暗 殺 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

第二次世界大戦後から現在に至るまで、紛争の火種が消えることはない、中東。

延々と続くイスラエルとアラブ諸国の対立の中にあって、一時期それを緩和すべく歴史的な平和協定を結んだのが、エジプトの

 

 ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート 大統領

     Muhammad Anwar al-Sādāt


私を含め中高年代の方にはサダト大統領としてお馴染みだったその彼が凶弾に倒れたのが、今からちょうど40年前の今日でした。


       

 

サダトは1918年、首都カイロ近くのミヌーフィーア県で貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の1人として生まれました。

1937年に王立陸軍士官学校の一期生として卒業後、通信部隊に配属。

間もなく第三旅団附きとしてマンガバドに赴任し、そこで後に彼の前任大統領となるナセルと出会います。

そして彼等は、1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国を、
イギリス軍の支配から脱却させようとする祖国解放運動に加担。

 

1939年に陸軍通信学校に入学し、卒業時には総代として答辞を読んだ彼は、第二次世界大戦中ロンメル率いるドイツ軍に接触しイギリス軍の排除を目論むもののそれを察知され、軍法会議にかけられて投獄の憂き目に。

辛うじて銃殺を免れた彼は、1944年に脱獄してカイロの日本庭園に潜伏すると、終戦後はナセルと共に自由将校団を結成。

1952年のクーデター(エジプト革命)に加わった彼は
ラジオ・テレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行ないました。

 

翌年エジプトは王制を廃止し共和制に移行。
更に翌年ナセルが政権を樹立すると、サダトは国務大臣に就任。

1958年にナセルがシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し初代大統領になるとサダトは連合国務長官となり、その後人民議会議長を経て副大統領に。

そしてナセルが亡くなった直後の1970年10月に大統領就任。

 

それまでナセルが行ってきた社会主義的経済政策から経済自由化への転換やイスラム主義運動の解禁など、大きく方向を転換させましたが、対イスラエル強硬路線は継承。

1973年10月にはシリアと共にイスラエルと開戦(第4次中東戦争)し、イスラエル軍に大打撃を与え、彼は国民的英雄に。

その一方で、それまで手を結んでいたソ連と手を切り親米にシフト。


1977年にイスラエル・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問すると、その翌年にはアメリカ・カーター大統領の仲介により、キャンプ・デービットで冒頭申し上げたイスラエルとの平和条約に合意。(条約締結は翌年。)

 

      


これにより、彼はベギン首相と共に同年のノーベル平和賞を受賞したのですが、当然他のアラブ諸国や国内のイスラム教徒から猛烈な批判を浴びることに。

それを抑えるべく、彼は1981年9月に反対派の知識人や活動家の多くを取り締まり拘束。

そして同年10月6日、第四次中東戦争の勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中、イスラム復興主義過激派・ジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺されてしまいました。

 

    

この銃撃戦でキューバの特命大使やオマーンの将官ら10名も死亡し、次期大統領となったムバラクやアメリカ将官ら38名が負傷。

当時その暗殺劇の様子をニュース映像で見て、衝撃を受けたことを憶えています。

彼の葬儀には、ニクソンやキッシンジャーなど、世界各国から多くの指導者が参列しました。

※その襲撃や葬儀の模様を、こちらの動画でご覧いただけます。

 

 

生前、彼は自分が暗殺されてることを予期していたようで、手記には

「自分は、今まで永年の仇敵とされていたイスラエルとの間に平和を作り上げた。 
これで人生の終わり。 後はただ昇天を待つのみだ。」


と記されていたとか。

その合意が正しかったのかどうかは後々歴史が物語るでしょうが、その命懸けの決断ができる人物こそ、政治家に相応しいと言えましょう。

同じような決断と行動が取れる政治家・・・今の日本に、どれだけいるのやら?

 

 

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