皆さんが最も感銘を受けた彫刻って、どんな作品でしょうか?
ロダンの 『考える人』 や 『地獄の門』 と仰る方も多いと思います。
もちろん私も彼の作品は大好きなのですが・・・今まで最も鮮烈な印象を受けたのは、この作品なんです。(↓)
実物を観たことはないのですが、小学生の頃教科書でこの 『坑夫』 と名付けられた作品の写真を観た時、私はその荒々しさというか逞しさに、まるで雷に打たれたような衝撃を受けたことをハッキリ憶えているんです。
この忘れ得ぬ彫刻を世に残したのが、
荻原 碌山
今日は、この日本を代表する彫刻家の命日・没後110周年にあたります。
荻原(本名:守衛)氏は1879(明治12)年に我が故郷・信州の安曇野で生まれました。
5人兄弟の末っ子で幼少時から病弱だった彼は、本を読んだり絵を描いたりして過ごしたとか。
そんな彼が17歳の時、相馬黒光(こっこう)さんという女性と運命的な出会いをしたのです。
彼女は同郷の先輩・相馬愛蔵の妻であり、2人は上京後1901年にバン販売店を開業。
1904年にクリームパンを発明して繁盛し、やがて新宿に移転・・・そう、あの新宿中村屋の創業者でありました。
文学や美術に造詣の深い彼女から多くのことを教えてもらった守衛少年は芸術への情熱に目覚め、洋画家を目指します。
1901年に渡米してニューヨークで絵画を学びますが、2年後にフランス・パリを訪れた彼はロダンの 『考える人』 を観て衝撃を受け、一転して彫刻家を志すことに。
その後フランスのアカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだ彼は、学内コンペでグランプリを獲得するなど頭角を現しますが、冒頭の 『坑夫』 はその頃に制作されたものでした。
また〝碌山〟の号も、この頃から使い始めたようです。
そして1908年に帰国した彼が偶然新宿にアトリエを構えたことが、またしても黒光夫人との再会を果たさせました。
同郷の若き芸術家を相馬夫妻は歓待するのですが・・・やがて黒光夫人の身の上相談に乗る内、荻原氏は彼女に恋心を抱いてしまいます。
それは当然ながら許されぬ恋・・・でも、その想いは深まるばかり。
その頃パリにいた高村光太郎に宛てた彼の手紙には、「我 心に病を得て甚だ重し」 と書き記していたそうですから、恋の病は相当重かったことが分かります。
夫の不倫に苦しみながらも離婚せず子供の世話をする夫人に想いだけが募る彼は、作品にその激情をぶつけるしかありませんでした。
彼の代表作 『女』 は、その愛情と絶望が合い混じった感情をぶつけた作品と言えましょうか。
黒光夫人はこの像を見て、「胸は絞めつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」 と語ったとか。
彼女自身、これが自分がモデルであることを直感したのでしょうネ。
しかしこの力作を製作した直後の1910(明治43)年4月22日、まだ30歳の若さで突然この世を去ってしまいました。
死因については様々な説が取り沙汰されましたが、最近の所見では静脈瘤破裂という医師の調査結果が公表されています。
短くはありましたが、その激情に揺さぶられて優れた作品を遺した荻原氏・・・彫刻家人生として、悔いはなかったのかも。
一方の黒光夫人は荻原氏の死後、彼の日記を焼いてしまったそうな。
果たして、その真意は? いや、もう敢えて詮索は致しますまい。