今日は、私が最も敬愛する20世紀最高のピアニスト、
ウラディミール・ホロヴィッツ
Vladimir Samoilovich Horowitz
の命日、日本流にいうなら三十三回忌にあたります。
ホロヴィッツは1903年にウクライナの小都市ベルディーチウで生まれたとする説が有力。
※彼自身は1904年に隣街のキエフで生まれたと述べていましたが、これはユダヤ系だった父親が息子を徴兵から逃れさせようと1年遅く申告したためだとか。
幼少時よりアマチュアピアニストだった母親からピアノの手ほどきを受けたホロヴィッツは、1912年にキエフ音楽院に入学。
当時の教授をして「ホロヴィッツには、もう教えるべきことは何もなかった」と言わしめた彼は、1919年に卒業。
翌年からソ連国内でコンサート・ツアーを開始、1926年にはベルリンで初の海外コンサートを開くと、その後パリ・ロンドンでも演奏を行いました。
そして彼の名を一躍有名にしたのは、1928年のアメリカ初コンサートでした。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した彼は、最終楽章をオーケストラが付いてこれない程の圧倒的なスピードで弾き切って聴衆から割れんばかりの喝采を浴びたことが翌日の新聞でも大々的に報じられ、まさにセンセーショナルなデビューを果たしたのです。
同年にRCAと契約しレコーディングを開始すると、1932年にアルトゥーロ・トスカニーニとベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』で初共演。
後にトスカニーニの娘ワンダと結婚し、一人娘ソニアをもうけました。
(しかし彼女は両親よりも先に40歳で他界しています。)
※トスカニーニ&ワンダに関する過去記事は、こちら。(↓)
1940年にはアメリカに居を構え、1944年には市民権も獲得し、アメリカ国内で演奏活動を行うように。
しかし1953年から12年間もコンサートを行わず一時は引退説も流れましたが、1965年にカーネギーホールで〝ヒストリック・リターン〟を果たすと、その後海外でのコンサートもおこなうように再開。
1983(昭和58)年には初来日しましたが、平均4万円・S席5万円という超高額チケットは即日完売となり、私は入手することができませんでした。
1986年に再来日した際もチケットをゲットできず・・・生ホロヴィッツを見逃したことは、私の人生の中で大きな後悔のひとつです。
そして最後のレコーディングを自宅で行った4日後の1989年11月5日、食事中に急逝したのです。
私がホロヴィッツの存在を知ったのは、中学生時代。
音楽の先生がピアノ好きな私を、地元・長野では高名なビアノ教師の音楽サロンに連れて行ってくれたんです。
その時に、ビアニストの聴き比べとしてかけられたレコードのひとつが、ホロヴィッツの演奏だったのです。
それは、このブロコフィエフ作曲の 『トッカータ』。(↓)
「こんな凄いビアニストが世の中にいるのか!」
初めて聴く彼の演奏のド迫力に圧倒された私。
同じ曲を、かつてショパンコンクールに優勝したこともある高名なピアニストの演奏で聴かされたのですが、全く別物・・・横綱と平幕の違いって感じでした。
以来すっかりホロヴィッツ狂いとなった私は、彼のレコードを集め始め、高校入試合格時には友人たちがこぞって腕時計を買ってもらう中、私は当時RCAから発売されていたホロヴィッツ全集をおねだり。
高校生時代は、彼のレコードをかけてムソログスキーの『展覧会の絵』やべートーヴェンの『月光』ソナタを一緒に弾いては悦に入っていたものです。
その後社会人になってからも彼のレコードやCDを買い集め、現在では全集を含め200枚近くのCDを所蔵するまでに。
指を伸ばし肘を鍵盤より下げるという、おそらくビアノ教室では絶対にさせない奏法から紡ぎ出される音色は、他のピアニストの演奏では味わえない独特なもの。
若かりし頃は、F1マシンのポテンシャルを極限まで引き出すドライバーの如き力強く高速で弾きまくり、円熟期は排気量7,000ccのロールスロイスをゆったりと操る老紳士・・・そんな違いを日々CDで楽しんでいます。
『ホロヴィッツと巨匠たち』(吉田秀和・著 河手文庫・刊)
それでは最後に、彼の演奏動画を2つほど・・・まずは、全盛期を代表するスクリャービンの練習曲・作品8-12。
(1968年、カーネギーホールでのコンサート)
続いては、亡くなる2年前の1987年に行われたウィーンでのコンサートから、リストのコンソレーション第3番を、どうぞ。
彼の名(迷?)言に、
「ビアニストは3種類しかいない。 ユダヤかホモか下手くそか。」
というものがありますが、ユダヤ系の彼から見て、下手くそって誰のことだったんでしょうネ?
あらためて、私にとって〝ピアノの神様〟の冥福をお祈り致します。