今日は、ベーブ・ルースと並ぶニューヨーク・ヤンキースが生んだスーパー・スター、
ジョー・ディマジオ 選手
Joseph Paul DiMaggio
ディマジオは1914年、イタリア移民でシチリア出身の漁師ジュゼッペ・ディマジオ四男(5男4女の8番目)として、カリフォルニア州マーティルスで生まれました。
18歳の誕生日直前だったシーズン末の1932年10月に、兄ビンスが所属していたマイナー・リーグのサンフランシスコ・シールズと契約した彼は、翌年打率.340・28本塁打を放ち、61試合連続安打を記録するなど、早くもその才能を発揮。
1935年には打率.398、34本塁打、154打点を記録してリーグMVPになると、翌年にはペーブ・ルースが引退したヤンキースでメジャー・デビュー。
打率.323・29本塁打・125打点と初年度からルースの穴を埋める活躍をすると、翌年には本塁打王(46本)に輝きます。
そしてルー・ゲーリックがシーズン途中で引退した1939年には初の首位打者とリーグMVPを獲得し、1936~39年のワールド・シリーズ4連覇に大きく貢献。
押しも押されもせぬヤンキースのナンバーワン・プレイヤーに。
そして彼の名を球史に残す不滅の記録・56試合連続安打を記録したのが、1941年。
その後も本塁打王や打点王を獲得するなどヤンキース一筋で活躍。
選手として最も脂が乗るはずだった1943~45年の3年間兵役でプレーできなかったのは残念でしたが、1951年の引退まで実働13年通算成績は2,214安打・打率.325・本塁打361・打点1,537、ワールドシリーズ制覇9回は、スーパー・スターと言われるに十分な活躍ぶりでした。
現役引退後も後進の指導にあたり、大洋やロッテの臨時コーチしても来日。
ヘミングウェイの『老人と海』、そしてサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』やビリー・ジョエルの『ハートにファイア』に彼の名前が出てきたり、コーヒーメーカーのCМに出演しミスター・コーヒーと呼ばれた彼は、
「アメリカ人の成功者の中で、生まれてから1度もレストランや飛行機の予約をしたことがないのはディマジオだけ」
などと言われるほどの有名人でしたが、日本で彼の名が知られたキッカケは、何と言っても有名女優マリリン・モンローとの結婚でしょう。
引退した翌1952年に、映画関係のプロモーターから紹介されてハリウッドで彼女と会食した帰り、「野球のことを何も知らなくてごめんなさい」と謝るモンローに「気にしないで。私も映画についてほとんど知らないから」とディマジオが気遣ったことが馴れ初めとなり、1954年1月にゴールイン。
そして2人が新婚旅行先として選んだのが、日本てした。
しかしその日本で記者の質問がモンローに集中したことに、ディマジオはいたくプライドを傷つけられたとか。
そして日本滞在中も野球関係の仕事で外出することが多く、滞在時の帝国ホテルに一人取り残され退屈していたモンローは、朝鮮戦争に従軍していたアメリカ兵の慰問をオファーされると新婚旅行を中断して単身朝鮮半島に行ってしまったのです。
このすれ違いをキッカケに、自由奔放な女優として仕事で留守がちなモンローと独占欲から嫉妬心で苛立つディマジオの間には喧嘩が絶えなくなり・・・結婚後僅か274日で2人は破局を迎えることに。
しかし離婚後も孤独感に苛まれた彼女を支え続け、復縁話が出ていた(ディマジオ談)そうですが、その数日後モンローは自室で死亡。
肉体関係があったジョンとロバートのケネディ兄弟によって殺害されたと信じ終生ケネディ一族を憎んだといわれるディマジオは、その後1999年3月8日に肺がんにより84歳で亡くなるまで、終生独身を貫きました。
生前 「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった」 と語った彼は、死後20年にわたり彼女の墓に週3回口紅の色を思い起こさせるアメリカン・ビューティーという赤いバラを手向け続けたといいます。
亡くなる数日前、ディマジオが友人に語った最期の言葉は、
「死んだら、マリリンのところへ行ける」
だったそうな。
あの世で再会したモンローとめでたく再婚していることを願いつつ、純愛を貫いたスーパースターの冥福を祈りたいと思います。