今日は、私の愛読誌・月刊『致知』6月号に掲載された、独自のテキスを使って教師に歴史授業を教える講座を全国各地で開催している、授業づくりJAPANさいたま代表・齋藤武夫氏のエッセイの一部を、抜粋・編集にてご紹介します。
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具体的な歴史の教材として、ここでは誰にでも身近な聖徳太子を取り上げてみます。
太子が生きた6世紀、国外ではある大きな動きがありました。
200年以上、分裂と闘争を重ねてきた国が隋というひとつの国にまとまったのです。
まとまるのは良いことのようですが、困った問題も起きます。
敵を外に求めるようになることです。
当然、日本もそのターゲットでした。
つまり、摂政である聖徳太子にとって、外交は最大の課題となったのです。
煬帝(ようだい)宛てのその手紙には、
『日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。 恙(つつが)なきや。』
と書かれていました。
私は日本の歴史資料の中で最も重要なひとつであるこの手紙を何度か大声で子供たちに読ませた後、次のように話します。
「この手紙を受け取った煬帝は、『東の海に浮かぶちっぽけな国の王よ。 私の家来なのに何という無礼な言葉か』 と真っ赤になって怒ります。
さて問題です。 煬帝は手紙のどの部分に怒ったのでしょうか?」
子供たちは一所懸命に考えます。
一番多い答えは、「日出る処、日没する処」 の箇所について 「これではまるで日本が発展し、隋が没落していくみたいだから」 というものです。
ところが、少し前に私から教わった邪馬台国の授業内容を憶えている子供たちは、また別の見方をします。
「これは天子という言葉に怒ったんだ。日本の国の天皇を天子と言ったのが気にくわなかったんだ。」
卑弥呼は魏の国から親魏倭王の名を与えられました。
これは卑弥呼が魏の配下にある倭国を治める王になる、つまり魏の国の家来になる、と言う意味なのです。
朝鮮半島の高句麗王、百済王なども同様です。
一方の天子とは、天から世界の政治を任される皇帝の意味で、中国の王朝は天子と王を明確に区別していました。
子供たちが言った通り、煬帝はこの〝天子〟という表現に対して激怒したのです。
ちなみに、「日出る処、日没する処」 は東西の位置関係を示す言葉として当時からちょくちょく使われており、決して失礼な表現ではありません。
子供たちはこの手紙を読み解くことで、日本の先人たちが皇帝の家来である倭王となることを拒み、どこまでも台頭に付き合おうとしていたことを理解して行きます。
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私はこんな歴史の授業を受けたかったし、子供たちにも受けさせたいと切に思います。