木希典のような武骨な武人が好みだった明治天皇には、その真逆のタイプだったためかあまり好かれなかったそうな。

それでも切れ味鋭い交渉力から〝カミソリ〟大臣と異名を取った彼の外交実績は、日本近代史の中で燦然と輝いています。

その彼が1892(明治25)年に記した 『蹇蹇(けんけん)録』 は、東学党の乱・日清戦争から三国干渉の外交交渉に至るまでの経過が詳細に述べられており、40年近く機密文書として非公開とされた第一級の外交資料・・・歴史ファンには、是非ご一読をお勧めします。

 

    
        
 (萩原延寿・編 中央公論新社・刊)

というより、まず現在の媚中外務大臣やヘタレ外務官僚に読んでもらいたいですけどネ。

今宵は本書を読み返しつつ、明治時代後期・激動の日本を支えた超一級外務大臣の冥福を祈りたいと思います。笑3

 

 

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