今日は、昭和世代のスポーツ・ファンならご存知であろう、女子バレーボールの指導者、
小島 好治 監督
の命日・没後7周年にあたります。
1930(昭和5)年に大阪府で生まれた小島監督は、関西大学商学部卒業後の1953年に、大阪・四天王寺高校の教員に。
そして同校バレーボール監督として3度のインターハイ優勝を達成し、指導者としての知名度を高めます。
そして、あの〝東洋の魔女〟を率いて1964年の東京五輪で女子バレーボールを優勝に導いた大松博文監督の後継者として、翌1965年に日紡貝塚(後のユニチカ)女子バレーボール部の監督に就任。
※大松監督に関する過去記事は、こちら。(↓)
〝鬼〟といわれた大松監督以上の猛練習を選手たちに課して粘り強くボールを拾うバレーに徹し、それまでの連勝記録175を258にまで伸ばし、日本リーグでは3連覇を含む5回の優勝を飾りました。
そして1970年に全日本チームの監督に就任したのですが、ここから彼の不運が始まりました。
1972年のミュンヘン五輪では、決勝でソ連に敗れたものの銀メダルを獲得・・・したのですが、男子バレーの金メダル獲得の陰に隠れてしまいます。
全日本監督を辞任すると、後任の山田重雄監督は1976年のモントリオール五輪で金メダルを獲得。
その後当分はその山田監督と交代で監督を務めることになるのですが・・・。
※山田監督に関する過去記事は、こちら。(↓)
1978年に監督復帰すると同年開催のプレ五輪で優勝し、2年後のモスクワ五輪連覇の期待がかかったのですが・・・なんと政治的な配慮から日本はアメリカらと共に大会をボイコットし、金メダルは幻に。
それがチームの士気を削いだのか、翌1981年のワールドカップでは準優勝、1982年の世界選手権ではメダルなしの4位に終わり、小島監督は再び退任。
1985年に3回目の復帰を果たしたものの、同年のワールドカップと翌年の世界選手権両方でメダルを逃すと、Vリーグ設立時の混乱で山田監督が去った後の1995年、彼が率いるユニチカ・フェニックスがリーグ優勝をしたことで、4度目の全日本復帰。
しかしワールドカップで6位に沈み、アトランタ五輪の出場権を逃したことで退任・・・4度の全日本監督時代、遂に金メダルに手は届きませんでした。
確かに山田監督の科学的な分析に基づくIDバレーとは一線を画した、ある意味根性バレーから脱却できなかった感はありました。
ミュンヘン五輪前合宿のあまりの猛練習ぶりを見た地元女性から訴えられたりもしましたから・・・。
ミュンヘン五輪前の猛練習(1972年)
しかしその反面、 コートを離れると冗談を言って選手を笑わせ、お好み焼きをおごることもしばしば。 また酒好きで、飲むと
「あんなきつい練習させて、ほんまにすまんと思ってるのや。」
などと話す気さくな一面もあり、選手からはダミ声の人情派監督として慕われたとか。
ただ厳しいだけでは選手たちはついてこない・・・これは大松監督を始め多くの名指導者が立証しています。
確かに頂点に立つことは出来ませんでしたが、その間の選手育成の苦労は、人一倍だったはず。
そんな小島監督が書いたこの本は、教師・指導者の参考になると思います。
『伸びる人間の条件 心で人を育てて40年 情熱の指導術』
(日刊スポーツ出版社・刊)
「貧乏くじをひいたかもしれん。けどやるしかない。
自分からバレーを取ったら何も残らんで。」
そう語り、監督辞任後も強化本部長・選手団長として女子バレーに貢献した小島監督が肺炎により83歳でこの世を去ったのは、2014(平成26)年5月27日のことでした。
久しぶりに著書をページをめくりつつ、〝不運の名将〟の冥福を祈りたいと思います。