108分 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、クイズからスタートです。

人類で初めて無重力を体験し、大気圏外から地球を見たのは、誰?

私のような昭和世代の方ならピンとくるでしょうが、最近の若者は知らないかもしれませんネ。 

正解は、人類の宇宙開発史にその名を永遠に残すであろう旧ソ連の宇宙飛行士、

 

 ユーリー・アレクセーエヴィチ・ガガーリン 大佐

       Yurii Alekseevich Gagarin

 

彼が人類初の宇宙飛行に成功したのが、今からちょうど60年前の今日でした。

 

       

ガガーリンは、1934年にグジャーツク市(※現在のガガーリン市)で4人兄弟の3番目、大工の子として生まれました。

子供の頃から真面目で勉強家だったガガーリンにとって、パイロットの従軍経験者だった数学教師の存在が大きく影響したようです。

 

金属工場の見習いから技術教育を受けるためサラトフの学校に送られた彼は、そこでエアロクラブに入り飛行機の魅力に取り付かれます。


工業学校卒業後の1955年、彼は空軍士官学校に入学。 

卒業後はノルウェー国境近くの基地に配属されました。

 

そして1960年代に入って米ソの宇宙開発競争が本格化すると、身体能力に優れた彼は宇宙飛行士候補者20人の中の1人として選抜されます。

 

最終的には彼の身長が158cmと小柄なことが狭い宇宙船内の活動に適していると判断され、人類史上初の有人宇宙飛行士に抜擢。 

 

    

     学生時代バスケットボール部主将だったガガーリン(左端)

 

そして1961年4月12日、ボストーク1号に乗り込んだガガーリンは見事大気圏外の地球周回軌道に乗り、地球を1周して無事ロシア領内の牧場に着陸。

 

大気圏外飛行時間・1時間48分、最高々度・約302km、飛行距離・約38,620km・・・但し飛行は地上からのコントロールと自動制御によって行われ、ガガーリン自身が手動操縦することはありませんでした。 

 

とはいえ当時の技術は現在からみれば遥かに劣っており、大気圏に再突入した後は地上7,000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出してパラシュート降下させるという、生存確率が余り高くない荒っぽい帰還方法だったとか。

 

ところでガガーリンといえば、  「地球は青かった」 という言葉が有名ですが・・・実は彼自身、この言葉は口にしていないのだそうな。

 

着陸翌日の記者会見で、彼はこうコメントしています。

 

「地球の明るい表面から、星の見える漆黒の空への色彩豊かなグラデーションを見ることができた。

 

その境界線は非常に繊細で、あたかも帯の膜が丸い地球を包んでいるようだった。それは淡いガルボイ色(※水色、マリンブルー)だった。

 

そしてそのガルボイ色から黒への移り変わりはこの上なく滑らかで、言葉で伝えることは出来ない程の美しさであった。」
(※イズベスチヤ紙)

 

・・・実に叙情的な表現をしているんですネ。

 

多分日本のマスコミが、この中からガルボイ色の部分だけを抜き出して、後日雑誌の見出しや彼自身の著作の題名として使ったものが一般化したものと思われます。

 

それが証拠(?)に、欧米では 「地球は青かった」 という表現は使われていないのだとか。

 

その後の彼は、ソ連の広告塔として世界中を旅行。 敵国アメリカの雑誌の表紙も飾りました。    

 

   

 

1957年に結婚し1962(昭和37)年には来日もしていますが、一方で生活の激変がストレスとなったのか、自傷行為を引き起こしたこともあったとか。

 

祖国の英雄を飛行事故に巻き込みたくなかったからか、その後は宇宙船に搭乗する事は2度となかったガガーリンでしたが・・・1968年3月27日、飛行指揮官になるため教官と共に乗り組んだ戦闘機・ミグ15が、離陸から僅か12分後に墜落。(原因は諸説あるも不明。)

 

34歳の誕生日を迎えたばかりで、妻と11歳と7歳の2人娘を残しての事故死・・・少年時代から夢見たパイロットとして最期を迎えたことが、せめてもの慰めだったかもしれません。

 

彼について詳しく知りたい方は、既にDVD化されている2014年公開のロシア映画

 

 ガガーリン 世界を変えた108分

 

の視聴をオススメします。 ※予告編が、こちら。(↓)

 

 

今は宇宙開発競争に関してはあまり関心が高まっていない感がありますが、人類が再び宇宙空間に飛び出し火星探査に向かう時代は、果たしてやってくるのでしょうか?

 

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