攻めダルマ | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、私のような中高年世代の高校野球ファンには懐かしい名伯楽、
 

 蔦 文也 監督


の命日・没後20周年にあたります。

 

        

 

蔦監督は、関東大震災があった1923(大正12)年に徳島市で生まれました。

徳島商業時代は投手・一塁手として甲子園に3度出場し、同志社大学に進学後は学徒出陣で特攻隊員の経験もされたそうです。

 

終戦後、社会人野球からプロ入りしたものの僅か1年で退団・帰郷。 

 

池田高校の社会科教諭となり、翌1952年から同校野球部監督に就任しました。

 

1971年・夏に甲子園に初出場を果たすと、1974年・春には僅か11人の部員で準優勝を果たし、同校の名を〝さわやかイレブン〟という新語(?)共々一躍全国に轟かせました。

    

 

以後1992年に勇退するまでの甲子園出場は春夏通算14回で37勝。 

優勝3回・準優勝2回という、公立高校としては抜群の戦績を残されました。

 

最も私の記憶に残る池田高校の名勝負は、1983年・夏の準決勝。

 

82年夏・83年春に続いて甲子園3連覇を目指し、水野投手(後に巨人)を擁して勝ち進んできた池田高校とベスト4で対決したのが、あの1年生・KK(桑田・清原)コンビが注目されたPL学園。

 

まだあどけない表情の桑田選手が、当時高校球界屈指の剛腕・水野投手からホームランを放つなどで7-0の完勝を収め、新しいスターの誕生を印象づけた試合でしたが・・・劣勢になってもなお、持前の豪快に振り切るバッティングをさせ続けた蔦監督の采配も天晴れでありました。

 
※この試合のダイジェスト映像が、こちら。(↓)

 

 

甲子園のベンチにドッカと腰を下ろし、どんな場面でも拳を握った腕を横に振り、「打てっ!」のサイン(?)を出し続けた蔦監督の姿・・・今でも脳裏に焼き付いています。


蔦監督は、1974年から高校野球で解禁された金属バットの高反発力に早くから注目。

部員たちに筋力トレーニングを課し、〝やまびこ打線〟と呼ばれた強力打線を売り物にした池高野球。

 

特攻上がりだった蔦監督の指導法は、ご多聞に洩れず超スパルタだったそうです。

 

練習中にミスをするとヘルメットの上からバットで頭をゴツン。 
時にはバットが折れたこともあったとか。


今なら確実に暴力事件沙汰でしょうが、当時の選手はこう証言しています。

 

「現役時代は恨んだけれど、大人になってやっと蔦さんの教えが分かった。」

 

また若かりし頃、蔦野球に接した野球部長も、

 

「特攻隊・プロ野球を経て教師になった蔦さんは、様々な経験を通して人の育て方を会得していたのだと思う。 


一見豪快に見えるが、生徒の性格や特性を見抜いた上での管理野球だった。 


『サインが出たら、どないしてもやるんだ』 と言って、社会に出たら無理難題もやらなければいけない・・・という厳しさを、教えようとしたのかもしれない。」

 

と後述しています。 

 

高校野球の原点・教育という観点からも全国屈指の指導者であったといえる蔦監督が肺ガンにより77歳でこの世を去ったのは、2001(平成13)年4月28日のことでした。

 

こよなくお酒を愛された 〝攻めダルマ〟蔦文也監督がもし今の教育現場を見たら、

「何を生ぬるいことをやっとるんじゃ!」

と、顔を真っ赤にして怒るかもしれませんネ。

 

在りし日の蔦監督の雄姿(↓)を拝見しつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。
 

 

 

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